Issay's Essay -12ページ目

2210雑感

712 花をつけたキンモクセイの樹

 コロナ感染第七波は、10月に入って下火になりつつではあっても、決定的に治まった風でもなく、政府の水際対策の大幅緩和と全国旅行支援が始まり、少し心配だけど下関も観光客が賑わいを取り戻した感じがある。
 プロ野球は、レギュラーシーズン最終戦でヤクルトの村上宗隆内野手が神宮球場で56号のホームランを放ち、1964年の王貞治(巨人)55本を抜いてシーズン最多記録を達成。彼は熊本出身の22歳である。今季、首位打者、本塁打王、打点王の打撃主要3部門のタイトルを独占する3冠王になった。
 そして日本シリーズの前哨戦クライマックスシリーズが始まり、流石に熱のこもった試合が連日続いた。何処をというほどのフアンでもなく、西武とソフトバンクの試合を見ていたら、0-0の3回裏2死満塁、柳田が低めのスライダーを振りぬいた打球は右スタンドへ。34歳の誕生日満塁ホームランだった。この日ソフトバンクは8-2で西武を下しファイナルステージに進んだが、西武の辻発彦監督は退任を発表した。
 サッカーの第102回天皇杯決勝で、J2のヴァンホーレ甲府がJ1のサンフレッチェ広島にPK戦を5-4で勝って初優勝。まさに無欲の栄冠、下剋上と報じた紙面もあった。
 試合ごとに選手評価、監督責任など、プロの世界は厳しく華々しい葛藤の世界である。
 先に、9月27日の安倍晋三元総理の「国葬」が、世論の賛否が割れる中、日本武道館で内外約4200人の参列者をあつめて執り行われたが、菅義偉元首相は弔辞の中で、安倍首相が読みかけの『山県有朋』の本から、山県の朋友・伊藤博文の死後に、故人を偲んだ短歌「語りあいて尽くしし人は先立ちぬ今より後の世をいかにせむ」を引用したのが印象深いものだった。
 また、山口県としては銃撃事件から100日目の7月15日、下関市の海峡メッセに約2000人の参列者で「県民葬」が行われた。安倍氏の生前を記録した映像が約5分間、葬儀委員長村岡嗣政知事の追悼では「吉田松陰先生のようにたくさんの人の心に種をまいた‥」などと言われていたが、この県民葬にしても「税金の使い過ぎ」という反対の声も多くあった。
 祭壇には、多くの白い菊の花が積み上げられた。それでも、国葬はともかく県民葬が行われて良かったなと思っている。
 連日ロシア、ウクライナの報道が流れている中で、10月8日、ノーベル平和賞受賞がウクライナ人権団体「市民自由センター」(CCL)に決まった日、ロシアの動脈「クリミア橋」でショッキングな爆発があり、これはウクライナのテロ事件として対抗したロシアは10日ウクライナの首都キーウを含む全土20都市を80発を超えるミサイルで攻撃した。
 こうした世情の中で、季節の秋は深まりつつあり甘い香りが漂っている。キンモクセイは、ジンチョウゲ、クシナシと合わせて日本の三大芳香木の一つである。
 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も佳境に入ったが、源頼朝が崇敬し、北条政子の奉納した国宝「梅蒔絵手箱」(レプリカ)が宝物館にある三嶋大社には、樹齢1200年と伝えられ開花期には二里四方にまで香りが届くというキンモクセイがあった。大社のある静岡県は県木に、この近くでは鹿島市・山鹿市・別府市など全国25市区町村の木にキンモクセイが指定されている。
 花言葉は「謙遜」「真実」、常緑広葉樹の木にオレンジ色の小花が群がって咲いている。
 「もくせい」を万葉では「月之内之楓・月人之楓=つきぬちのかつら」と呼ぶそうだが、万葉集には「もみぢする時になるらし月人の楓の枝の色づく見れば(2202)」とある。
 海の近くでは「キンモクセイの育ちが悪いよ」と言われていたが、彦島には結構各所で甘い香りが漂い、秋を存分に味わっている。
 写真は花をつけたキンモクセイの樹

