赤江瀑の世界(2)-2
平成16年(2004)に、私が『文学。やまぐち風景抄』写真展を開催したとき、『巌(いわお)の花』という一文を頂いた。『虚実皮膜という芸術論がある。-略-芸や、芸術の世界では、事実をそのまま写しても、決して事実には見えない、無情な不思議があるのである。表現、創造の世界の、不思議で恐ろしい所である。無論、写真も例外ではない。いや、「真を写す」と名付けられた分野のものであるからして、それが表現、創造という芸術的な性格を帯び、構造を持ちはじめると、一層、この分野の仕事の至難さ、苛烈さは、際立つことになるだろう。-略-明らかに真を写す仕事の写真にも、虚実皮膜の魔道はあろうかと思われる。吉岡一生さんの作品には、そうしたことを思いつかせる、重い、強(したた)かな物語性がある。人がこの道一筋に歩みに歩んだ歳月の重厚さでもあるだろう。巌に花が咲いている。』うんと、よいしょした文章とはわかっていても、写真に関しての赤江さんの思いが感じられ、創造への励ましとして嬉しく思ったものである。
赤江さんが、逝去されたのは平成24年(2012)6月8日である。私はヘルニアの手術のため市民病院に入院していた時だった。早くもあれから8年たっている。亡くなられて1年目「下関市立美術館で「赤江瀑『美の世界』展」を仲間が中心になって開催した。今回の本には、その展覧会をわざわざ京都?から見に来られた伊藤健介さんの「妖かしの海峡」という赤江さんを偲ぶ短文も掲載されている。『赤江瀑は、昨年6月8日、79歳で忽然と世を去った。死を看取った人はいない。-略-獣林寺方丈の天井は、その折の城の廊下の床板を寄せ集めて張られている。こんな語り口から、妖しの物語が華麗に展開される。京都を舞台にした作品は数多い。』などと赤江さんの人柄と作品の魅力にふれながら回顧展を見て、類まれな作家だと回想し、その足で生家を訪問『眼下に広がるのは、「妖かし」の壇之浦海峡だった』結ばれている。(生家ではないが原文による)
赤江さん没後1年目の『美の世界展』を終えた反省会の時に、「文学碑を建てたいねぇ!」という話が古川さんから持ち上がったが、ご本人はすでに鬼籍の人になられた。当時世話人だった皆がそれぞれその文学碑を意識しながらも、はや7年を過ごしてしまった。今回の企画展をそして、そして今回の出版を契機に誰いうともなく、平成3年の命日には実現したいと策動が始まった。何処に、どんなものを‥課題は多いが歳月の速さを感じながらも、今度こそ、その宿題を実現させなくてはならない・・・・。
写真は、泉鏡花賞受賞祝賀会(1984.10=右)と私の写真展(2004.1)での赤江瀑さん
赤江瀑の世界(2)-1
下関市先人顕彰館(田中絹代ぶんか館)では、「ふるさと文学館春季所蔵品展『赤江瀑』」が、今年令和2年4月5日から7月5日まで開催された。最初の頃は、コロナ禍の入場制限などが煩わしくて、私が出かけたのは6月末だった。入口の「赤江瀑展案内標識」の側に『赤江瀑の世界』(河出書房新社・2020.6.30発行・2600円(税別))という新刊が置かれていた。内容としては、赤江瀑フアンへのダイジェストという感じだが、浅井仁志によるエッセイと略年譜の他に、表紙とグラビアは下関在住の栗原弘さんの写真、そして顕彰館学芸員の吉田房世さんが「赤江瀑と郷里下関」のテーマで、同館における赤江さんの資料(遺品)の存在と活用に触れながら、赤江さんが文筆活動を終生、関門海峡の地、下関に過ごされたことの意味、或いは立場を変えて赤江文学に接する方々に、その土地(赤江さんの郷里)を感じながら文学底流の血脈、原点に触れて頂きたいと呼びかけたエッセイが掲載されていて、嬉しい本だと思った。
赤江瀑さんは、下関出身で私と同じ年代でもあり昭和46年(1971)『獣林寺妖変』が刊行されたころお会いして以来、40年ばかりいろいろの集会でご一緒させて頂いた。その単行本には、「獣林寺妖変」のほか「ニジンスキーの手」「禽獣の門」「殺し蜜狂い蜜」の4篇、珠玉の作品群に圧倒された印象から、文学作品についての話をほとんど交わしたことはなかった。昭和59年(1984)に『八雲が殺した』を刊行された年の秋に、『海峡-この水の無明の眞秀ろば-』の作品とともに第12回泉鏡花文学賞を受賞された。
その祝賀会の後で、何時もの仲間が市内に繰り出したとき、赤江さんは溝口健二映画監督に早くから憧憬していたことなどを聞いた。この時同席していた武部忠夫さんは後に文庫本の解説で『ぼくは赤江瀑の小説世界が「虚構の華」とのみ喧伝されるのは、なんだか片手落ちの気がしてならない。-略-赤江瀑の小説群は、舞台の闇と光にふちどられた、「劇性」への志向ゆたかな饗宴の多彩なメニューである。』と、舞台演出家らしい「劇性の華」と讃えている。
