日本遺産と言われても(16)旧リンガー邸(藤原義江記念館)(2)-1 | Issay's Essay

日本遺産と言われても(16)旧リンガー邸(藤原義江記念館)(2)-1

608 藤原義江記念館と呼ばれている旧リンガー邸

 旧リンガー邸(藤原義江記念館)は、当時、英国系商社ホーム・リンガー商会の代理店として設立された瓜生商会が、ホーム・リンガー商会の社長の息子であるマイケル・リンガーとバニア・リンガー兄弟のために、鉄筋3階建ての居館を昭和11年(1936)現在地に建てたとされている。
 ここで、ホーム・リンガー商会と瓜生商会、藤原義江についての関連性を纏めておきたい。
 先ず、ホーム・リンガー商会というのは、天保9年(1828)にイギリスの英国国教会牧師の次男として生まれたフレデリック・リンガーが、中国の広東省にある「フレッチャー商会」で、茶の輸出をする幹部社員となっていた25歳のトーマス・B・グラバーに誘われて、文久3年(1863)に、グラバー商会に入社し長崎で茶の貿易監督官として勤務した。
 その後、F・リンガーはグラバーの事業を引き継ぎ、慶応4年(1868)エドワード・Z・ホームと共にホーム・リンガー商会を設立し、始めは茶の取引をしていたが、石炭石油の備蓄、造船資材や工業機械、毛織物、捕鯨など幅広く本土への進出をするにあたって、明治22年(1889)に、瓜生寅(うりゅうはじめ)と下関の西南部町に船積代理店を設立したのが瓜生商会(社長=瓜生寅、支配人=N・B・リード)で、下関では最初の外資系商社だった。
 当時は、外国人名では営業できなかったため瓜生寅名義で営業し、石炭を香港、上海、マニラ、シンガポールなどに輸出、英国製雑貨や食料などを輸入した。さらに運輸、貿易、各国の保険会社や海運業者から日本の代理業務などを任されるなどと事業を拡大した。
 瓜生寅は、天保13年(1842)1月15日、福井藩士の子に生まれ、漢学、洋学を修め、維新後は大学助教を務め、文部、大蔵など各省に出仕、神戸税関長などを務めていて、明治12年(1879)に依願免官した。その後は、実業界に転じて瓜生商会を設立。のちに東京で社長として過ごした。瓜生の没年は、大正2年(1913)2月23日であり、下関商工会議所副会頭にもなっている。
 明治34年(1901)には、赤間関26番地に英国領事館が開設されるが、紅葉館の場所に赤間関商業講習所の先生が入居していた建物があった話がある。あるいは、その建物に領事館の外人が住んでいたという説もある。
 その英国領事館は、現在地に明治39年(1906)に新設され、領事は大正11年(1922)まで専任の領事がいて、その後は瓜生商会の支配人が下関における英国代理領事業務を引き継いで昭和15年(1940)まで続いた。また、この間の明治41年(1908)にはリンガー商会宿舎として平屋建ての山荘が建てられ、リードはここに住んだとも記されている。
 写真は、藤原義江記念館と呼ばれている旧リンガー邸