馬関戦場ヶ原の慈光地蔵尊 | Issay's Essay

馬関戦場ヶ原の慈光地蔵尊

705 戦場ヶ原に建つ慈光地蔵尊

 詩人・北川透氏が豊橋市から下関市に移住し最初に出版した詩集に『戦場ヶ原まで』があり、その一節が『やまぐち文学散歩』(H.21=2009)に掲載されるとき戦場ヶ原の桜風景の写真を提供したことがある。
 この本では「なぜ上野の寛永寺の桜ではなく/馬関の戦場ヶ原の桜なのか/なぜ東上ではなく/西下なのか/すでにここは赤馬の駆けることばの瀬戸/すでにここはからすの啼く唐戸/狭い海の入り口/あるいはことばの出口」と詩の一部が紹介されている。馬関とか赤馬をここで紹介するつもりはないが、東上、西下の表現が面白い。
 その後、北川氏は詩人再生を本州最西端の地で吐露する詩集『溶ける、目覚まし時計』で、第38回高見順賞を受賞(2007年度)された。
 戦場ヶ原と言われるのは、現在でこそJR幡生駅から直線距離で南東に650m。学園地域(下関南高、下関西高、下関商高など)の北側、後田町5丁目標高約55mの丘で桜の名所と言われているが、明治時代には、西日本で国を守る下関地区の要塞として、ドイツ人・メッケル陸軍少佐の指導による兵舎、弾薬庫、練兵場、壕、砲台などを配備、設計をして、地下道、地下室、飲料水貯水所などを完備した「戦場ヶ原堡塁」として明治22年(1889)に着工、同24年には完成させたもので、我が国の要塞のモデルとして陸軍大学の学生が見学に来るほどの旧要塞地だった。
 この広大な敷地は、太平洋戦争後の昭和40年から山口県下関土木事務所によって公園化がすすめられ、戦場ヶ原公園として市民に開放された。
 野球場などの広場やソメイヨシノ320本が大きく育った桜の名所であり、展望台からは、唐戸方面の関門海峡側市街地や目を転じて幡生・山の田から玄界灘方面も一望できる観光地でもあるが、旧要塞であった痕跡がほとんど見当たらないのが惜しまれてならない。
 ただ、同敷地内には昭和17年(1942)に建立された忠霊塔が現存し、この塔を、過去数次の戦争において国難に殉じた郷土出身の4800余名の戦没者を追悼し恒久平和への誓いを新たにすると下関連合遺族会が戦後50年を経た平成7年(1995)に忠霊塔由来の碑を設置している。戦傷の碑(昭和56年=1981・下関傷痍軍人会・同妻の会建立)、そして戦災殉難者之碑として慈光地蔵尊が昭和30年7月2日に下関市が奉建功徳主として造顕されている。
 さて、下関市街は昭和20年(1945)6月29日と7月2日、いずれも午前0時から2時ごろの敵機襲来で焼夷弾893tの空襲だった。被災は前田、壇の浦から竹崎までの海岸線から園田、宮田、田中、貴船、丸山、東大坪、高尾、丸山町までの中央部まで約109万㎡、市役所他官公署34、学校9、工場120、病院10、神社寺院60その他家屋を合わせて被災建物は1万168件。死者324人、負傷者1059人、焼け出された人を含めて被災人口は4万6408人となっている。(『カンナ燃える夏』より)
 特に7月2日の場合は、警戒警報が出て間もなくいったん解除され、市民は安堵して床についたが突然の空襲で市民の避難も間に合わないほどの火勢で多くの焼死者が出た。特に宮田町の清和園に避難しようと高台に向かった人は、幸町と宮田町からの火災に巻き込まれ75人全員焼死体となった。ライフラインは破壊され麻痺してしまった。
 慈光地蔵尊の台座には、「昭和20年7月2日当市における戦災殉難諸精霊の永劫の冥福を祈願し、願わくば説々たる成神力を以てあまねく光明を照らし一切の萬霊を引導し菩提を成就ならしめ給へえ」とある。
 焦土と化した市街地に向かって建立された慈光地蔵尊、地獄の責め苦から救う慈しみと光明を与える地蔵菩薩であろうか。
 そこは「サクラ」の時期に限らず平和の尊さを認識し祈念する「馬関の戦場ヶ原」である。
 写真は、戦場ヶ原に建つ慈光地蔵尊