旅の記念品(8) -臼杵石仏仏頭のお土産-
私が「石仏」を意識したのは、昭和30年代の半ばで国東半島の仏跡を訪ねて以降のことである。仏教遺跡に興味があるわけでもなく、その専門家でもないが当時は秘境と呼ばれる国東に荒廃した状況にある遺跡群を取材していた。
仏跡は、木造の仏像や金属の宗教祭器、供養塔や石仏など様々で、それらはある時期に密接に信仰に結びついたもので、永い年月の中で無住のお堂や、風雨風雪などで崩落した摩崖仏、或いは放置されたものなどもあった。
語り掛けてくるはずもない、これらを見ていると美しい石塔や仏像もあるが、崩落し放置された摩崖仏にも親しみを感じ、稚拙ながら愛嬌たっぷりの羅漢や実直な姿の十王など、管理をされている住職は寄木造りの仏像をかろうじて荒縄で縛り付けて姿をとどめ拝まれているものまであって、理屈ではなくすべて美しいのである。
国東半島を取材しているときに、大分県には大きく分けて、北は国東半島から安心院、中央部は大分市街地周辺と大野川沿い、南に臼杵周辺、その数は60ヶ所以上500体を超える石仏があることも知り、機会あるごとにこうした石仏を巡った。
臼杵石仏は、臼杵市街地から臼杵川を遡り南西に約5~6㎞深田という集落にあるが、今は観光化して賑わいの里になってしまった。観覧料を払って、ホキ石仏群、堂ヶ迫石仏群、山王山石仏、そして古園十三仏石像群を一巡するコースになっていてこの一切が国宝に指定されている。
中でも有名なのが、古園の大日如来仏頭だった。ポスターやパンフレットなどに使用され、そのお顔に残った彩色が美しく魅力的なことで観光客の人気を集めていた。そして、その仏頭を置物や土鈴にして土産品にしていて幾度となく通っている間に何時か買ったものが手元にある。
微笑を浮かべ切石の上にこれぞ臼杵石仏の代表としての貫禄で座っていたのだが、この仏頭は何時しか本来の位置に据え戻され、それで良いのであろうが、なんだか居心地が悪そうな如来の表情を感じるのは私だけだろうか。何故か拝観するこちらが申し訳ない気分になって馴染めないのである。
文化財保存修理のむつかしさを感じる一方で、以前の仏頭に記念品を見るたびに私の好きな「帰自然」という言葉を思いだす大日如来様である。
写真は、現在の古園石仏群中心の大日如来と拝観記念品の大日様仏頭の置物と土鈴
第14回下関市芸術文化祭雑感
毎年、多くの皆さんが芸術文化各分野で活躍され、日ごろの活動あるいは創作された成果を発表される祭典として、芸術文化祭が秋から翌年まで様々な発表会が行われているが、本年は新型コロナウイルス感染症の影響で、様々な行事が中止されていることもあって、文芸部門と美術部門だけの開催となり、芸能関係の舞踊や音楽の発表会などはことごとく中止となったことが残念でならない。
芸術文化祭の内、美術展の審査に本年も関わることになって、特に関連する第3部には、従来の工芸・写真に加えデザイン・イラストが加わった。以前からデザインやイラスト関係も少しの出品はあったものの、あえてイラストなどと銘打っての項目が加わったのは最近の漫画や劇画などのブームで若い人たちへの創作活動に期待したものだったろうか。
本年の応募点数から見ると、第1部(絵画・彫刻など)は平年並み、第2部(書)は減少、第3部(工芸・写真・イラストなど)では、写真が減少したぶん、新しくイラストが60点ばかりの出品があってまずまず昨年並みだった。
ところで、写真の世界はあらゆる面で激変していて、その良否についての特別な基準があるわけでもなく、審査すること自体に躊躇している。だから、私の審査基準は「どう撮るかではなく何を撮るか」つまり作者の気持ちが滲み出て、私に伝わって来るかの問題、いわば私の好き勝手で特別賞を選ばせて頂いている。
毎年、写真部門の応募写真が多く、展示スペースの関係で選外として外される作品が多く、皆に申し訳ないし、嫌われ者になるだけで切ない思いをしているのに、巷では「折角出品したのに飾って頂けなかった」という苦情を聞いていた。(他部門では選外が殆ど無いことへの不満からである)
本年度、私は交代するものと思っていたら、それでもと言って「もう2回(2年)」と頼みこまれ、断ることも出来ず、またまた本年も引き受けてしまった。本年応募枚数の減少の理由は、この不満なのかコロナ自粛かの理由は分からないが、まず、応募全作品を少し詰めてでも並べたらどうか、との申し入れで実現し先ずは安心した。
