新たな年への願い | Issay's Essay

新たな年への願い

621 火の山山頂からの煌めく関門海峡

 昨年末の29日、お天気が良いのは今日までと火の山に誘われて海峡を眺望した。いわゆる冬の透明感はなく遠くの山などは霞んでいたものの、風もなく、海峡は潮止まりで穏やか、海面はチリメン状態の輝き、遊漁船がまばらに数隻見えた。年末のせいなのか、航行する船舶はほとんどなく、それでも、時折往来する船も見えるので、関門橋の蔭を行き交う船が来るまでを待った。
 行く年来る年、微妙に変化する自然の中で、どのように社会が動こうとするのだろうか?新型コロナウイルスの感染拡大が、これほど全世界を揺るがすほどになるとは思ってもみなかった。
 感染爆発になって医療機関は、もはや何時受診の受付や診療放棄となっても不思議ではないと報道されてはいても、国民全体からはその深刻さも他人ごとのようで、クリスマスや交通などの人出も、前年に比べて半分まで減少した所はあまりない。
 経済の発展と称して、見切り発車したGOTOトラベルこそ停止を決めたが、この援助はしょせん国民の税金に振り掛かって来るのだ。あの戦後の非常事態に、援助などはなかった。貧富の差はあっても皆真剣に生きること今日の生活に知恵を絞って来た。
 今、援助が必要なのは医療機関、或いはワクチン開発に対することではあるまいか。目先の経済だけでなく将来的な計画性をもっと真剣に考えてほしいと思い続けている。
 コロナ対策から波及して「新しい日常」なんて世の中をハイカラに変化させる言葉が生まれた。教育の現場にオンラインなどといかにも近代的に見える方式も採用されつつある。しかし、本来は生身の「人と人」の出会い、お付き合い、会話は間々田必要だと思っている。特に教育現場の「先生と児童・生徒」間には人間形成の発達時期における「面授」こそ大切ではないだろうか。画一的な教育水準を目指すのは政治の責任かも知れないが、教育現場の安全安心も勿論大切なことに違いはないが、人それぞれの能力、個性の進展などを感知し活かすことが、先生に求められる本来の仕事のはずであろう。
 会社や役場などは、テレワークで可能な部署もあるだろうが、何もかもAIとかITとかに頼ることも不可能だろう。政府はITC政策などと新語も登場させた。所詮、医療や災害現場にこれを活用する技術が利用されても、まだまだ生身の人間の判断を必要とすることは多い。人の欲望にはきりがない、ただその方向に大事なことを見失っていないかを常に考えることを忘れまい。
 関門海峡の東流西流は、この海峡が出来て以来一日四度向きを変え、それを繰り返している。「新しい日常」と言ってみても大自然にその変化はない。去年今年、おいそれとその変化はないだろう。変わっているのは、人間様が関わっての環境変化であろうか。その変化を、喜怒愛楽、人間の心を取り戻せる方向に導くことを、行政は第一に考えてほしいものである。
 師走から新年へ「渡を超す刻」に輝く海峡、行き交う航跡を見つめながら、新しく迎える年こそ良い年に進展することを願いたいと思っていた。 
 写真は火の山山頂からの煌めく関門海峡