Issay's Essay -44ページ目

コロナ禍中の選書会

616 選書会で無心に新型コロナに関する本を見る児童

 学校図書館に納める本を児童に選んでもらうという選書会に、この最近、児童は変わっても、自分の撮影する写真の内容がマンネリ化しつつあることと、写真の発表にさいして学校や家庭の承諾が必要だからと‥何となく制約が生じていることもあってかれこれ1年半、少し遠慮していたが、2年ぶりに出かけて行った。
 今春からは、新型コロナウイルス感染防止のため学校への立ち入りさえ制限され、学校側も、様々な行事が中止になる中で、この選書会も実施取り止めの所もあり、それでも何とかならないかと思案され、2学期になってからは前もってVTRでブックトークを見て、選書だけを少人数時間短縮でなどと学校単位で工夫され、苦心された時間割や方法を考えて実施される学校もあると聞いていた。
 外部のそのまた外部の人間、写真家がそこに出かけるのも学校側として如何なものかと思いながらも、コロナ禍の社会情勢の中で、何とか選書会を実施されている現状を記録したいとお願いして、11月になって選書会同行、校長先生の承諾を受け出来るだけ距離を隔てての撮影だったが、この日は、平素から学校図書などのお手伝いをされている父兄の方々も居られて外部の者という意識が幾らか和らいだ気分にもなり、久しぶりに新鮮な感動で選書会に参加させて頂いたことを嬉しく思った。
 広い体育館内は、換気をよくするために上下部の窓を開放し、図書を置く机の間隔も従来よりも離されていた。
 この学校では1学年40人前後で、従来は低中高学年の3回のブックトークと選書となっていたが「蜜」を避けるために学年ごと6回の実施に変更。それは授業時間1時間の中で2学年の交代を意味していて、実際に子供たちがお話を聞き、本を選び本に親しむ時間が短縮されていることになるわけだ。
 いま社会では、新型コロナの影響下でテレワークが進み、学校の事業もオンラインなどとなり、あらゆる面でIT化が進んでいる状況だが、喜怒哀楽や、先生と児童の伝達などは、表情の繋がりこそ必要な時期年齢層である。人間同士の心の結びつきは、やはり生身の人と人との出会いがあってより信頼と理解が深まるものだろう。
 すでに児童たちは、VTRでブックトークを見ていたとはいえ、本の内容はともかく、本を丁寧にやさしくという接し方、そして選び方などの話は、当たり前のことなのだが表情は一変生き生きしていた。
 これこそ、テレビ画面ではなく直に語り掛けてくる声の魅力なのだ。初めての体験で当然かもしれないが1年生の表情が一番に輝いていたのが印象的だった。2年生の児童がコロナウイルスの本に興味を持ち真剣に見入っていたのには驚いた。それも一人だけではなく各学年に興味を持つ姿があった。今回は、みんな違ったマスクをして可愛かったのも被写体として感動的だったし、マスクで口元は隠れていても、からだ全体で本の内容までも感じている姿態が発見できたことも新鮮な事だった。
 高学年の場合は、選書会には慣れていてVTRですでに選ぶ本はほぼ決めている児童もいて、その自由時間、本に親しむ時間が増えているのは「ゆとり」であっただろうか?
 ともあれ子どもたちは「みんな本が大好き」ということを再確認した一日だった。
 写真は、選書会で無心に新型コロナに関する本を見る児童

