Issay's Essay -51ページ目

新型コロナウイルスの記憶①

594 営業再開に躊躇した頃の唐戸市場と5月末に届いたアベノマスク

 新型コロナウイルスの国内初の感染者は1月16日に確認され、すぐのちにクルーズ船の横浜港入港で集団感染者が発覚の騒動があり、新型コロナウイルス感染予防の意識が高まった。その後、国内の感染者が次第に増えて1000人を超えたのが2ヶ月を過ぎた3月21日だった。ところがその10日後の31日には2000人を超え、4月3日に3000人、6日に4000人、9日には5478人、この時、死者の数は100人を超えた。
 流石に、安倍首相は4月7日に5都府県の緊急事態宣言を出し16日にはこれを全国に拡大して、期間は連休明けまで人の移動を抑制した不要不急の外出の自粛要請、さらに国民には全家庭にマスク、そして一人当たり一律10万円の給付を公表した。
 緊急事態から1ヵ月後の5月8日、感染者は15,457人、死者755人となってはいたが、新規感染者数は減少傾向にあったことから、安倍首相は緊急事態を5月末までの延長と決めながらも、専門家会議の評価次第では宣言解除もありうると微妙な発言をしていた。
 1週間後の5月14日、福岡県を含む39県を緊急事態解除、近畿3府県は21日、関東地区は25日に解除となった。これで1ヵ月半ぶり全面解除であるが「アベノマスク」はまだ届いてはいないし10万円の声も無い。全面解除に当たって安倍首相は記者会見で、あらゆる社会経済活動を段階的に緩和し「新しい生活様式」を定着させてほしいと語った。この発言の裏には、経済の悪化を食い止めようとする政府の意向も感じられ、少々勇み足、焦りも伺える感じであった。
 5月末現在の、世界の感染者は600万人を超え死者は37万人を超えたと報道されていて、米国の感染者は172万人(死者10万人超)、死者は英国とイタリアが3万人台、フランス、スペイン、ブラジルも2万5千人を超えている。ここに至ってブラジルの感染者が急激に増加しつつあり、韓国も再び増加の傾向にあると伝えていた。
 ところで、北九州市では全国が緊急事態宣言を解除となったときから1週間に69人の感染者を確認し「第2波」の危機感、それも感染経路が確定できない人が多く、一部にはクラスタ―も発生し5月末には9日間で97人に上った。その中には下関市からの通勤者2人もあって、対岸の火事ではなく、下関市内では待ちに待って営業を再開しようとしていた店舗などが、またまた待ったの状態となった。
 5月末「アベノマスク」は一世帯2枚がようやく郵送されてきたが、一律10万円というのは一般家庭には音沙汰もなく、6月になって役所からの声がかかった。
 新型コロナウイルス感染予防対策の一環として、マスク着用、三密(密閉・密集・密接)禁止、うがい・手洗い励行など「新しい生活様式」などと呼ばれ、不要不急の外出など自粛要請されたが、マスク・三密はともかく普通の生活の中でうがい・手洗いは日本人の生活には通常の生活となっていて特に問題は無かったが、マスクは馴染めなかった。
 三密を避けると言われるが、コミニケーションは相手の顔を見ながら目の動きにも気を配るものだが、対面はいけない、しかも1~2m離れての対談というのも心もとない。果たして「新しい生活様式」に慣れることが出来るかどうか。
 6月末、日本でも感染者18,693人(退院17,215人)死者972人で日々新たに100人を超える感染者があり予断は許されない、世界では1,030万人の感染、死者は50.4万人とまだまだ新型コロナウイルスは猛威を振るっている。
 写真は営業再開に躊躇した頃の唐戸市場と5月末に届いたアベノマスク

