合歓の花と河豚
すでに昨年となったが、その朝のニュースの冒頭で『今日は暦の上では大雪です…』と報じていた。何時もは、こうした情報は聞き流す程度であまり気にもしないが、その日は「大雪」という二十四節気を意識した。
それは、数日前に東北地方で突然50~60㎝の雪が降り、その日『合歓の花と河豚』という本が贈られてきたことにあった。
本の送り主は、何かの会場で隣席したことはある位であまりお付き合いのない大末和廣さんの私家版である。季節ごとに纏めてあるが、むしろ「節気」の説明をつけて節気ごとにエッセーが何篇かあることで強く印象に残っていたばかりだった。
ところで、その『大雪』のページを繰ると、シーボルトの江戸参府の一節から、関門海峡の鳥たちに話が出て、アビという鳥から、キビナゴ漁、さらにスズキの一本釣り、そして海底の浚渫などによる自然環境の変化で、平家鳥と呼ばれるアビがいなくなったことから「平家は関門から二回葬られた」と展開する面白い発想となった文章である。
ランダムに読み進めると、表紙写真に疑似餌針も使用されているほど、釣りに関するお話も数々あって『キス釣りで河豚を食べる』などは、ご夫婦ご一緒の趣味?が釣りだと感じられる。この文章では、釣り上げる一寸大きめの草フグを海に戻していたら、隣の釣り人から”そのフクは食べられますよ”といわれ「じゃぁあなたに」と渡したら、近くの方だったらしく早速持ち帰って調理されてきた。キスを釣りに来て、フクの刺身にありついた、という話である。それを調理されたお相手が水産大出身(もちろん調理師免許所有だった)の方で、初対面で有りながら、そのときの雰囲気に著者、大末さんの人柄さえも伺える展開が感じられた。
『「美味しさの旬感」イコール「健康の旬感」』などは、和仁皓明さんが朝日新聞に食材と調理法を水戸さんの挿絵で3年間連載された後のエッセーで、「和仁先生とは違った視点で美味しさを書いてみたい」とことわって、「味には五つの基本となる味があります」から始まって、-舌の組織、味細胞、味覚受容体、脳では視覚、臭覚、触覚の感覚と味覚を総合して知覚認識となり…季節の食材を見つけどう新しい料理をしようかと考え、料理をしながら出来を想像し楽しく美味しくいただく、これぞまさしく脳の活性化。認知症を恐れるなら食にも興味を持つと良いですね。和仁先生の「美味しさの旬感」の挿絵などを見ていると、お腹がグーと鳴ります。この瞬間に胃からグレリンという健康に必須なホルモンが出ています。「美味しさの旬感」イコール「健康の瞬間」です-と締めくくられていた。引用が長くなった気がするが、この本を読んでいると、興味旺盛、博学の人柄、それでいて平易で読みやすく蘊蓄のある内容、まさにどの章にもそのグレリンが滲み出てくるように感じる。
もう一編、本の題名となった「合歓」については、松尾芭蕉の奥の細道「象潟や雨に西施がねぶの花」からの展開で、-中国の春秋時代、呉王は西施の色香に溺れ、呉は越の国に滅ぼされた。「美しいが傾国の美女」西施に因んで「美味しいが毒のある魚」河豚を西施と呼び、河豚白子は西施乳と呼ぶそうです。合歓木はいつの間にか色恋の話となりましたが、合歓木の名前の由来の一つに夫婦和合の意味もありますので-と結ばれている。
ご専門は何だろう?ともあれ愉快で面白い。博学者に敬服し、もっと吟味して読まなければならない気がする嬉しい贈呈本だった。
写真は大末さんの本のカバーと奥さんの絵「水仙」のカットがあるページから
新たな年への願い
昨年末の29日、お天気が良いのは今日までと火の山に誘われて海峡を眺望した。いわゆる冬の透明感はなく遠くの山などは霞んでいたものの、風もなく、海峡は潮止まりで穏やか、海面はチリメン状態の輝き、遊漁船がまばらに数隻見えた。年末のせいなのか、航行する船舶はほとんどなく、それでも、時折往来する船も見えるので、関門橋の蔭を行き交う船が来るまでを待った。
行く年来る年、微妙に変化する自然の中で、どのように社会が動こうとするのだろうか?新型コロナウイルスの感染拡大が、これほど全世界を揺るがすほどになるとは思ってもみなかった。
感染爆発になって医療機関は、もはや何時受診の受付や診療放棄となっても不思議ではないと報道されてはいても、国民全体からはその深刻さも他人ごとのようで、クリスマスや交通などの人出も、前年に比べて半分まで減少した所はあまりない。
経済の発展と称して、見切り発車したGOTOトラベルこそ停止を決めたが、この援助はしょせん国民の税金に振り掛かって来るのだ。あの戦後の非常事態に、援助などはなかった。貧富の差はあっても皆真剣に生きること今日の生活に知恵を絞って来た。
