角島雑感 | Issay's Essay

角島雑感

628 廃校になっている角島小学校校庭

 昨年10月の灯台写真展で、環境を語る写真としてのダルマギク撮影を目的に角島を訪ね、どうにかこれはクリアして、小学校敷地内の端に建つ歌碑に立ち寄ってみた。
 角島は、古くから良質ワカメの採取が盛んだったことは、昭和38年(1963)秋の奈良平城京跡の発掘調査で、たくさんの土器などとともに「長門国豊浦郡都濃嶋所出穉海藻天平十八年三月二十九日」と書かれた木札(縦273mm、横36mm、厚さ7mm)が出土していることでもわかる。角島大橋を渡ったすぐ左の広場高台に「平城宮若海藻上進之地」碑と解説碑(速水史朗氏製作.1994)がある。
 大化の改新からほぼ100年、聖武天皇の時代(和同開珎が利用され日本書紀が奏上されたころ)防人が西国に配備された。角島のワカメは朝廷に献上(税金として差し出し)され天皇の食膳に供されるために、島の若者は国司に引率されて「干しワカメ」とともに鮮度を落とさない工夫もして「生のワカメ」も運ばれたであろう。こんな説明板がこの歌碑の側に立てられている。
 歌碑には「角島の迫門の若布は人のむた荒かりしかとわがむたは和布(万葉集巻16読人知らず)」とあり、これは「角島の瀬戸のわかめは、他人には荒々しかったようだが私には優しく素直だった」と、角島の純情な乙女を九州西岸の防備に当たるために派遣された防人たちが「わかめ」になぞらえて詠んだものと解説されている。この歌碑の文字は、角島出身で長く下関で教職に就かれていた書道家・道岡香雲氏である。
 この由緒ある角島は、面積4.1平方キロメートル、周囲約17㎞、山口県の西北にある日本海(響灘)に浮かぶ島で、牧崎と夢崎の二つの岬が牛の角に似て突き出しているので「角島」と呼ばれた。以前は、特牛港から渡海船で20~30分もかかる農漁村の離島だったが、平成12年(2000)11月、本州の豊北町神田と島の東端を結ぶ角島大橋(全長1780m、幅6.5m)が完成したことで、車での往来が可能となった。
 その当時の人口は1000人ほどだった。その後、平成17年(2005)には豊北町など4町が下関市と合併して、角島も新しい下関市の行政範囲となった。
 島には、日本でも5ヶ所しかない特大のフネレルレンズを使用し明治9年(1876)に初点灯した角島灯台(令和2年12月重要文化財に指定)があり、現在は角島大橋などとともに観光資源にもなっている。
 万葉歌碑の建つ、角島小学校は3月に廃校となって半年ばかり、その校庭を一望したとき、もちろん児童の姿も声も無い。様々な色に塗られ虹色に輝いていた遊具は何となくくすみ、ポールにはためいていた校旗も無いことが寂しかった。
 令和2年は、角島大橋20周年だったが特別な盛り上がりも無かった。この橋が出来たことが果たして角島の島民にとってどれほど良かったのか?もちろん消防や医療などの緊急事態は大幅に改善されたことは確かだし、観光客もこのところ年間100万人位になっているという。
 ところが、人口はこの20年で700人程に減少している。これは、少子高齢化社会で何処も一緒だと言って良いものでは無い。(下関市過疎地域自立促進計画によれば)「農漁村の基盤が脆弱だから若年労働力は他都市に流出してしまうのだ」と当たり前のごとく書かれているが、簡単に言わないでほしい。子供たちが減少したから小学校は廃止、スクールバスで13㎞も離れた統合した学校に通わせなければならない。こんな場所に、仮に仕事場所があったとしても若い夫婦が居住してくるはずもないであろう。
 教育の現場を確立しなければ地域の先行きはおぼつかない。文部省の方針にとらわれず、古くから教育先進の山口県としての英知が過疎化対策の先駆けとなる発想で教育に取り組む必要があるのではないだろうか。
 角島の、自然と現在の人情に支えられた環境が、100万人の観光客を迎え支えているが、その対応は老人ばかりでこれも過疎地の現実である。夏場の車の渋滞、或いは治安を思えば架橋の功罪はと思わざるを得ない。
 橋でつながったからもう離島ではない!離島以上の負の現実を将来の地域振興を見据えた行政の真剣さを必要としているのだ。あのころの離島振興策の原点を、今こそ思い起こさなければならない気持を想起させる校庭の風景だった。
 写真は廃校になっている角島小学校校庭