Issay's Essay -14ページ目

野村さんと平和

706 在りし日の野村氏(語りの会)と第18回「下関空襲・終戦展」会場

 終戦から77年目となる終戦記念日を直前に野村忠司氏が突然に亡くなった。
 彼は、市役所の広報や教育関係の職場に勤務しながら、劇団海峡座で活躍され、詩を朗読する会「峡」を創設、市内の文化団体の中心的な立場で下関市文化協会会長さらに山口県文化連名会長を務めていた。私は、その文化協会に所属する会に所属してはいても、特別に文化協会の会員としての意識はなかった。
 しかし、彼の個人的な活動、『カンナ燃える夏』の出版、詩の会「峡」、文化財を守る会「会報」、情報誌『サンデー下関』の「ご存じですか欄の連載」などと、常に密接的に幅広く協力し合い文化活動を続けた半世紀来の朋友であり、私たちは「ノンちゃん」と呼んでいた。
 彼の著書『カンナ燃える夏』は、下関の空襲を記録したものだが、何といっても下関空襲の惨状を、要塞地帯の状況下で記録した上垣内茂夫氏の写真18枚に対し、その場所を探し戦後40年の同じ場所から写真を掲載されたことにある。(6枚は場所がさっぱりわからなかったとしている)
 上垣内氏は、私が写真を始めたころの写真屋の主人で、気安く利用もしていたし一緒に作品を批評し合った仲だった。野村氏が本を纏めるころになって上垣内氏の紹介文を依頼され、後は出版記念会の段取りその司会までさせられた。昭和60年(1985)に出版された本には、野村氏の父が下関空襲の4日後に亡くなられ、兄さんが真っ赤なカンナの花を仏壇に手向けたことが書かれている。何もない焼け野が原からの「カンナの花」は、野村少年の強烈な残像となったのだろう。ノンちゃんが父に手向けた本のタイトルになった。
 上垣内氏の写真を、野村氏が公表した切掛けで、市内でも様々に戦災或いは戦争を語り継ぐ活動が続けられるようになったが、中でも井手久美子さん代表による「下関空襲・終戦展」は、本年第18回目が開催された。焦土と化した市街地の写真パネル(上垣内茂夫氏のほか後に収集した写真を含めて)などのほかに銃後を守る人たちの防空頭巾や衣装、生活環境に関する展示、さらにこれらを物語にしたDVDを制作し放映されていた。
 本年は、ロシアのウクライナ侵攻があった。広島市長の平和宣言には《ロシアの文豪トルストイが『戦争と平和』で残した「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない。他人の幸福の中にこそ自分の幸福があるのだ」という言葉こそかみしめるべきだ》とあり、長崎市長は《最初の原水爆禁止世界大会で被爆者の渡邊千恵子さんが会場に登場した際、一斉にフラッシュを焚かれ「見世物じゃあないぞ」などと会場が騒然となったとき、渡辺さんは澄んだ声で「世界の皆さん、どうぞ私を写してください。そして、二度と私をつくらないで下さい」と言われました。核保有国の皆さん、この言葉に込められた魂の叫びが聴こえますか》と宣言文の冒頭で採用された。
 またこれより先の6月23日、沖縄戦終結77年「慰霊の日」戦没者追悼式典で、小学校2年生の徳元穂菜さんがたどたどしくも毅然として「平和の詩」を朗読し、戦争の怖さや平和の尊さを訴えたその最後に「こわいを知って平和が分かった」と言った。この切掛けは故丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」だった。
 「記憶は次第に薄れていく」切掛けは様々、例えば、下関市は「非核都市宣言都市』。元広島市庁舎の前庭の被爆した敷石を下関市は昭和61年(1986)2月24日に譲り受け、現在は市役所ロビーの片隅に置かれているが、野村氏は「『広島の石』の存在と平和祈念のため、是非皆さんが見てほしい」と、ことあるたびに言われていた。
 「何でもいい、スーッと丸を書いて中にぽつぽつッと点で目鼻を書くと笑顔になる、笑顔が一番」と言っていた「ノンちゃん」。残念だけど、唯々、ご冥福を。
 写真は、在りし日の野村氏(語りの会)と第18回「下関空襲・終戦展」会場

