受難の石仏2体
つい10日位前に通って気になっていた場所を、思わず通ることになった。
川棚から下関に通じる農免道路(県道244)の済生会下関総合病院に近づくあたりで、右側に別れ安岡小学校方面に向かう少し細い道がある。
この別れ道に挟まれた三角地には、この農免道路が昭和51年(1976)5月に完成したときに、当時農林大臣だった安倍晋太郎の揮毫で安岡農免道路完工記念を題字とした記念碑(高2m幅1.4m、厚0.6m)が据えられ、裏面には「農免や村も栄えて五月晴れ 里風」という俳句が彫られている。すぐ側には農免道路記念公園の碑が建っている。
別れ道を頂点としたこの三角公園は、現在、藪になっていて三角の底辺に当たる道筋に、見事な役行者の石像があった。台座には「右せき左長府」の文字があり、ここが山陰路を下って来て下関と長府方面の追分だったことを示す道標でもあった。
最近、安岡地方では各所で住宅化が進んでいるが、あの日ふと通り過ぎたときその場所が造成地となっていた。ならばあの役行者がどうなったのだろう?と気になった。(近いうちに調べてみようとその時は後戻りしなかった)
その場所を通ることになって確認すると、案の定その位置まで造成範囲となっていて、役行者はそこに無く、あたりを見回すと仮置きの状態で三角地帯側にパレットを敷台としてかわされていた。その日は土曜日で造成の作業員も居ず今後どのようになるのかの確認は出来なかったが、存在感のある方向で保存されることを祈るばかりだった。
さて、この道を通ることになったのは、市内でも美しいと思い続けていた玄空寺の観音像撮影が目的で、アポなし直接の訪問を決めたのは、同宗派の東行庵顧問・安富さんに同行していたことにある。
玄空寺の正面は、ずいぶんきれいに整備されていた。このお寺には愉快な句碑がある「雲水の米櫃ひろき青田かな」住宅化が進みつつあってもまだ山門前の広々とした田んぼに休耕田はほとんど見られない。この句は21代住職の波田雲遊が明治39年(1906)10数年間この寺にいるときの句会で開いたときの作で、雲遊が大正7年(1918)にこの寺を去るとき弟子たちが建てたものである。
脱線しまったが、先ず観音様が座っていたと思われる本堂の裏手に回ってみたが、一見して分からず或いは屋内に安置されているかな?と思って呼び鈴で訪ねることにした。
ご住職とは、20年来のご無沙汰だったが東行庵の行事などでの顔見知りで、直接「観音さんの撮影に来ましたが・・」と用件を言ったとたんに「あれは裏側のほれあそこに‥」と玄関から見える裏庭を振りむかれたとたんに「あれっ無くなっている?ほれ、あれが台座で‥」と、少し焦りの面持ちである。あの辺りを遠くから見たばかりだがと思ったが、確かに玄関から台座だけは確認できた。「たったこの前まではあったんだけど・・持っていかれたかな?」「どう見てもここからは見えませんねぇ」と言うほかはなかった。
ご住職は「あそこに行ってみましょう」と、3人で裏側に回ることになった。
あの可愛い美しい仏さんだから盗難も考えられなくもないが、目的のものが無い、残念。住職はそれ以上心配されながら歩を進めて居られただろう。
その場所に近づいたとき、台座の山手に、腰、胴体と腕、そして頭部が転がっていた。ご住職は慌ててそれを拾い集めながら「在って良かった」と言われながら組み立てである。
どうやら、鹿か何かの動物が庭に来ていて何かに驚いて駆け上ったとき、観音様に激突して転がし、台石に当たって割れたのであろうかと推察した。
一寸情けないやら、悔しいやら、でも観音様が在ってよかった。仮組でもやはり美しい。ともかくその姿を撮影した。住職は「石材屋さんに相談してみましょう」と微笑に安堵感があった。
この日、偶然に受難の石仏2体に遭遇した。修復されたお姿をもう一度訪ねたい。
写真は観音様を仮組みして安堵の玄空寺住職(左)と造成工事現場の側に仮置きの役行者
