宮崎さんの限定本から
元、長府の忌宮神社宮司だった宮崎義敬氏から『木賃宿吉仲』という本が送られてきた。几帳面な文字で書かれた原稿用紙をそのまま印刷製本されたもので、これまでにも平成26年に『占児URAGO』一昨年は『島と潮流』を頂いているが、今回は100部限定で、私などが安易に頂いて良いものだろうかと恐縮している。
それは、木賃宿・吉仲のおハル婆さんの生きざまを背景にして、北浦海岸集落の生活環境を語り、風俗や民俗性までも浮き彫りにし、或いはまた木賃宿に集まり利用する人々の人間性も語ってくれる、章立ての小説である。見覚えのフレーズがあり、それが『占児URAGO』の随筆でありこれをなお詳細に物語にしたものであった。
その時も「何とすごい記憶」だと感じたが、単に思い出というのではなく、何か記憶を呼び起こす強烈な切っ掛けが少年時代にあったのかなと思いながら読ませて頂いた。
私など思い出といえば、演歌の「おもいで酒」ではないが、ただ情景がよぎる断片に過ぎないが、その充実した実感が心に生き生きと再生される凄さ、それは、まさに写真の世界を読んでいくことに通じ、この思い出こそ過去を懐かしむだけではなく、先を読む、前に進むための、とっても充実した時間を持たれた執筆時間ではなかったかと思った。
木賃宿に現れる、旅芸人、墨売り、筆売り、盆栽趣味人、そして元42連隊の軍人さんと同僚、この人は特異な技量・人生観を持つ人で、ノモンハン事件や乃木希典の詩を登場させ、病弱な神主さんとの関係も盛り上げていく。
例えば、自作の尺八で「刈り干し切り唄」を演奏すれば神主さんが思わず「いいですなァ‥」といゝ、神主さんも又これにこたえて「久坂玄瑞の唄」を披露されるという按配で神主さんの人間性を表している。
芝居組が来た或る日、大浦航空隊の水上飛行機も飛来してくる集落が賑わった日、その忙しさの中で、おハルさんの息子が事故死。夫は航海中で不在、勘一(ハルさんの弟)が遺体を発見して担ぎこむが、後に神主さんはハルさん夫妻に「私は母を知らないが、母がいた事実は心の中で生き続けている」との諭しには、ジンと来るものがあった。
この辺りから折々に、当時の子供たちの遊び方が描写されるが、同時代を生きてきた私には、疎開の状況なども含めて、下関市内と農村部との幾許かの違いも感じられ興味があった。
秋祭りの情景には、長男5歳の奉仕(供奉)に「いたつきの我に代りて行きし汝/神幸は神の護りにこそ」と歌を詠んだ病弱な神主さんが、息子に思いを寄せる父としての心情が感じられるが、ここで翌年次男誕生と記す。次男は『サイタサイタ‥』の最後の学年に入学する著者である。
それ以後、国民窮乏生活の戦中、神社に現れる、ホイト、気のふれた人、狂女の出現など一寸ミステリアスな展開、そして神主(お父さん)との別れ。長男(兄)の軍需工場行で、神主さん亡き後の奥さん(母親)とまだ小学生の次男が神社を守るエピソードが描かれる。それは、出征兵士の祈願のあと、参集者に講話を始めようとしたとき、母親が「それは不要」と言われて「不満だった」という感想が書かれている。現在の宮崎さんを知るものとしては非常に面白い部分でもあった。
さて終章は、大戦末期の校庭・寺社境内の農地化、釣り鐘などの供出、そして猫婆さんの風呂の火の不始末からの火事騒ぎ、社務所の消失は免れたものの、離れていた木賃宿吉仲の藁屋根に飛び火したことからの全焼。ここでおハル婆ちゃんを義介が抱えるように助けるが、ハルさんが持っていたのは息子の写真だった。姉を気遣って駆け付けた網屋の爺さん(勘一)が泣いて喜んだこと、世間では犬猿の仲と言われていた二人、結局は「姉が弟の世話になること」でほっとする結末だった。
2年後、玉音放送を聞いたとき、同年輩の子とは違う感情「宮の次男として祈りの心が足りなかったのではないか」と自責の念で身体を震わせていた。
たまたま贈られた本を読んでいたとき、テレビでは沖縄戦終結77年「慰霊の日」の式典を放映中で、小学2年生の「平和の詩」朗読に感動していた。