こうして集まる仲間を「長府村の人たち」と呼んでいたが、私は遥か彦島の住人で、ご一緒させて頂くのも仲間と言わせて頂くのも申し訳ない気がしていたが、何時だったかその村で助役と自称していた直木賞作家・古川薫さんが、大女優・田中絹代を書こうとして「ぼくが田中絹代を書いてもいいかい?」と赤江さんに断った。そのとき古川さんは「あんたは世阿弥を何としてでも書き上げてほしい。」と何度も言われていた。
赤江さんは、一言一句の考えを纏めながらゆっくりと優しく話される方だが、サインを頂くときの書は意表を突く大胆さがあり、最初はどうなるものかと思ったが、それがちゃんと纏まり、これも美術品のように凄い。
写真は、先人顕彰館『赤江瀑展』入口(右)と今回出版された『赤江瀑の世界』
「こどもの広場」の情報誌
毎月末になると、B5サイズ8ページ手造りの情報誌が送られてくる。今回は、2020年7月20日発行で、NO321号だった。パソコンと手書きの文字やイラストがあってコピー印刷、毎回、「そうだね、そうだったのか、頑張っているなぁ、そんなことも?上手いんだなぁ!」など、そこに感激、感嘆、納得、発見、示唆されるものを感じて捨てがたく書架の片隅に束ねていた。横山真佐子さんが創立した「(株)こどもの広場」の情報誌だが、内容は実に濃いものかある。
表つまり1ページは、情報誌のタイトル「ひろば」のゴシック文字と発行所所在地とスタッフの名前など、通常は奥付である。中段に様々の本の中から「詩や言葉の断片」が、下段には横山さんのエッセー約800字、今回は「30年ほど前にシンポジュウムを開いたとき、評論家の加藤周一さんにペットボトルを渡すと”ボクはこの蓋が苦手なんだ”と言われ、今の自分自身がその蓋のみならず手首で捻じる、爪で開けるなど、出来たことが出来なくなっている。一方でこうしたものが増えてお茶を急須に入れてなどしなくとも美味しいお茶も飲める…」などと書いてあった。上段に今知らせていきたいこと1行。今回はコロナの関係で営業時間変更のお知らせ。さりげなくではあるがタイトルの周囲は季節の絵(アサガオ)が添えられている。
2ページの上段には藤本幸枝さんの詩『大きい空』「日ごろは分からないけど/マスク着用の車いすが外に出たよ/空と雲がとても大きく見えた/家にいることが多いから/大きい空なんだよ」。藤本さんは昭和30年(1955)下関市生まれ。生まれつき脳性麻痺で身体が動かない、微かに動く左手の指で日々の思いを書いていてここに載せるのが生きがい、かれこれ250回を超えている。下段は、お便りの往来で「本を開くと新しい言葉、新しい情景に出会う、子どもの時からそんな体験を」と願いながらの数編が取り上げられる。
3ぺージには、山中昇さんにより家族(長男・旭くん10歳)の断片を追った『あさひはのぼる』、誕生から続く(母・なつこさんの短いコメントがまたいい)。以前に「はやしゆり子の見たまま感じたまま」、平井和江さんの「娘といっしょに〇年生」など子供さんの成長記録が親子のさりげない日常を伝え共感を呼んでいる。
4-5ぺージの見開きは、毎週日曜日(はじめは土曜日だったかな)に、スタッフがリレーで山口新聞に掲載している『子ども心の本箱』の記録版。流石に学校選書会に同行しているだけに、ブックトーク調での本の紹介は個性もあって道にいったもの。平成16年(2004)の頃、新聞連載が始まっているから700冊以上、内田千代美、岡井遥香、新村春香、籾木花菜さんら懐かしい名前も見られるが、横山さんを早くから支えて来た室田美由紀・竹内恵美さんと杉永昌実さんになってからでも、すでに6年を超えた。
6-7ページには、インフォメーションや新刊紹介など。
そして最終の8ページは、山口県出身、現在は岡山市のノートルダム聖心女子大教授で坪田譲治文学受賞作家・村中李衣(むらなかりえ)さんが、これも日常の見聞を、学校の先生や生徒さんのことは当然ながら、見かけた街や人のしぐさ、話しかけ、これが赤ちゃんからお年寄りまで、時には海外のこと、ふるさと山口県での農園や図書館活動、なじみの「こどもの広場」のことなどと約3千~3千5百字、蘊蓄のある文章を寄せている。平成19年(2007)5月からの連載だからすでに原稿用紙で500枚を超える。私は、この情報誌だけでも、これほどに彼女の文章を読ませて頂いたことになる。
今回は、山陽小野田市立図書館の「わいわい講座」の体験で、この時期”三蜜を避けて子どもとの橋渡しをどうするか”の方法として、校内放送で「お話を語る」「声を通してみるお話」を実践することを実施して楽しんだことから、声を通して〈通じない哀しみ〉が会場に広まったこと。「声は、ものがたりをそのたびに新しくしてくれる。」と締めくくられていた。
思えば、その情報誌「ひろば」は、知らずのうちに私の脳細胞一部を改造しているに違いないと感じている。
写真は「ひろば」の一部を広げ並べて見たもの