受難の石仏2体

711 観音様を仮組みして安堵の玄空寺住職(左)と造成工事現場の側に仮置きの役行者

 つい10日位前に通って気になっていた場所を、思わず通ることになった。
 川棚から下関に通じる農免道路(県道244)の済生会下関総合病院に近づくあたりで、右側に別れ安岡小学校方面に向かう少し細い道がある。
 この別れ道に挟まれた三角地には、この農免道路が昭和51年(1976)5月に完成したときに、当時農林大臣だった安倍晋太郎の揮毫で安岡農免道路完工記念を題字とした記念碑(高2m幅1.4m、厚0.6m)が据えられ、裏面には「農免や村も栄えて五月晴れ 里風」という俳句が彫られている。すぐ側には農免道路記念公園の碑が建っている。
 別れ道を頂点としたこの三角公園は、現在、藪になっていて三角の底辺に当たる道筋に、見事な役行者の石像があった。台座には「右せき左長府」の文字があり、ここが山陰路を下って来て下関と長府方面の追分だったことを示す道標でもあった。
 最近、安岡地方では各所で住宅化が進んでいるが、あの日ふと通り過ぎたときその場所が造成地となっていた。ならばあの役行者がどうなったのだろう?と気になった。(近いうちに調べてみようとその時は後戻りしなかった)
 その場所を通ることになって確認すると、案の定その位置まで造成範囲となっていて、役行者はそこに無く、あたりを見回すと仮置きの状態で三角地帯側にパレットを敷台としてかわされていた。その日は土曜日で造成の作業員も居ず今後どのようになるのかの確認は出来なかったが、存在感のある方向で保存されることを祈るばかりだった。
 さて、この道を通ることになったのは、市内でも美しいと思い続けていた玄空寺の観音像撮影が目的で、アポなし直接の訪問を決めたのは、同宗派の東行庵顧問・安富さんに同行していたことにある。
 玄空寺の正面は、ずいぶんきれいに整備されていた。このお寺には愉快な句碑がある「雲水の米櫃ひろき青田かな」住宅化が進みつつあってもまだ山門前の広々とした田んぼに休耕田はほとんど見られない。この句は21代住職の波田雲遊が明治39年(1906)10数年間この寺にいるときの句会で開いたときの作で、雲遊が大正7年(1918)にこの寺を去るとき弟子たちが建てたものである。
 脱線しまったが、先ず観音様が座っていたと思われる本堂の裏手に回ってみたが、一見して分からず或いは屋内に安置されているかな?と思って呼び鈴で訪ねることにした。
 ご住職とは、20年来のご無沙汰だったが東行庵の行事などでの顔見知りで、直接「観音さんの撮影に来ましたが・・」と用件を言ったとたんに「あれは裏側のほれあそこに‥」と玄関から見える裏庭を振りむかれたとたんに「あれっ無くなっている?ほれ、あれが台座で‥」と、少し焦りの面持ちである。あの辺りを遠くから見たばかりだがと思ったが、確かに玄関から台座だけは確認できた。「たったこの前まではあったんだけど・・持っていかれたかな?」「どう見てもここからは見えませんねぇ」と言うほかはなかった。
 ご住職は「あそこに行ってみましょう」と、3人で裏側に回ることになった。
 あの可愛い美しい仏さんだから盗難も考えられなくもないが、目的のものが無い、残念。住職はそれ以上心配されながら歩を進めて居られただろう。
 その場所に近づいたとき、台座の山手に、腰、胴体と腕、そして頭部が転がっていた。ご住職は慌ててそれを拾い集めながら「在って良かった」と言われながら組み立てである。
 どうやら、鹿か何かの動物が庭に来ていて何かに驚いて駆け上ったとき、観音様に激突して転がし、台石に当たって割れたのであろうかと推察した。
 一寸情けないやら、悔しいやら、でも観音様が在ってよかった。仮組でもやはり美しい。ともかくその姿を撮影した。住職は「石材屋さんに相談してみましょう」と微笑に安堵感があった。
 この日、偶然に受難の石仏2体に遭遇した。修復されたお姿をもう一度訪ねたい。
 写真は観音様を仮組みして安堵の玄空寺住職(左)と造成工事現場の側に仮置きの役行者

