湯本温泉と長門ゆずきち
長門市は、近年、大津の元乃隅神社や仙崎の金子みすゞ、焼きとりなどに人気があるが、寂しくなった湯本温泉にロシアのプーチン大統領を安倍総理が招いたことで、地元では、地域の魅力を見直して歴史ある温泉街を、未来に向かっての街づくりへと活気づき、それは、旧白木屋グランドホテル跡地に星野リゾートが進出しようとしたことから、公民連携した観光の街造りに発展した。
湯本は、大寧寺川が深川川(ふかわがわ)に合流する付近一帯で、この付近の川を音信川(おとずれがわ)とも呼ばれ「ゲンジボタル発生地」として国指定天然記念物となっている。
温泉は、約600年前の応永年間(1394~1428)、大寧寺三世・定庵禅師が住吉大明神からのお告げにより発見したと伝えられ、礼湯と恩湯と呼び、大寧寺が泉源を支配した。天保年間(1830~44)には、藩主の湯治のためのお茶屋も設けられた。
その町が、数年かかって街の大改造をどのようにしたのか知らないが、「星野リゾートの界長門」が今年(2020年)3月オープンした。その後、山口新聞の東流西流欄に総支配人の三保裕司さんが執筆され『「界ブランド」がその土地ならではの文化や伝統工芸品を活かした体験のできる〝ご当地楽″を催し「大人の墨遊び」として赤間硯を使った書道体験を行っている』と書かれていたのに感激して、その「界長門」という雰囲気を機会があれば、訪問したいものだと思っていた。
たまたま、コロナ自粛の足止めが一般にはGO-TOとかで箍(たが)が外れた感じとなったとき、「まだまだ、他所に出かける勇気が無いが、明日当たり、北浦から長門辺りまで如何かね?」とお誘いを受けた。
土井ヶ浜ミュージアムや角島灯台などを廻って、長門市に着いたのは15時位だった。
是非とも寄ってみたかったのが「界長門」。私の希望で、最初に入ったのが「界長門」の駐車場で、そこの女性が「ご予約の方ですか?」という。「いいえ」と答えると「今は丁度お客様が入れ替わりの時間で、ここに入ってもらうと困ります」という。時間が悪かったが、応対もあまり良くない。何か言おうとしても、まぁ邪魔者扱いの感じだった。湯本観光は「この上に、駐車場がありますからそこに止めて・・」〝その土地の文化に・・″という文章に引かれてやってきたのに、出ばなを挫かれ、もう如何でもいいよ!という思いで、その新しく出来た駐車場に止めて、温泉街を散策してみることにした。
駐車場から、広い60段の階段があり両側は竹林で良い雰囲気、途中に武士や僧侶のみ利用された俗人禁制の礼湯跡があり石碑がある。さらに緩い坂道が続きそこは礼湯泉源広場と名付けられている。音信川まで下るとその左側が一般大衆向けの恩湯、火曜日は休みだった。結局、川沿いを歩き「足湯」に浸かることにした。「足元が滑りますよ」と先に入っていた女性が親切に声をかけてくれた。無色透明、アルカリ性単純温泉、足湯にしては、あまり暖かくも無いが、これで丁度良いのかも知れない。川沿いから「界長門」の建物が見える。人気は上々来春1月までは予約でいっぱいと聞いたが、たしかに外観も良い雰囲気に出来ているし、系列の「あけぼのカフェ」にも若い人たちがたくさんいた。
せせらぎの音を聞き、先の地元の女性と閑談していると、同行の仲間が「珍しいジュースがあった」と差し入れ。ピンポン玉くらいの緑色鮮やかなミカンが二つ割にして入っていた。「小さなミカンじゃのう」と一人が言うと、その女性が「ゆずきち」だと教えてくれた。『長門ゆずきち』聞いたことはあるが初めての対面である。
帰って調べてみると「旧田万川町で古くから栽培されていた香酸柑橘で、カボスやスダチの仲間。平成10年頃から萩・長門・下関市あたりで栽培され平成19年に《長門ゆずきち》とブランド化した。8~10月が搾汁率(40%)、酸濃度共に高く苦みが少ない。醤油との愛称がよく、刺身に利用され、皮ごとすりおろして薬味にしたり、鍋・焼き魚・肉・酢の物、最近はジュースやドレッシング、羊羹などに利用されている」という。
結局、足湯とゆずきちに癒されて今回は湯本温泉を離れたが、帰りは山陰道の一部が9月8日に開通したばかり、有料に出るよりここを通りたいと希望した。
以前の県道34号線の大寧寺峠はカーブの連続で難所だったが、その道はこのルートをトンネルで通過、わずか5.5㎞の新しい道であるが快適に下関市内まで約50分もかからずに到着した。
写真は礼湯泉源広場右側が恩湯温泉と長門ゆずきちジュース
日本遺産と言われても(15) -関門隧道、上下線-
本州最西端の下関市と九州最北端北九州市を結ぶ、鉄道海底トンネル。
その発議は、明治29年(1896)に博多で行なわれた第5回全国商業会議所連合会で、政府に建議され、それ以来たびたび話題になり明治44年(1911)には鉄道院総裁の後藤新平が調査を行ったがこれも実現には到らなかった。
その頃から、旅客連絡船と貨物船が関門海峡を往来していたが、山陽本線下関駅【当時は赤間関駅=開業・明治34年(1901)5月27日】の輸送量が増大し関門工業地帯の産業が発展すると国防的にもトンネル構想は重要視され、大正8年(1919)には一旦帝国議会の協賛を得てこれが工事にかかろうとしたとき、第一次世界大戦のため資材暴騰と賃金高騰で予算不足、続いて起こった関東大震災で、また一次計画は打ち切られた。その後、大正15年(1926)に再施行となったが、これも昭和2年の経済恐慌で計画見合わせとなった。