馬関戦場ヶ原の慈光地蔵尊

705 戦場ヶ原に建つ慈光地蔵尊

 詩人・北川透氏が豊橋市から下関市に移住し最初に出版した詩集に『戦場ヶ原まで』があり、その一節が『やまぐち文学散歩』(H.21=2009)に掲載されるとき戦場ヶ原の桜風景の写真を提供したことがある。
 この本では「なぜ上野の寛永寺の桜ではなく/馬関の戦場ヶ原の桜なのか/なぜ東上ではなく/西下なのか/すでにここは赤馬の駆けることばの瀬戸/すでにここはからすの啼く唐戸/狭い海の入り口/あるいはことばの出口」と詩の一部が紹介されている。馬関とか赤馬をここで紹介するつもりはないが、東上、西下の表現が面白い。
 その後、北川氏は詩人再生を本州最西端の地で吐露する詩集『溶ける、目覚まし時計』で、第38回高見順賞を受賞(2007年度)された。
 戦場ヶ原と言われるのは、現在でこそJR幡生駅から直線距離で南東に650m。学園地域(下関南高、下関西高、下関商高など)の北側、後田町5丁目標高約55mの丘で桜の名所と言われているが、明治時代には、西日本で国を守る下関地区の要塞として、ドイツ人・メッケル陸軍少佐の指導による兵舎、弾薬庫、練兵場、壕、砲台などを配備、設計をして、地下道、地下室、飲料水貯水所などを完備した「戦場ヶ原堡塁」として明治22年(1889)に着工、同24年には完成させたもので、我が国の要塞のモデルとして陸軍大学の学生が見学に来るほどの旧要塞地だった。
 この広大な敷地は、太平洋戦争後の昭和40年から山口県下関土木事務所によって公園化がすすめられ、戦場ヶ原公園として市民に開放された。
 野球場などの広場やソメイヨシノ320本が大きく育った桜の名所であり、展望台からは、唐戸方面の関門海峡側市街地や目を転じて幡生・山の田から玄界灘方面も一望できる観光地でもあるが、旧要塞であった痕跡がほとんど見当たらないのが惜しまれてならない。
 ただ、同敷地内には昭和17年(1942)に建立された忠霊塔が現存し、この塔を、過去数次の戦争において国難に殉じた郷土出身の4800余名の戦没者を追悼し恒久平和への誓いを新たにすると下関連合遺族会が戦後50年を経た平成7年(1995)に忠霊塔由来の碑を設置している。戦傷の碑(昭和56年=1981・下関傷痍軍人会・同妻の会建立)、そして戦災殉難者之碑として慈光地蔵尊が昭和30年7月2日に下関市が奉建功徳主として造顕されている。
 さて、下関市街は昭和20年(1945)6月29日と7月2日、いずれも午前0時から2時ごろの敵機襲来で焼夷弾893tの空襲だった。被災は前田、壇の浦から竹崎までの海岸線から園田、宮田、田中、貴船、丸山、東大坪、高尾、丸山町までの中央部まで約109万㎡、市役所他官公署34、学校9、工場120、病院10、神社寺院60その他家屋を合わせて被災建物は1万168件。死者324人、負傷者1059人、焼け出された人を含めて被災人口は4万6408人となっている。(『カンナ燃える夏』より)
 特に7月2日の場合は、警戒警報が出て間もなくいったん解除され、市民は安堵して床についたが突然の空襲で市民の避難も間に合わないほどの火勢で多くの焼死者が出た。特に宮田町の清和園に避難しようと高台に向かった人は、幸町と宮田町からの火災に巻き込まれ75人全員焼死体となった。ライフラインは破壊され麻痺してしまった。
 慈光地蔵尊の台座には、「昭和20年7月2日当市における戦災殉難諸精霊の永劫の冥福を祈願し、願わくば説々たる成神力を以てあまねく光明を照らし一切の萬霊を引導し菩提を成就ならしめ給へえ」とある。
 焦土と化した市街地に向かって建立された慈光地蔵尊、地獄の責め苦から救う慈しみと光明を与える地蔵菩薩であろうか。
 そこは「サクラ」の時期に限らず平和の尊さを認識し祈念する「馬関の戦場ヶ原」である。
 写真は、戦場ヶ原に建つ慈光地蔵尊