久しぶりの直方市

710 土門拳写真展会場となった直方谷尾美術館(右)と直方市石炭記念館本館

 「直方で土門拳の写真展をやっていますが・・ご一緒しませんか」と写真家・中野英治さんに誘われた。福岡県直方市は、エネルギー転換にあえぐ筑豊を昭和40年に取材し、直方には2~3度訪ね駅前に「坑夫の像」があったような気もするが、町の中を歩いた記憶はない。「直方の町を全く思い出さないので、市内を少し見たいが」と話して同行した。
 写真家・土門拳(1909~90)は、私が写真を始めたころのカメラ雑誌で「絶対非演出を前提にしたリアリズム写真」を推奨し情熱的で迫力のある選評を掲載、自らもこれを実践し戦中から、伝統文化或いは文化人の風貌なども頑固に撮影されていた。
 彼は、昭和34年11月に筑豊を取材し翌年1月には、異例のザラ誌100円という廉価で『筑豊のこどもたち』写真集を出版された。この疲れがあったのか翌年2月脳出血で入院、その後も筑豊の取材をされている。
 10数年前に、田川市美術館での「土門拳展」を鑑賞し充実感を覚えたが、今回は同じ筑豊地域としての「直方谷尾美術館」である。
 写真展は、土門拳記念館コレクションの作品巡回展で、地域性に合わせた作品選別もなされた約120点。代表作『古寺巡礼』の大型写真を最初に見せる構成となっていて『風貌』や『ヒロシマ』は散漫な印象を受けた。『筑豊のこどもたち』にも展示に工夫がほしい感じがした。ただ、こうした原画が地方で公開されることは有難いことで、参観者も多かった。今回のポスターに《若い看護婦=1938年》が使用されていたが、これは戦中の国策写真の感じがして、私はあまり好きな写真ではなかった。
 この谷尾美術館は、昭和初期の医院を改装した私立美術館だったものを、後に市に寄贈されたクラシックな建物だった。中野氏が昼食にと目星をつけていたギャラリーレストランも古町の銀天街の一角にある元は十七銀行(そして元福岡銀行)の建物で、ガラス製品を収集した「アートスペース谷尾」の中にあった。
 食事を済ませて、直方駅まで約500m歩く。暫くは丸型の明るく広いアーケード街、大型店舗、老舗らしい店構えなどはあるが7割がたシャッターと言っても良いかな!途中から直角に曲がって駅方面に今度は三角屋根のアーケード街、駅前といえどもシャッター通り、途中に成金饅頭の本店があった。
 駅前はすっかり様子が変わって、石炭時代のイメージはなく普通のターミナル駅、一つ記憶にある「坑夫の像」は見当たらず、元大関・魁皇のブロンズ像が据えられていた。
 それから私たちは、筑豊本線の線路を超えた多賀神社と石炭資料館に向かった。
 多賀神社(祭神、イザナギ・イザナミノミコト)は見事なお社だったが社務所も閉って10月の祭礼ポスターがあり、可愛い桃子土鈴、夫婦鶺鴒土鈴などの見本が置かれていた。
 隣接して昭和46年(1971)に開館した直方市石炭記念館(入場料大人100円)。
 明治初期、願い出れば誰でも石炭の採掘が出来て明治12年には炭鉱総数は600坑にもなった筑豊炭鉱。県令により遠賀、鞍手、嘉麻、穂波、田川の5郡内に各同業組合が出来て、これらが統一して若松に筑豊五郡坑業組合取締所、石炭一括販売所を併設、その後明治26年に筑豊石炭鉱業組合と改称し若松に本事務所を設置したが、筑豊地区から遠く不便なため、実質的な指揮所として直方に明治43年(1910)8月、筑豊石炭鉱業組合直方会議所を建設した建物が現存する石炭記念館本館で、別に新館・化学館の3館で構成されたて石炭記念館となっていた。
 筑豊炭鉱の歴史、採炭方法、道具などの資料が揃えられていて、屋外には蒸気機関車、採炭機械、救護隊の練習坑道などがあり、あの駅前にあった「坑夫の像」はここに移設されていた。この記念館では、特に坑内事故発生を重視した、当時の救護模擬坑道が存在し、ここでの訓練は44638名に及んだと言われる。この施設と直方会議所の建物(本館)と、田川の三井田川鉱業所伊田坑跡、飯塚目尾炭鉱跡が、平成30年(2018)に「筑豊炭田遺跡群」として国指定史跡になっていた。
 2名の管理者が説明もされていたが、山本作兵衛の絵画(10枚)を除いて撮影は自由、年間来館者は1万5千人位と言われていた。
 写真は土門拳写真展会場となった直方谷尾美術館(右)と直方市石炭記念館本館