Issay's Essay -50ページ目

球磨川の氾濫に思う

598 朝霧の球磨川、中央部対岸が(人吉城あたり=2004ホテルから)

 先に「旅の記念品(6)」として取り上げた「人吉のきじ車」だが、文章の始めが抜けていて、困ったものだと思っていたが、まさか、梅雨の猛烈な豪雨による球磨川の氾濫で流されてしまったわけでもないだろう。ここに改めて、その人吉市を紹介した冒頭部分を記し、なお人吉あるいは球磨川について私の記憶を記してみたい。
 『熊本県人吉、最上川・富士川と共に日本の三急流と言われる球磨川は、球磨川下りで有名だが、水害常習地でもあった。球磨川とその支流胸川を利用した天然の外濠とした相良氏の人吉城(別名・繊月城・三日月城)をはじめ、青井阿蘇神社、永国寺、家老屋敷跡、それに多くの焼酎蔵、球泉洞などと観光地も多く、人吉の取材だけでなく宮崎、えびの高原、霧島、或いは鹿児島を訪ねる時にも、人吉に寄って城を見たり温泉に入ったりしたものである。』以上がその書き出しの部分だった。『焼酎蔵』以降から始まっていたので、併せて読んで頂きたければ、街の様子もあらかたご理解できるだろう。
 人吉市は、人口3万1千人ほどの町の中心地に人吉駅、温泉ホテル、病院、銀行などまとまった街だったが、7月4日の夜明けにヘリコプターからの映像で、市街地全域が茶色の水に没しているように見えた。別の映像は水が退いたホテル前の泥にまみれた道路をゆっくりと行き来する車も確認された。一夜にして水害を被った町の様子に愕然とし、情けなく思った。梅雨末期と思われる雨は、九州では一週間以上も続き熊本県のほか福岡、大分と合わせて80名近い模犠牲者が出た。一日も早い復興をと望んでいる。
 ♪幾年古里来てみれば 咲く花啼く鳥そよぐ風‥…『故郷の廃家』は、人吉が生んだ音楽家・犬童球渓の作詞であり、この顕彰歌碑が建つ人吉城跡は、相良氏2万2千石が7百年、37代まで続いた居城で、現在は球磨川と胸川の合流する北西部に角櫓、多門櫓が復元されているが、歌碑のある辺りは石垣や石段が残るだけでひっそりして良い雰囲気である。やたら、そこいらに復元した城郭が無い方が良いと思っている。
 人吉の北は川辺川上流で、子守歌で知られる五木の里。さらに奥地は海抜1500m級の山々に囲まれた五家荘となる。大正15年(1926)に人吉、八代間に鉄道が開通するまで人吉ですら交通手段の乏しい陸の孤島だった。それだけに、幕府の検地役人の目も届かない隠し田が存在し、相良氏は実質10万石在っただろうとも云われている。また、藩ぐるみの米作・余剰米で自足の焼酎が作られていた。この辺鄙な人吉だが、人吉駅裏北側の断崖には横穴古墳群があるので古くからこの地に人が住んで居た証でもある。
 昭和37~40年(1962~65)に掛けて3年連続、球磨川に過去最悪という集中豪雨に見舞われたことがある。40年に、私の写真仲間・清水恒治君が「様子を見てくる」と現地に出かけ、『山里の祈り』という秀作をものにした。その現地の様子で「害がもたらした大きな石が庭石に売れている」と聞いて「それも面白いよ」というと「もう一度行ってみる」とあの辺鄙なところまで彼はまた出かけていき『庭石ブームに沸く水害地』をものにした。
 折から燻っていた川辺川ダム建設は、この水害で水没予定家屋の一部移住も始まり新設道路も進んでいて、いよいよ着工かと思われたが、補償問題やダム事業そのものの賛否などの運動が激化して中断、国が昭和41年(1966)に発表していたダム建設計画は遂に平成21年(2009)民主党政権の時代に中止となった。
 四国の四万十川と共に「日本最後の清流」と称される川辺川、鮎の漁場でも知られるが、年間降水量2000ミリを超える日本有数の多雨地帯の急流河川しかも台風常習地である球磨川水系の人吉地区、今度こそ治水対策を疎かに出来ないことを肝に銘じる教訓ではないだろうか。
 写真は、朝霧の球磨川、中央部対岸が(人吉城あたり=2004ホテルから)