ハマユウの角島へ

704 重要文化財の角島灯台を背景にしたハマユウ群生地

 7月下旬のことだが「お兄ちゃん、明日、暇じゃったら角島のハマユウでも見に行かん」と電話があった。お天気はともかくとして、夏の角島はこのところ敬遠しているし、しかも夏休みになったばかりで土曜日、しかし折角の有難いお誘いである。時には思い切って渋滞も体験してみようか!との決断で、同行を決めた。
 天気予報は曇り一時晴となっていた。翌朝、我が家は曇天だったが、北浦方面には雨が降ったらしい。ところで、吉見、川棚あたりまで車も多くない。二見から特牛、角島大橋を過ぎても渋滞に関係なくスムーズに角島夢ヶ崎に到着した。
 角島灯台は一昨年のコロナ流行期になって以来一年半ぶりの訪問だが、今回はただハマユウを見るためにその場に立ったのである。
 ハマユウは、ヒガンバナ科ハマオモト属、浜木綿・文珠蘭とも書く。日本では房総半島の南海岸から南の太平洋暖流が打ち寄せる沿岸の砂浜などに自生し、日本海側では山口県長門市の「二位が浜」が北限地とされ、山口県の天然記念物に指定(1956)されている。
 万葉植物で、柿本人麻呂に「み熊野の浦のはまゆう百恵なす心は念へど直に逢わぬかも」(四九六)がある。分布地でいえば宮崎県は県の花。下関市、室戸市など5市が市の花。真鶴町など9町村が町村の花に指定している。この花が、夏の盛りに紺碧の海に対峙して白い薫り高い花を咲かせ、心を癒してくれるのが好まれるのであろう。
 花は、7月から9月半ば迄だがオモトのような葉の間から太くまっすぐに茎を0.5~1.0m位のばして、先端に20個ばかり白く細長い6枚の花を咲かせる。
 花言葉は「どこか遠くへ」「汚れが無い」「快楽、清潔」などである。
 下関市は、昭和44年(1969)に、吉母海岸植物群落(記念物)として指定しているが、これはハマユウを中心にハマゴウ、コウボウムギ、ハマナタマメ、ホソバワダン、樹木のマルバシャリンバイ、トベラ、クロマツなど一切を含めて黒島一帯の植物群落である。
 下関市では、海水浴場を利用する人は綾羅木、安岡などから吉母さらに土井ヶ浜、角島へと移り変わった。吉母の人気が出だしたころ黒島一帯にゴミを残しハマユウなどを持ち帰る人も増えた。そこで吉母小学校では校庭に「育苗園」を設けて夏休みも児童は水やりをして大きく育ったものを海岸に移植を続け文化財保護もしてきた。
 角島は。北長門海岸国定公園の一部であり、夢ヶ崎は島の西北西にあって灯台と共に重要な観光地。中でもハマユウはこの砂丘地帯の夏の主役で、ここから延びる国石(くんぜ)岩礁は、かって北前船などが「10里沖を通れ」と言われたほどの難所である。
 ハマユウの咲く丘には明神様が祀られ、その一帯には海に潜った海女たちがその漁を終えて陸に上がるとき、安全に済ませたお礼にと、その都度、海の石を拾って積み上げた石垣がある。明治8年には、灯台を築いた石工たちが建てたという鳥居もあるが、最近この鳥居の上にお賽銭箱が置かれていた。
 国石岩礁を境に、波は東西から寄せてきてぶっかり合う凄さを実感するが、角島灯台の側にはここだけを照らすクヅ瀬照射灯も設置されている。
 明神様の近くに立つと見渡す限りハマユウの花であり、妹は「ほらほら、やっぱり来てよかったじゃない、これほどたくさんのハマユウがあるって知らなかった。それに、この砂はきらきら光るねぇ!」と感激していた。この砂丘の砂は貝殻の破片をたくさん含んでいることでも特異な場所である。
 何よりも、花崗岩造り塗装されていない白亜の灯台(重要文化財)が遠景としてあるのだ、やはりこの景色、渋滞であっても夏には見たい風景である。
 写真は、重要文化財の角島灯台を背景にしたハマユウ群生地