久しぶりの直方市 | Issay's Essay

久しぶりの直方市

710 土門拳写真展会場となった直方谷尾美術館(右)と直方市石炭記念館本館

 「直方で土門拳の写真展をやっていますが・・ご一緒しませんか」と写真家・中野英治さんに誘われた。福岡県直方市は、エネルギー転換にあえぐ筑豊を昭和40年に取材し、直方には2~3度訪ね駅前に「坑夫の像」があったような気もするが、町の中を歩いた記憶はない。「直方の町を全く思い出さないので、市内を少し見たいが」と話して同行した。
 写真家・土門拳(1909~90)は、私が写真を始めたころのカメラ雑誌で「絶対非演出を前提にしたリアリズム写真」を推奨し情熱的で迫力のある選評を掲載、自らもこれを実践し戦中から、伝統文化或いは文化人の風貌なども頑固に撮影されていた。
 彼は、昭和34年11月に筑豊を取材し翌年1月には、異例のザラ誌100円という廉価で『筑豊のこどもたち』写真集を出版された。この疲れがあったのか翌年2月脳出血で入院、その後も筑豊の取材をされている。
 10数年前に、田川市美術館での「土門拳展」を鑑賞し充実感を覚えたが、今回は同じ筑豊地域としての「直方谷尾美術館」である。
 写真展は、土門拳記念館コレクションの作品巡回展で、地域性に合わせた作品選別もなされた約120点。代表作『古寺巡礼』の大型写真を最初に見せる構成となっていて『風貌』や『ヒロシマ』は散漫な印象を受けた。『筑豊のこどもたち』にも展示に工夫がほしい感じがした。ただ、こうした原画が地方で公開されることは有難いことで、参観者も多かった。今回のポスターに《若い看護婦=1938年》が使用されていたが、これは戦中の国策写真の感じがして、私はあまり好きな写真ではなかった。
 この谷尾美術館は、昭和初期の医院を改装した私立美術館だったものを、後に市に寄贈されたクラシックな建物だった。中野氏が昼食にと目星をつけていたギャラリーレストランも古町の銀天街の一角にある元は十七銀行(そして元福岡銀行)の建物で、ガラス製品を収集した「アートスペース谷尾」の中にあった。
 食事を済ませて、直方駅まで約500m歩く。暫くは丸型の明るく広いアーケード街、大型店舗、老舗らしい店構えなどはあるが7割がたシャッターと言っても良いかな!途中から直角に曲がって駅方面に今度は三角屋根のアーケード街、駅前といえどもシャッター通り、途中に成金饅頭の本店があった。
 駅前はすっかり様子が変わって、石炭時代のイメージはなく普通のターミナル駅、一つ記憶にある「坑夫の像」は見当たらず、元大関・魁皇のブロンズ像が据えられていた。
 それから私たちは、筑豊本線の線路を超えた多賀神社と石炭資料館に向かった。
 多賀神社(祭神、イザナギ・イザナミノミコト)は見事なお社だったが社務所も閉って10月の祭礼ポスターがあり、可愛い桃子土鈴、夫婦鶺鴒土鈴などの見本が置かれていた。
 隣接して昭和46年(1971)に開館した直方市石炭記念館(入場料大人100円)。
 明治初期、願い出れば誰でも石炭の採掘が出来て明治12年には炭鉱総数は600坑にもなった筑豊炭鉱。県令により遠賀、鞍手、嘉麻、穂波、田川の5郡内に各同業組合が出来て、これらが統一して若松に筑豊五郡坑業組合取締所、石炭一括販売所を併設、その後明治26年に筑豊石炭鉱業組合と改称し若松に本事務所を設置したが、筑豊地区から遠く不便なため、実質的な指揮所として直方に明治43年(1910)8月、筑豊石炭鉱業組合直方会議所を建設した建物が現存する石炭記念館本館で、別に新館・化学館の3館で構成されたて石炭記念館となっていた。
 筑豊炭鉱の歴史、採炭方法、道具などの資料が揃えられていて、屋外には蒸気機関車、採炭機械、救護隊の練習坑道などがあり、あの駅前にあった「坑夫の像」はここに移設されていた。この記念館では、特に坑内事故発生を重視した、当時の救護模擬坑道が存在し、ここでの訓練は44638名に及んだと言われる。この施設と直方会議所の建物(本館)と、田川の三井田川鉱業所伊田坑跡、飯塚目尾炭鉱跡が、平成30年(2018)に「筑豊炭田遺跡群」として国指定史跡になっていた。
 2名の管理者が説明もされていたが、山本作兵衛の絵画(10枚)を除いて撮影は自由、年間来館者は1万5千人位と言われていた。
 写真は土門拳写真展会場となった直方谷尾美術館(右)と直方市石炭記念館本館