父の日雑感

593 父に日に届いた贈り物と、部分日蝕を記録する弟のカメラ

 下関市細江町のバス停から、写友Sさんが乗って来てばったり会ったのはかれこれ2年ばかり前になるのだが、彼は長府在住でそれもまだ早い時間帯だったので「なんでこんな場所で?」と聞くと「日和山公園にお参りでした」との返事だった。
 そういえば、Sさんのお父さんは関釜連絡船「崑崙丸」の乗員で、その船は昭和18年に潜水艦の魚雷攻撃で一瞬に沈没した犠牲者だったのを思い出した。「今日は慰霊祭があったんですか?」とまた聞き返すと「あの事件は10月5日ですが、私は月命日の5日には出来るだけお参りに来ています」と言われた。あの頃90歳位、小高い丘とは言っても標高50m、ちょっとためらう高さではある。あれから75年ほど前だとすればSさんは少年(15歳位?)の頃父を亡くされ、慰霊碑は昭和35年(1960)に建立されたものだが、父の面影を辿りながら過ごされ、碑にお参りされていたのである。
 NHK大河ドラマ『麒麟がくる』は主役が明智光秀だが、美濃の国の覇権争いで斎藤道三が主役のようだった。もっとも光秀に織田信長の信望を探らせて娘の帰蝶を嫁がし、ドラマの上では毎回光秀の出演はあるのだが、道三が嫡男・義龍に家督を継がせ稲葉城を譲ってから義龍は二人の弟を殺し、遂には父子の不和が顕現化して長良川の戦いとなる。信長の援軍は間に合わず、道三は戦死してしまう。と、そのうちに新型コロナの関係で大河ドラマは中断となってしまった。結局は道三の迫力のあるドラマチックな演技で戦国時代の相続或いは父子関係を考えさせる内容のまま中断『麒麟がくるまで待ってください』となってしまった。
 今年6月5日、横田滋さんが87歳で亡くなった。昭和52年(1977)11月中学1年生だった長女・横田めぐみさんが下校中に失踪、約20年間は消息不明で、平成9年(1997)北朝鮮に拉致された疑いが浮上した。同年からは拉致被害者家族会の初代代表として、妻の早紀江さんと共にその救出活動の先頭にたち、平成19年(2070)に体調を崩されてから代表の交代はあったものの、突然に13歳のめぐみさんと絶たれてから42年間、彼女の生存を信じ続け拉致被害者の救出を訴え続けられた。あの活動の日々を思うとき、遂にめぐみさんとの再会ならず無念の逝去だった。
 令和2年の今年も「父の日」がやって来た。「地震雷火事親父」というほど怖くも威厳も無い、唯々「老いたるを父とせよ」の平凡な自分であるが、有り難いことにTシャツなどに沿え「今年は実用的なもので・・」とことわって、麦茶や清涼飲料水、マスクなどがどっさりと送られてきた。それも使い捨てマスクだけではなく、冷感用のマスク、博多織のマスク、それに好物のどら焼きまで混じっていた。長男の嫁のメッセージには『こうして父の日の贈り物ができることを心から嬉しく思っています。‥‥』とあるのは、彼女の実父が今年2月に他界したことを思うとその心情に余りあるものを感じた。
 そして快晴に恵まれたこの日夕刻は、太陽が欠けはじめまた復元する部分日蝕があった。その天体ショウを観察しながら、戦中戦後そして今は新型コロナ騒ぎなどと、大自然の様々な波にもまれながら生きていることの不思議、長い年月を生かされている喜びなどをしみじみ考えさせられた父の日だった。
 写真は父に日に届いた贈り物と、部分日蝕を記録する弟のカメラ

旅の記念品(6)-人吉のきじ車-

592 人吉城と人吉地方の「きじ車」

 熊本県人吉、最上川・富士川と共に日本の三急流と言われる球磨川は、球磨川下りで有名だが、水害常習地でもあった。球磨川とその支流胸川を利用した天然の外濠とした相良氏の居城人吉城(繊月城)をはじめ、青井阿蘇神社、永国寺、家老屋敷跡、それに多くの焼酎蔵、球泉洞などと観光地も多く、人吉の取材だけでなく宮崎、えびの高原、霧島、或いは鹿児島を訪ねる時にも、人吉に寄って城を見たり温泉に入ったりしたものである。
 その何時のときか、人吉地方で子どもの健やかな成長を願う縁起物の玩具としての「きじ車」を土産を手に入れた。
 800年以上も前、壇の浦の戦いに敗れた平家一族の落人は人吉まで逃れたものの、華やかだった都の繁栄の夢も破れ、その寂しさを慰めるために作ったと伝えられる。
 胴体は、野鳥の雉(キジ)に似せて木材(桐)の形を活かして粗削りし、白色の下地を塗る。その上に黄・緑・赤(昔は天然の草花の色素だったとか)の、美しい高貴な色彩で模様を描く。赤い椿の花は人吉一帯に咲く花で平家の赤旗を連想させ、首に「大」の字が書かれているのは、故郷の大文字焼の思いがあると言われる。
 胴体に、松を輪切りした車輪が二つ、先端に紐が付けられ、牽引して遊ぶ玩具だった痕跡を残して玩具となっている。大きな丸い目と、鮮やかな色彩が特徴の素朴な郷土玩具である。
 この「きじ車」は、東北の「こけし(屋内であそぶ静的なもの)」と比較される九州地方独特の玩具で、先に書いた鹿児島の「鯛車」と同様、車輪と紐をつけ屋外でけん引して遊ぶ動的な玩具との見方もある。
 そういえば、北原白秋に
 「ちち(父)こいし はは(母)こいしてふ きじのこは 赤とあおもて 染められにけり」
 「雉子ぐるま 子の雉子のせて 走りけり 幼児われは 曳きて遊びし」
 などの短歌がある。これは、伝教大師が道に迷ったとき、雉子の道案内で無事に合歓の霊木にたどり着いたという瀬高町の清水観音の土産品となった「きじ車」でこちらは四つ車。瀬高に近い柳川にも「きじ車」があって、幼いころの郷愁「焼野のきぎす」親子の愛情を、慈しんでくれた両親の思いを詠まれたものであろうか。
 写真は人吉城と人吉地方の「きじ車」

 

※8月8日 ご指摘をいただきまして、ブログ文頭の抜けていた部分を含めて文章を再アップさせていただきました。