ふと、私の戦中時代、『歴代天皇』や『教育勅語』『手旗信号やモールス信号』などを記憶させられたこと、学徒動員での思い出なども少しの記憶として甦るきっかけもあった。今回は少し長くなってしまった。
著者、宮崎さんは車を返上、それでも廃線が取りざたされているJR美祢線の厚保駅
が集落のコミニケーションの場となっているようで、ここで「談話会」などされているとか、ますますのご活躍で集落の発展につながることを期待している。
写真は製本された自筆原稿のコピーを背景にした宮崎さんの著書三冊(中央が『木賃宿吉仲』)
旅の記念品(33)-比叡山修行僧の像-
国東半島六郷満山の寺院は、そのほとんどが天台宗でその時々に比叡山延暦寺や最澄とか伝教大師のお話を聞き、本堂などには「一隅を照らす」の張り紙があった。
社会人になったころ、京都に出かけたある日ケーブルに乗って比叡山に登ったことはあるがその時のことは全く覚えていない。
文化バスに携わって、年に一度は国東の各所を案内していたころ、誰言うとなく「比叡山にお参りしてみたいね」との声を聴き、平成11年の秋に現地探訪を企画した。
この時は「比叡山と湖東三山」という欲張りで結構贅沢な内容、3泊4日(名門大洋フェリー1泊)のコースを組むために下見を行ったのは7月だった。
比叡山ドライブウエイを登りながら〝あの山に登ってみたい″と思った動機も同じ様なものだったのかなと思っていた。そして、この時も以前のことは全く記憶に残っているものはなく、いっさいが新鮮で感動的だった。そして、同行したM氏の行動力「時間が許す限り出来るだけ廻ってみましょうよ」にお任せだった。
標高848mの比叡山に登るほどに雲は晴れ、根本中堂のある東塔だけと思っていたら思わず西棟に、観光客はまばらで法華堂、常行堂そして釈迦堂へ、釈迦堂の屋根は修復工事中で「昨年(1998)9月の台風7号、室生寺がやられたときですよ、此処も影響が大きく、裏の相輪塔もまだ手付かずです」と管理されている方の話だった。その裏手の風景は、信長の焼討を連想させるほど荒涼としていた。
横河(よかわ)まで車で約10分。途中に伝教大師像の建つ展望所。横川の参道には、ここで修業した道元(曹洞宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(日蓮宗)の伝記看板が並び、その終わるところに朱塗りで舞台造りの横川中堂がそびえていた。
奥の元三慈恵大師(延暦寺中興の祖)の住いだったという四季講堂(大師堂)を拝観してから、東塔に向かった。
東塔の根本中堂の中では、講話がすすめられていて「今の世の中、何が大切かをもう一度考えてほしいと思います。1200年前、伝教大師は〝一隅を照らすこれ国宝なり″と説かれている」などと話されていた。
国宝館に行くと間もなく閉館、それでも事情を話して一巡させて頂いた。学芸員の方は「そのころは仏画が中心の展示ですが、お待ちしています」と一言、大津に来て、最も心からの優しさを感じた言葉で嬉しかった。
私たちは、東塔の一角にある延暦寺会館にお世話になるのでのんびりしていたが、各塔院は4時過ぎに閉鎖するのだ。「今日は晴れてきましたから夜景が一層綺麗に見えるでしょうよ」といわれた学芸員も、私たちが一巡するのを待たれていたのである。僧や執事たちが自家用車で帰路につく様子は、まさにサラリーマンの退社風景を見る思いだった。
翌朝は6時半からのお勤めだが4時には目が覚めてしまった。伊吹山から鈴鹿山脈の方は厚い雲があり日の出は期待できそうにないが、多くの鳥の鳴き声が聞こえた。
お勤めは、根本中堂の僧侶たちの勤行と同じ堂内で読経の響きを共有する貴重な体験、荘厳な読経、深閑とした堂内までも鳥の鳴き声は共鳴していた。頭上は花の描かれた格天井、正面には「伝教」と書かれた額があった。1200年その明かりが絶えなかったという燈明(みあかり)の淡い光のみが内陣の暗がりにみえる。
読経はやがて「般若心経」となり一堂に会した人々も小さな声で唱和している。それは私たちの健康や安全などの祈願であったのだろう。
