旅の記念品7 -鎌倉彫-
小学生のころから『鎌倉』という歌が何となく耳の底にあって、「七里ヶ浜」「建長円覚」「大仏さん」など、それとなく親しみを感じていた。
「七里ヶ浜の礒づたい稲村ヶ崎名将の剣投ぜし古戦場/極楽寺坂超え行けば長谷観音の堂近く露座の大仏おわします/建長円覚古寺の山門高き松風に昔の音やこもるらん」などとまさに名勝、古跡、歴史が歌いこまれたご当地ソングである。
その後、下関功山寺と鎌倉円覚寺の仏堂の形式が同じであること、円覚寺には田中絹代のお墓があることなどと知って、鎌倉には事あるたびに出かけた。遂には子どもも結婚して隣接する藤沢市に住み、湘南の海からの富士山容姿を散歩の度にメールで送って来るので、まさに鎌倉界隈とつながりが深くなった。
ただ湘南の海からの富士山は、サーファーたちで賑わっている。結構な事であるが、この風景で思い浮かべるのが「真白き富士の嶺‥」の歌である。非常に美しい風景を連想させるが、実は哀しみ深い鎮魂歌である。明治43年(1910)に、女子中学生12人が乗ったボートの転覆で、七里ヶ浜辺に犠牲となった事故を追悼したものである。
湘南の海岸線を通るたびに、新田義貞の鎌倉攻めを思い、力尽きて海に沈んだ少女たちを思ったりしていた。
三方を山に囲まれ、海がすぐそこに広がる歴史的遺産の多い鎌倉。鶴岡八幡宮、鎌倉大仏、鎌倉五山などの観光地も多いいが、毛利氏源流の史跡を巡ったり田中絹代のお墓に参ったことなどは忘れられない。
人口は18万人ほどの都市だか、首都圏に近い観光地として活気がありバライティーにとんだ観光も出来る。老舗のお菓子屋さん、新しい洋菓子屋さんなどとショッピングも楽しめる。お土産品となると定番は「クルミっ子」「鳩サブレ-」「レーズンウオッチ」「半月」「力餅」や「わらび餅」などなど。
忘れられないのが伝統工芸品の「鎌倉彫」。カツラやイチョウの木地を成形して文様を彫って漆仕上げする。起源は鎌倉時代、中国から漆を塗重ねた面に模様を彫った美術品が伝わり、これにヒントを得た仏師たちが木彫り漆塗りの技法で仏具を製作したのがきっかけ、明治時代になってから神仏分離令で仏師の仕事が減ったとき、仏師たちの新しく活躍する場として日用品を鎌倉彫の技法で造るようになって民衆の生活に馴染むようになった。「鎌倉彫」は昭和54年(1979)1月12日、伝統工芸品に指定されている。
日用品と言ってもピンからキリまで、例えばアクセサリーに帯留め・ブローチ・ネックレス・ループタイ・根付け・・小物で名刺盆・ペン皿・写真立て・ICカードケース、さらに箱物、花瓶、食器類、各種お皿・お盆、茶道具、姫鏡手鏡、高級なタンスから下駄などまで・・、その図案は、花・葉・樹・野菜・果物などの紋様・唐草・刀目・幾何学・お雛様・兜などがある。お値段も様々で、そこは日本を代表する漆器であり堅牢さは何代にもわたって使用される、ところが最近の電気機器、オーブンや電子レンジには漆器独特の弱点もある。しかし、そのしっとりとした存在感は、ふとした日常の生活に密度の高い空間、深遠さを与えてくれる。私は安い茶托を記念に買ってきたが、それでも潤いと親しみがそこにはある。
ふと、鎌倉遊覧の若者たちをテレビ映像に見ると、やはり「1・真白き富士の嶺 緑の江の島/仰ぎ見るも 今は涙/帰らぬ十二の 雄々しきみたまに/捧げまつる 胸と心 2・ボートは沈みぬ 千尋の海原/風も浪も 小さき腕に/力も尽き果て 呼ぶ名は父母/恨みは深し 七里ヶ浜辺 -略-」の、歌の心も感じてほしいと思ってしまう。
写真は鎌倉彫の茶托と鎌倉大仏
日本遺産と言われても(16)旧リンガー邸(藤原義江記念館)(2)-2
瓜生商会の支配人リードが、下関の山荘に住んでいるとき、下関の花街・稲荷町の琵琶芸者・坂田キクと親しくなって藤原義江は誕生する。ところが、キクは義江を連れて逃げるようにして九州、大阪に過ごした。それは、あまりにも不条理な離別問題であった。
義江が11歳のとき、キクは手紙をしたためて、義江をリードと会わせるために下関行の汽車に乗せたのだが、リードは受け入れを拒否した。こうした事情は、義江の伝記、或いは古川薫氏の直木賞受賞作品『漂泊者のアリア』に譲るとして、瓜生商会の有山支配人などの周旋で、瓜生寅社長が、義江の窮状を知り学園生活の援助をした。後に、わが国のオペラ会の草分けで藤原歌劇団を主宰した藤原義江となるのである。
ところで、国際港として発展する関門海峡の要衝を一望する紅石山西端の景勝地に建つリンガー邸は紅葉館と名付けられていた、その後、初代F・リンガーの子息S・A・リンガーは、その子マイケル並びにバニア兄弟のために、昭和11年(1936)鉄筋コンクリート白亜3階建ての居館を新築。当初これは臨峡館と命名されたが紅葉館が老朽解体されたとき、新館にその名・紅葉館が移った。現在の旧リンガー邸である。しばらく私邸として使用されたが、その後、時局が悪化して同商会の支配人も日本を離れてしまうと同時に、下関における英国領事館の業務も設立50年目に瓜生商会も、昭和15年(1940)末に機能を停止し幕を閉じた。第2次世界大戦(太平洋戦争)の勃発。