さて写真作品群について、昨年度まで2回、特に推奨する作品に出くわすことも無かったが、本年は出品された作品群を見ながら「まずまずの作品」に出合った。
私としては、もっと良くなると欲はあるが、その技術面は控え「何を撮ったか」を強調してその推薦理由をアッピールした。お蔭で何年かぶりに写真が「大賞」を頂くことになった。
審査の後に、毎度その気持ちを書かされるのに閉口するが、つい「欠点も多い作品だが、写真だからこそ表現できる現代性を審査員の方々が推奨された」と書いてしまった。
相変わらず辛口の批評と受け取られたかもしれないが…写真は海岸に放置された青色のドラム缶が錆びてゆく、その自然現象とエネルギー事情や環境問題などを含む社会性、現代性の問題をパターンの面白さを表現したもので、その模様に雲丹殻や石ころを並べるロマンチックな創造心を掻き立てた遊び心にも私はひかれたのだ。
美術展は、10月24日から11月7日まで。この文章は10月23日、明日、開幕式を控えて書いていて発表時には美術展も終わっている。それでも書いているのは「コロナウイルスに配慮して開会式に出席いただく方の人数を制限し執り行うので何卒ご理解のほど宜しく」と案内状が来ているからで、これは出席をご遠慮くださいとの意味だろうが「大賞」はどんな方が射止められたか?審査した一員として確認もし、一言、ご本人に写真人としての賛辞も言いたかった、明日は出かけるつもりでいる。
写真は、《美術展》大賞の『未来地図』をバックに作者の藤定早苗さん
下関・二基の灯台が重要文化財に
すでに、このエッセーでは「日本遺産と呼ばれても」のシリーズで紹介済みの六連島灯台と、同じ下関市指定文化財の角島灯台を含む建造物15件を重要文化財に指定するように10月16日文部科学相に答申された。
今回、六連島と角島灯台とともに部埼灯台(北九州市)、犬吠埼灯台(千葉県)の4基いずれも稼働しているが、現役の灯台が重文になるのは初めてのことで、所有者は海上保安庁、下関の2基の灯台は下関のシンボルであり大変な朗報だった。
六連島、角島いずれも「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計で、六連島は慶応3年(1867)4月、江戸幕府が兵庫開港に伴う外国船の安全航行を確保するために英国公使と締結した大坂約定(大坂条約)で設置を約束された5灯台(友ヶ島、江埼、和田岬、六連島、部埼)の一つであり、明治新政府が事業を引き継いで建設され、ブラントンが築造の監督指導を行い白色塔形の石造、塔高(地上-塔頂)10.6m。灯火標高(海面)27.9m、閃光3,700カンデラ、光達距離12海里(約22㎞)、灯台の初点灯は明治4年(1871)11月21日(旧暦)だった。
全国で最初に出来た洋式灯台の一つであり、関門海峡では、響灘の六連島と周防灘の部埼(明治5年1月22日初点)と関門海峡の東西2ヶ所での安全を確保する灯台が相次ぎ設置されたことになり、今回も歴史のある灯台として答申された。完成翌年の明治5年(1872)6月12日(新暦)には、明治天皇が九州巡幸に際し西郷隆盛らと六連島に来島し視察された。
本州北西端の響灘から日本海に続く航海の難所に建つ、地上の高さ約30mの無塗装石造り(徳山みかげ)の美しい角島灯台は、現在、本土と角島架橋で結ばれた下関でも屈指の観光地角島の夢ヶ崎にあり、海上保安庁の参観事業(燈光会の管理)として、好天の日は観光客にも開放されている。
日本海側では最初の灯台で、ブラントンの日本での最後の作品だけに少し傾斜をつけた側面と上部のシンプルなデザインそれに石肌の輝きがとにかく美しい。
コロナ自粛が始まったころ、ふと下関市の文化財保護課の方から同行撮影の誘いを受けて、両灯台を見せて頂いていたので何時かはその写真の発表をと思っていたが、今回の答申の報道発表と同時に、早速、写真展を行うことを決めた。
10月下旬から、写真の選択、引き伸ばしの発注、案内状の段取りなどと、小品展とはいえ、きりきり舞いとなった。会期は11月15日(日)から12月13日(日)、下関市内、南部町20-10(海響館前)のカフェレスト・デトロワでの開催。
地元の灯台が、重要文化財指定となる喜びと祝福を記念すると同時に、航路標識に思いをはせ、その維持管理の重要さを感じて頂けたらとの思いを込めたもの。
写真は、出品作品六連島灯台現在の光源(左)と角島灯台