次いで10分ばかりのお説教が私たちのすぐ側で始まり「自然と共に生活するということ、おせっかいと心配りのこと、金銀ブランドではなく誠意ある人こそ国宝だ‥」などと話された。
私はこの旅で、比叡山お参りを記念して何故か小さな修行僧の人形を求めていた。
写真は延暦寺で求めた可愛い修行僧の像(左)と根本中堂
(根本中堂は2016年から10年の予定で大改修中だがお勤め参加は継続されている)
下関重砲兵聯隊
本年(2022年)2月24日、ロシア軍は隣国・ウクライナに侵攻して半年たった。速やかに和平をと願いながらも、今のところ戦争終結の兆しも見えない。攻めてこられたら防衛しかない、これが専守防衛であろうか?あくまでも他国に攻め入ることは出来ず、防戦一方。戦争が終わらない限り、施設も破壊され犠牲者も増えるばかりである。
ところで、海に囲まれた日本において古来その要衝であった関門海峡は、明治時代の大日本帝国は外敵を防ぐため小倉、門司、下関さらに玄界灘の島々まで、その山々などを活用した巨大な要塞地帯として、明治20年(1887)9月から田の首砲台・田向山砲台の建設に入り、近代の城郭化が進められた。
これは小倉にあった陸軍省の第12師団の管轄下において、明治28年(1895)4月、東京湾とともに下関要塞司令部の設置となりのこの地区は下関要塞地帯と名付けられた。
従って下関要塞は、重要な軍事機密であり地帯内での写真撮影は禁止された。
要塞の、守りに従事したのは要塞砲兵聯隊、後に野砲砲兵聯隊などと名称も変わっていくが、この間、大砲と共に日清戦争、日露戦争にも従軍されている。大正9年(1920)下関重砲兵聯隊と改称され、さらに昭和16年には下関要塞重砲兵聯隊に改編され所属の中隊は各砲台に配属された。下関重砲聯隊に応召した人は7千人と言われ、中国やフィリッピン方面に配転した方々もある。
この聯隊は、現在の貴船町一帯に兵舎、倉庫、将校集会所、上田中町辺りには砲舎、弾薬庫、軍馬舎など、向洋町の陸上競技場辺りは練兵場などがあった。そして砲台・堡塁として戦場ヶ原、一里山、火の山、老の山、霊鷲山など明治26年頃ほぼ完備され、金比羅山堡塁砲台は普応寺所有の金比羅宮移設などあって明治44年(1911)に完成となっている。もっともこの間に北九州側や玄界灘の角島、蓋井島から沖ノ島までの島々にも砲台などが設置された。
戦後、当然ながら下関要塞は解散となり、砲台などが設置された山々は市民の手に戻りそのベールに被さっていた風光明媚な関門海峡の大自然は解放された。しかし、その要塞跡を語る施設などは一部を除き、負の遺産として破壊もしくは隠された形で、あまりにも早く観光地化されてしまった。現在、関門両市の若者たちがその遺跡群を調査されその成果も随時報告されているが、行政は、まだ積極的な調査に慎重である。
貴船町一体の兵舎などは。戦後、市役所として使用され、下関市立商業短期大学、社会福祉会館、総合病院などの敷地となった。
その痕跡はほとんど見られないが、昭和45年(1970)に下関重砲兵聯隊生存者の人たちが下関市に対して「旧下関重砲兵連隊跡の保存のため児童公園建設案」を陳情し、これが同49年(1974)に貴船児童公園が実現した。このとき当時済生会病院の敷地内にあった、旧聯隊の庭園に造られていた「聖苑の碑」を貴船公園に移していた。ここに紹介した「聯隊跡の碑」は、戦後40年を記念して昭和60年(1985)に、児童公園の整備と共に石組みなども新しくて、「聖苑」の文字を削り落とし「下関重砲兵聯隊跡」と彫り直した碑として現存しているものである。(下関市史などを参考にした)
昭和20年(1945)8月15日は第二次世界大戦(太平洋戦争)が終結した日の終戦記念日。あの、ラジオで玉音放送でポツダム宣言受諾及び日本降伏が国民に公表された日を、思うたびに〝下関は要塞地帯だった″という現実が蘇る。
火の山からの風光が眺められる幸せは平和だからこそ、有難いことである。
写真は貴船町児童公園に建つ下関重砲兵聯隊跡の碑