『へろへろ画帖』のこと

615 渡辺勝さんの『へろへろ画帖』と近木圭之介さんの『詩画集』より

 先日、ふとしたことで鎌倉在住のデザイナー渡辺優さんの『へろへろ画帖』という本を頂いた。私は直接、渡辺さんと会ったことは無いが、まんざら知らない方でもない。定価もないので自費出版であり、「あとがき」と銘打ってはないが、本になるまでのいきさつが記されていたので先ずこれを書いておこう。
 「1929年(昭和4年)に、この世に出てきたことになっていますから、今や、クタバリカカッタ老人といわれても仕方がありません。体はかなりヨタヨタ、ヨロヨロです。…少し動き回ればすぐにヘロヘロになってしまう。でも、ただボーっとしているのでは面白くないので、気まぐれに落書きレベルの絵を描いて…そんな絵が溜まりました。‥‥選別の過程で建築物や道具の類は本業としてきたデザイナーとしての見方が入り込んでしまい、絵としての自由さを妨げてしまうので避け、人間を題材にしたものを選びました。この本を手にして、ほんのちょっとでも時間を割いて下さる方に、お礼申し上げます。そしてヘロヘロ老人の道楽に付き合って、本作りに協力して下さった方々に感謝いたします」
 可成り要約したが、こんな、ゆとりのある人生っていいなぁというのが実感。
 「ただボーッと‥」は面白くないというのが気骨を感じて素晴らしい。
 絵は黒色、丸や四角などのアクセントの青色、いってみれば2色刷りだが、紙の白色が黒色と対比して、流石にデザイナーの装丁だなぁと感心した。
 64頁をパラパラとめくればすぐに見終わるが、それをさせないのが単なる落書きではなく、絵としての魅力であろう。白と黒と青が活きていることで、陰と陽、光と闇、静と動、直線と曲線、線と面、様々な対比が、憂い、嘆き、哀しみ、喜び、希望などと人生の機微を語り、ときに鳥や獣や植物などもあって環境や宇宙まで連想させ、混とんとした社会さえも想起させる凄さがあった。
 省略された絶妙な線描による表情が、それらを浮き彫りにして、それは、とても「ヘロヘロ」ではないものを感じた。
 下関に、明治45年(1912)生まれで平成21年(2009)に97歳で亡くなられた近木圭之介という詩人、俳号「黎々火」という方が居られた。種田山頭火と親交があり、編み笠をかぶった後姿を写真に納めたことでも知られるが、自らも自由律俳句を荻原井泉水に師事し「言葉のない日 日没とパンがあれば」などを残されている。
 今回、贈られた渡辺さんの『へろへろ画帖』の絵に、私は、近木さんが永年描かれた俳誌『早雲』の表紙絵や後に手すさびに描かれた絵に、ふとダブって共感した。
 それは、昭和の戦中戦後を駆け抜けた〈時〉の疲れが、言うに言われぬヘロヘロ感として創出したものと感じたのかも知れない。
 それは決して力の抜けたものでは無い、気概であり信念であった。
 渡辺優さんの本は「モダンでユーモアたっぷり」という人もある。
 写真は渡辺勝さんの『へろへろ画帖』と近木圭之介さんの『詩画集』より

旅の記念品(9)-酒田の獅子頭文鎮-

614 酒田の獅子頭文鎮(雄雌一対)と北前船を浮かべた公園の下関港標識

 山形県酒田市を訪問したのは平成19年(2007)である。すでに、北前船シリーズで酒田市を紹介したが、面積600平方キロメートル、人口は約12万人だった。庄内平野を蛇行する最上川の河口、庄内米の集積地、船運の要、港町として発展してきた町で、背後には標高2236mの鳥海山がそびえ、河口には冬になると1万羽を超す白鳥が飛来する。
 町中の日和山公園には、常夜灯や木製六角灯台が建ち、河村瑞賢の銅像や、西廻りの航路を示す広い庭園に、実物大2分の1という北前船の模型を浮かべた池があり、その下関を表した場所には「フクの絵と下関港」の標識があった。
 早い時期に自前の船で北前交易を始めた本間家は「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と俗用にまでうたわれるほどになった豪商、ここは撮影禁止だったのが印象に残っているが、ほかにも豪商・鐙屋などもあった。
 この町は、昭和51年(1976)10月29日夕方、映画館から出火して、当時26mを超す西風が吹いていて、炎は忽ち酒田の町を焼き尽くし翌朝降雨があったことも幸いして延焼を食い止め、22万5千㎡(22.5ha)を焼き鎮火させた。被害は1774棟を焼失、被災者3300人。一般市民に犠牲者は無かったが消防組合の消防庁1人の死者があった。因みに本間家は土塀を巡らした敷地に樹木が立ち並んでいて類焼を免れている。
 この酒田大火のあと、酒田市民は逞しく全市民揚げて復興活動にかかり、もちろん全国からの援助もあって、2年半後の山王祭(酒田祭り=5月19日~21日)には復興祭が行われ、その際に酒田獅子頭が復興のシンボルに選ばれた。
 獅子頭とは、獅子舞に使用する木製の獅子の頭部をかたどったもので、酒田では慶長から宝永、正徳年間ごろ奉納され一旦中断があったものの、最上川が度々氾濫することで安永年間に再興、災害・悪霊避けの象徴だったことから盛んに獅子舞の奉納があった。
 大火後の復興宣言以後、「全国から復興を支えてもらったことをわすねで、恩返しをしていかねばなんねで」例えそれが世代を超えたとしても、二度と災害を繰り返してはならないと市民が願った。そこで、大獅子頭(山王〈黒〉・日和〈赤〉)(松〈黒〉・桜〈赤〉)の4体、さらに平成10~11年に仔獅子(みなとくん〈黒〉・麻衣ちゃん〈赤〉)(海くん〈紺〉・小波ちゃん〈朱〉)の4体も誕生させて、その志を伝承するためにこれらのモニュメントを市内に登場させている。
 獅子頭文鎮は、酒田鋳造㈱が創作し、昭和62年(1987)に酒田市の一店一品運動推奨品として製作されたもので、耳の立った黒塗りの雄獅子(陽)と耳の垂れた赤塗りの雌獅子(陰)があって、たまたま買い求めたが、現在果たして製作されているかどうかはわからない。私は結構これを「錘」として利用している。
 写真は、酒田の獅子頭文鎮(雄雌一対)と北前船を浮かべた公園の下関港標識