今、援助が必要なのは医療機関、或いはワクチン開発に対することではあるまいか。目先の経済だけでなく将来的な計画性をもっと真剣に考えてほしいと思い続けている。
コロナ対策から波及して「新しい日常」なんて世の中をハイカラに変化させる言葉が生まれた。教育の現場にオンラインなどといかにも近代的に見える方式も採用されつつある。しかし、本来は生身の「人と人」の出会い、お付き合い、会話は間々田必要だと思っている。特に教育現場の「先生と児童・生徒」間には人間形成の発達時期における「面授」こそ大切ではないだろうか。画一的な教育水準を目指すのは政治の責任かも知れないが、教育現場の安全安心も勿論大切なことに違いはないが、人それぞれの能力、個性の進展などを感知し活かすことが、先生に求められる本来の仕事のはずであろう。
会社や役場などは、テレワークで可能な部署もあるだろうが、何もかもAIとかITとかに頼ることも不可能だろう。政府はITC政策などと新語も登場させた。所詮、医療や災害現場にこれを活用する技術が利用されても、まだまだ生身の人間の判断を必要とすることは多い。人の欲望にはきりがない、ただその方向に大事なことを見失っていないかを常に考えることを忘れまい。
関門海峡の東流西流は、この海峡が出来て以来一日四度向きを変え、それを繰り返している。「新しい日常」と言ってみても大自然にその変化はない。去年今年、おいそれとその変化はないだろう。変わっているのは、人間様が関わっての環境変化であろうか。その変化を、喜怒愛楽、人間の心を取り戻せる方向に導くことを、行政は第一に考えてほしいものである。
師走から新年へ「渡を超す刻」に輝く海峡、行き交う航跡を見つめながら、新しく迎える年こそ良い年に進展することを願いたいと思っていた。
写真は火の山山頂からの煌めく関門海峡
旅の記念品(14)-福島県赤べこ-
会津張り子の中でも最も有名なのが「赤べこ」だが、子どもの魔除けとして伝播し用いられてきた。「赤べこ」は赤い牛の張り子人形で「べこ」とは東北地方の方言で「牛」を意味し、(1)平安時代に蔓延した疫病を払った赤い牛の伝説(2)大地震で壊れた圓蔵寺の虚空蔵堂再建に活躍した赤牛(3)会津地方で天然痘が流行したとき「赤べこ」を持っていたコドンが病気にならなかったなどと創作や伝承の由来がある。令和3年は、辛丑(かのとうし)年。
東北最古といわれるほど会津張り子の歴史は古い。
秀吉に仕えていた蒲生氏郷が、天正18年(1590)会津黒川に42万石(のちの加増で91万石)で移封を命じられて、ここに7層楼の天守を築城し舞鶴の家紋に因んで鶴ヶ城と名付け、同時に町の名を若松と改めた。政策は農業より商業を重視、手工業などを奨励し後の会津藩発展の礎を築いた。
氏郷は国替えを命じられた時、下級武士たちの量になるようにと、旧領地から技術職人などを招聘し、京都からは人形師らを招きその技術を習得させ会津張り子を誕生させた。
張り子は、反古紙(書き損じで使えない紙)など原料になる紙が多く必要で、この城下町には多く発生していた条件も備わっていたのだろう。小刀で造った木型に和紙を幾重にも糊で張り付けて成形、乾燥したのちに切り外して木型を取り除いたのち、もう一度貼り合わせて成形する。これに胡粉で白く下塗りし、その上から赤い染料などをニカワで溶かしたもので塗り、さらに墨などで絵付けをして仕上げる。最後に首の部分には錘などをつけて調整し頭部を紐で吊るすと首をよく振る「赤べこ」の完成である。
愛嬌のある顔に触れるとしばらくユウモラスに、いかにも草でも食んでいるようなしぐさを続ける。
由来の(2)で記した、圓蔵寺は鶴ヶ城から直線距離で約20㎞西方の会津柳津にある大同2年(807)創建したという会津の名刹で虚空蔵尊を祀り福満圓蔵寺とも呼ばれている。慶長16年(1611)この地方に大地震が発生(村の大火という説もある)し、虚空蔵堂を岩上に建立するとき只見川上流の村から大量の木材が寄進され、人々は多くの牛と難儀をしながら運んでいたが、何処からともなく牛の群れが現れ最後まで働いてくれたのがその赤牛たちで、本堂の完成する前に何故か姿を消してしまった。依頼一生懸命手伝ってくれた赤牛を「赤べこ」と呼び、忍耐と力強さの象徴、さらに福を運ぶ「赤べこ」として多くの人に親しまれ昔から,子どもの誕生には、厄病避けと壮健を願って贈り物にするなど親しまれている玩具となっている。
この「赤べこ」も郵便切手のデザインに使用された。背に打出の小槌を乗せた「福べこ」や千両箱を背負った「千両べこ」などもある。
写真は会津若松鶴ヶ城と張り子玩具の「赤べこ」