終戦後、旧領事館は下関市が購入し、派出所などに利用され、一時は解体の危機もあったが市民の存続要望などもあり、考古館などに使用された。結局、平成11年(1999)には重要文化財に指定。平成26年(2014)保存補修工事も完成して一般公開されている。
さて、阿弥陀寺町3-14の高台にある、旧リンガー邸(藤原義江記念館)は、戦時中、白亜を黒色にカムフラージュ惨たる状態で戦火を免れ再び英国領事公邸に復したが、英国領事公邸の移転に伴い日本に譲渡、これが紅石山神域にあったことから赤間神宮境内が所管することになった。
建築面積133㎡。その形態は、単純な3階建て・2階建て・玄関部を組み合わせたもので、2階部分の上には、海峡に向けて眺望のきく屋上テラスがあり、右端部分に暖炉用の高い煙突を立て、対称性を崩している。外観上はまったく装飾が無い壁面には、それぞれ形を変えた外開きの窓が大きく開かれている。
出入り口は、玄関部の側面に設けられ、正面の嵌め殺し窓によって海を展望する。広く取られた玄関ホールはこの建物の一つの特徴であり、奥には緩やかな階段が設けられ、ホールの右側には暖炉を設けた応接室、左手は食堂が配置されている。2・3階を含めて、いずれの部屋からも海の眺望に十分な配慮がなされている。台所には上階に配膳するためのリフトがあるという。
2階には、居室3室に風呂、便所、3階には居室2室に簡単な炊事場と風呂、便所が配置されている。
内部においても、壁・天井は白壁で装飾は無く、むしろ構造を生かす設計手法が採用されている。これは、当時のいわゆる白いモダニズムとして全国的に流行したスタイルといわれている。
昭和53年(1978)より、藤原義江に関する資料を展示する記念館として利用されている。
(下関市史及び下関市教育委員会・藤原義江記念館・旧英国領事館の資料の他、古川薫著『漂泊者のアリア』・郷土史家安富静夫氏の資料などを参考にした)
写真は藤原義江の資料などを並べるホールと展示された椅子の背もたれに施された彫刻
日本遺産と言われても(16)旧リンガー邸(藤原義江記念館)(2)-1
旧リンガー邸(藤原義江記念館)は、当時、英国系商社ホーム・リンガー商会の代理店として設立された瓜生商会が、ホーム・リンガー商会の社長の息子であるマイケル・リンガーとバニア・リンガー兄弟のために、鉄筋3階建ての居館を昭和11年(1936)現在地に建てたとされている。
ここで、ホーム・リンガー商会と瓜生商会、藤原義江についての関連性を纏めておきたい。
先ず、ホーム・リンガー商会というのは、天保9年(1828)にイギリスの英国国教会牧師の次男として生まれたフレデリック・リンガーが、中国の広東省にある「フレッチャー商会」で、茶の輸出をする幹部社員となっていた25歳のトーマス・B・グラバーに誘われて、文久3年(1863)に、グラバー商会に入社し長崎で茶の貿易監督官として勤務した。
その後、F・リンガーはグラバーの事業を引き継ぎ、慶応4年(1868)エドワード・Z・ホームと共にホーム・リンガー商会を設立し、始めは茶の取引をしていたが、石炭石油の備蓄、造船資材や工業機械、毛織物、捕鯨など幅広く本土への進出をするにあたって、明治22年(1889)に、瓜生寅(うりゅうはじめ)と下関の西南部町に船積代理店を設立したのが瓜生商会(社長=瓜生寅、支配人=N・B・リード)で、下関では最初の外資系商社だった。
当時は、外国人名では営業できなかったため瓜生寅名義で営業し、石炭を香港、上海、マニラ、シンガポールなどに輸出、英国製雑貨や食料などを輸入した。さらに運輸、貿易、各国の保険会社や海運業者から日本の代理業務などを任されるなどと事業を拡大した。
瓜生寅は、天保13年(1842)1月15日、福井藩士の子に生まれ、漢学、洋学を修め、維新後は大学助教を務め、文部、大蔵など各省に出仕、神戸税関長などを務めていて、明治12年(1879)に依願免官した。その後は、実業界に転じて瓜生商会を設立。のちに東京で社長として過ごした。瓜生の没年は、大正2年(1913)2月23日であり、下関商工会議所副会頭にもなっている。
明治34年(1901)には、赤間関26番地に英国領事館が開設されるが、紅葉館の場所に赤間関商業講習所の先生が入居していた建物があった話がある。あるいは、その建物に領事館の外人が住んでいたという説もある。
その英国領事館は、現在地に明治39年(1906)に新設され、領事は大正11年(1922)まで専任の領事がいて、その後は瓜生商会の支配人が下関における英国代理領事業務を引き継いで昭和15年(1940)まで続いた。また、この間の明治41年(1908)にはリンガー商会宿舎として平屋建ての山荘が建てられ、リードはここに住んだとも記されている。
写真は、藤原義江記念館と呼ばれている旧リンガー邸