木本さんの新刊『「歎異抄」にきく』

596 贈られてきた木本信昭著『「歎異抄」にきく』

 蒸し暑い憂鬱な土曜日に、スマートレターで一冊の本が送られてきた。先に電話を頂いていた木本信昭さんからの『「歎異抄」にきく』である。
 「無人島に一冊だけ持っていく本は歎異抄」と言われ、私の出身小学校卒業の作家・高史明の一人息子が自死したのち暫くして出版したのが『歎異抄のこころ』と知りながら、やはり、読んでみようという気になれなかった「歎異抄」に関しての本である。
 この本を読んでみようと誘われたのは「少しながき序にかえて」の中で、総合病院の「専門バカ」に同感したことと、仏教伝来に少し興味を持っていたこと、最初に「歎異抄」の成立説明があったこと、「歎異抄の原文」(後半は省略されている)、これが意外に短く読みやすい文章だったことにある。(普通、経文は長くて意味不明なのが苦手だった)
 この本は、『歎異抄』に沿いながら、木本さんの生涯を暴露し、その生きざまの中から美術や教育、自然や人生観に触れることで仏心を思い「今を生きている考え」にきっかけを与えてくれる内容だった。
 少し、その内容に触れると、木本さんが下関美術館開館準備の時、心筋梗塞となって入院され3人のお子さんへの遺言(口述筆記)がいきなり掲載されている。ここに「さくらちる桜ちる散る生かされて 大空」の俳句があり「大空」とは木本さんの俳号である。
 4項「信心」芥川龍之介の小説からの図画教育のこと。5項「仏道」法然上人と唯円房の関係から念仏の心をとき、「五木寛之の鬱の時代」をあげて現在社会を反省。6項「悪人救済」魅力的な空也上人が登場し念仏思想の解釈、締めは良寛、道元、この項は凄い。
 7項「慈悲」私の仏、仏心の中に生きる。教育の基本的な精神を考えさせ「地獄一定」に始まり美術館に様々な回想がある。8項「六道」水上勉さんとの繋がりや、「美術館は、文化財・宝物のお寺を建てるつもりで」お父さんからのいいお声がある。9項「回向」島地黙雷と愛息・雷夢、親鸞と実子・善鸞、そして回向の形の説得力。10項「因縁」事業失敗の義兄、若い甥の自死、二人の決別と家族の心情「青葉風み空に舞いし子を葬る 大空」悲しいこですねぇ。ここに『御文章』の登場。まさに「空」の世界。
 11項「環浄」2.26事件にかかわる慈愛、「一切が空」難しい問題だが‥終活の話も意味深い。12項「不可思議」居場所は果たして安全か?陽と陰、「平等思想」特殊学校での教職生活の礎を尊く思う。13項「ともがら」奥さんの涙の手帳に泣かされた。14項「無碍」常に煩悩が存在し、念仏の世界に入れない自分がある。
 15項「煩悩」まさに生きていればこそ。胆石での七転八倒、その胆石を土に混ぜて焼いた「ぐい吞みで酒を飲む」木本さん自身の性がある。ここに良寛や日野原さんが登場。
 16項「自然」風雪200年を耐えた自宅の榎木枯渇、その愛惜に重ね親鸞の生涯(非僧非俗、在家仏教)に思いをはせての項。「自然法爾」まさに「自然に帰る」「宇宙摂理」「今を活かされていることは尊い」を解く。
 この本を読みながら、各項に「病床日記回想そして・・」が付記される。これは2018年11月からの闘病生活における貴重な記録ではあるが、どうにも違和感があり読み終わった後も、まだ疑問を感じていて、出来れば別項として纏めてほしかったと思った。
 ところで『歎異抄』(たんにしょう)、私がとっつきにくかったのは、その読み方にもあった。「異」はやっぱり「イ」「コトなる」としか読みきらない。ただ、私を「歎異抄」の一端に触れるきっかけを与えて頂いたことに感謝であり、幻冬社からの出版(本体1100円+税)、巻末に撮影者記載で小さな拙作、著者紹介肖像を掲載され光栄に思っている。
 写真は贈られてきた木本信昭著『「歎異抄」にきく』