しかし、この間に関門海峡連絡の貨車航走は増加し昭和6年(1931)に至って激増、いよいよ関門トンネルの建設は必要に迫られ、ようやく昭和10年(1935)5月に内田信也鉄道大臣が現地の視察に訪れて、6月には関門隧道技術委員会が設立され、下関に工事事務所を置き関門海底トンネルによる鉄道連絡線の実現に向けて、昭和11年(1936)7月に着工の運びになった。
トンネルのコースは下関市彦島から北九州市(当時は門司市)小森江へ、先ずパイロットトンネル掘削から始まり、間もなく本トンネル着工、下関側の大部分は岩盤だったためダイナマイトによる普通の掘削だったが、門司側は軟弱地盤で、トンネル掘削工事は国鉄でも始めてのシールド工法(それまでに国鉄では丹那トンネルなどで採用したが失敗)や潜函工法、圧気工法なども試みられた。このため潜函病や連日の激務で犠牲者が出たり、地層を圧気が噴出する事故もあった。
その間、帝国議会は関門トンネルの複線運転を決定し、昭和15年(1940)6月からは下関側からその工事にも取り掛かった。翌16年(1941)7月10日、4年間の苦闘を続けた下り線は、大臣の押した電鍵で海底部最後の土壁が吹っ飛んで貫通、いよいよトンネル工事の完成を急ぐことになった。
そのころから世界情勢は急激に悪化し、遂に第二次世界大戦に突入。上り線も順調に進みつつあった時、昭和17年(1942)10月13日、潜函工法、圧縮空気の大噴出で作業員6名の犠牲者を出す大事故が起こった。この復旧作業に手間取る一方、戦時下の軍部要請は2年間の期間短縮命令と厳しく、しかも作業員は次々に戦地にと離れ、かろうじて勤労豊国隊と共に不眠不休の努力で上り線も18年(1943)12月に貫通。学徒動員や他の機関区職員などの応援を得て19年(1944)8月工事を完了した。
海底部分の土かぶり(海底とトンネルの天井との間)は7メートル、トンネル幅5.2メートル、複雑な地質を克服して、先ず、下り線(3614メートル勾配1000分の20)が昭和17年(1942)11月15日に、上り線(3604メートル・勾配最高1000分の25)は19年(1944)9月9日にそれぞれ完成した。海底部分は1140メートル。総工費3928万円。作業者延人数347万人。殉職者32名を出す難工事で慰霊碑が下関側出口にある。
開通後、昭和28年(1953)6月の西日本水害では、戸上山の崩落などによる出水で、トンネル内に濁流が流入、折から下関駅を発車していた下り列車かもめ(乗客約800人)は、門司側出口で一たん停車その後何とか脱出して危うく水没を免れた。トンネルの復旧には約1.5ヶ月を要した。この教訓からトンネル入り口には防水扉が設けられた。(参考資料、馬関覚え帳など)
写真は関門鉄道トンネル上り線下関側出口、慰霊碑が左側にある
伊倉のお地蔵さん(2)-2
ガードをくぐり小路の四差路に、またまた赤レンガで囲った祠があって、貝殻模様で薄青い生地の前掛けに烏帽子風の帽子をかぶさったお地蔵さんにシバが供えてあり、お堂の前には「コロナ感染拡大防止のため8月24日のお地蔵祭りの接待は中止させて頂きます 世話人」との張り紙があった。例年は地蔵祭りが8月24日に確かに行われていることが分かった。ここでは何人かの組でお地蔵さんのお世話をしていらっしゃる方がいらっしゃるのであろう。
その辻の向かいに小さな集会所、板壁に「あいさつ道路 みんな笑顔で元気にあかるくあいさつしましよう おはよう こんにちは こんばんは」と掲げてあった。
その隣に広い立派な土間の部屋があり、奥まったところに高さ2m程の彫もしっかりした六地蔵石幢があった。宝珠と笠の部分にはやはり布が被せてあり、ここにも菊の花がいっぱいに供えられていた。
こうして西の小学校入口に部屋造りのお堂中央に五輪塔の一部が祀られ、小学校を一巡して回り込むと細い板碑のように角型の石に彫られたお地蔵様が空色の布の間からお顔だけを覗かせ、両脇に菊やリンドウなど華やかなお供えがあった。街の中央北側に、やはりコロナの張り紙のあるお地蔵さん、集落東のT字路ではお地蔵さんの祠のため、石垣は後ろに下げて構築されてお祀りされていた。
ともあれ、あの世とこの世の境である六道入り口には地蔵が立ち、衆生を教化すると考えられ六地蔵が生まれた。その六道というのは、衆生がこの世でなした善悪の行為により、次の世に赴き生まれる6種類の世界。これが地獄・餓鬼・畜生の悪業によって生まれる三悪道と、修羅・人間・天上の善行による三善道の六道で、こうした思想が墓地入口や、村の入り口などに地蔵を祀ることに発展した。伊倉の場合、こうした信仰の形が非常に良く残されていると感じた。
そのほか、この集落にはお忌み石が二石、荒神様などもあったが、ここで説明するスペースがない。ともあれ、これほど回って40分もかかっていない。
地蔵祭りの日は、各お地蔵さんに灯があげられ、それぞれ香を焚き、おひねりを持った浴衣の子どもたちがお接待を受ける楽しみ、今年はこの行事も縮少されるのだろうと思いながら、伊倉の地蔵群にふるさとを感じたひと時を過ごした。
写真は集落中央部のお地蔵さんと六地蔵石幢