新型コロナウイルスの記憶②

595 片時も緊張がほぐせない病院の入り口とポストの上に登場したアマビエの絵

 インフルエンザの予防注射を毎年続けてはいるが、死に至る病気は昔から様々で、その流行などに対応して原因を突き止め薬品なども開発されてきた。
 今回の新型コロナウイルスについては、まだこれに対応する治療薬も予防薬もない。緊急事態全面解除をきっかけに、政府は企業の設備投資を支援し国内でのワクチン・治療薬の開発、量産への体制を整える方針を決めた。
 この度の流行をうけてか、NHKの日曜美術館では『疫病をこえて人は何を描いてきたか』という企画番組で、日本と西洋そして現在を45分にまとめてあり興味深く拝聴したので、ここに要点を記録しておきたい。
 先ず、622年に聖徳太子が病に倒れたことが法隆寺金堂釈迦三尊像の光背に刻まれていると始まった日本美術(山本聡美=日本美術史)では、疫病を鬼の姿で表した絵巻を例に牛王が鬼を酢につけて食べているなど、信仰することを可視化することで病と折り合うようにした。不安や恐れが、豪華で美麗、精緻を極める美を表現し平家納経などは日本美術史の黄金時代でもあり、美しいほどその願いの大きさが見える。京都の祇園祭も疫病封じが目的で生まれ絢爛豪華な山鉾を奉納した。闇が深いほど光は美しく映える。
 西洋美術(小池寿子=西洋美術史)では、中世のイタリア壁画、悪魔が子供を連れ去る場面が出て、キリスト教の考え方では死が襲い病に倒れることは、神の罪、懲罰と考えられていた。罪を悔い改めるようにと説くが、ペトラルカの詩「凱旋」の挿絵では人が次々に死ぬ悲惨さ、本当に神は救ってくれるのかと信仰に対する揺らぎも起き、さらに「世界年代記」の木版画では、預言者に悪魔が耳打ちしてデマを飛ばせとささやく。偽預言者の出現でフェイクがフェイクを生む状態が15世紀に発生した。
 今の社会でも見られるが、自分たちにとって敵とみなした者たちを追い詰めていく集合心理が(何が災いの原因か分からない状態の中で)異常に働いていく。『死の舞踏』という絵画は、死者が「貴方は生きている間にこんな立派な事をしたというが本当か?」と話しかける。ルネサンスの文化は人間の持つポジチィブな側面をより鮮明に描き出した。それは、例えば疫病に接したときあらゆる負の側面を放出し、人間とは何かを考える上で通らなければならなかった長いトンネルだった。と読み解いた。
 番組の最後に、最近イラストで表現された「アマビエ」を登場させた。
 私は「アマビエ」を知らなかったが、すでにヤマザキマリ、中村佑介、井上涼ら多くのイラストレータは自分のキャラクターとして発表している。この「アマビエ」は、水木しげるが昭和59年(1984)に『水木しげるの続・妖怪事典』(東京堂出版)に描き、その後も『妖怪図鑑』や『鬼太郎シリーズ』などに登場させていた。
 そのもとになる「アマビエ」は、番組の中で紹介する『肥後国海中の怪』(弘化3年の瓦版=京都大付属図書館蔵)で、それは「肥後国(熊本県)の海中にアマビエと名乗るものが現れて、その後6年間の豊作と疫病の流行を予言し、その時は自分の姿をうつして人々に見せなさいと云って海の中に去っていった」とある。これに似て『越前国主記』に「アマヒコ」、『青窓紀聞』に「あま彦」など、それが人なのか魚なのか或いは猿のような絵が添えられているのが面白い。
 日本人は、何らかのイメージをお守りにしていて、江戸時代には疱瘡絵や金太郎のように元気で健康的な絵もお守りにしていた。最近、「アマビエ」に似て『姫魚』(肥前平戸に竜宮のお使い=千葉県佐倉・国立歴史民俗館)、同じく『姫魚』(文政年間のもので平戸に上がったという「姫魚の図」が高知県四万十町の西尾家で家宝のように大事にされていたもの=高知県立歴史民俗資料館保管)、そして『悪魚図』(湯本豪一記念日本妖怪博物館三次もののけミュージアム蔵)なども、別の機会にテレビで紹介された。
 この近郊では、下関の亀山八幡宮で「アマビエがフクを抱えているデザインのご朱印」を授与、猫寺で知られる萩市の雲林寺ではカラフルな「ネコビエのご朱印」を提供。山口市の中村民芸社では大内塗の「アマビエ人形」の置物やストラップが製作販売された。
 江戸時代も幕末も、そして現代も、人間はたいして変わりない。苦境にあるとき或いは将来への希望をもって、人の心は明るい方に、ポジチィブな方向に、懸命にもがき考え努力し、イメージを持ち、安全だよと心に呼びかけ、安心感、信頼感を持つのである。
 写真は片時も緊張がほぐせない病院の入り口とポストの上に登場したアマビエの絵