剣持さんの国際親善交流活動
四半世紀前、下関市立美術館で剣持研治さんの『ネパール写真展』が開催されたとき、写真友達の原宏さんから剣持さんを紹介された。
彼は、サラリーマンで本格的に写真を撮り始めたのは44歳、地元の写真クラブに所属し、主に山岳写真を専門に、九重、屋久島、北アルプス、黒部源流などから、スイスのヨーロッパアルプスの三大名峰をトレッキング。そして1996年にネパールを訪ねヒマラヤをトレッキングしたときの写真を1997年(平成9年)5月に発表された写真展だった。
ヒマラヤの写真は良く撮れていてたしかに美しいものだった。
しかし私は、チョムロン村の段々畑が朝の光で彫刻を見るように写出された一枚に、長年この自然と対峙した歴史が滲んでいて、地域に生きる人々の写真と共に感動があった。
持ち前のバイタリティーと好奇心、優しさのある面持ちが旅行者で初対面でありながらも親しみを感じさせるのだろうか、人物写真には真剣にその土地で生き抜いた人々の感情が、厳しさの中にも穏やかに語り掛けてきた。子供たちの表情にしても、大自然の中に精一杯頑張り、今を満足げに楽しんでいる姿が表現されていた。
代表作の一枚、足の不自由な子供が、どの様にして石垣の上に座ったのか、その背景には特徴のあるヒマラヤの峰(アンナプルナ連峰・マチャプチャレ=6993m)があり、兄弟の表情は素朴な笑顔だった。
彼はその年の秋、写真集の発行を決めたとき、本の題名について相談された。8千m級のヒマールを頂く険しくも神々しい場所に住まう人々の瞳に親しみを感じて『ヒマールの瞳』と呟いたのを記憶している。
剣持さんはその後、カンボジアの取材を続けアンコール・ワット遺跡などのほか内戦で不発弾が残る現地で逞しく生きる人々、地雷に傷ついた人などもふくめて、観光化されたカンボジアの現状を捉え2004年(平成16年)春、同じ美術館で見事な個展をされ、6月1日には写真集『クメールの笑顔』を出版された。
これらの本は、律儀にもこれらの国々の被写体になった人などへのお礼として出版されたもので、国際親善交流活動はカンボジア訪問20年で44回を数え、多くの皆さんの協力を得ながら学用品支援を続け、プレゼントした児童、学生は6万人以上、特に、生活道路建設資金を懇願されたときは退職金を当てたと知った。
このほど第17回(2022年度)の支援活動の集いが行われる前に、剣持さんが全く久しぶりに我が家に来られ「(ご本人は77歳)昨年は半年も入院する大病もした。協力してくれる知人友人のことも考えると、一応これで幕を閉じることにしました。是非ご出席を・・」と招待された。
最終回になる集いは、コロナ禍が治まりつつある9月上旬の開催。先ずビデオによるカンボジア親善交流活動の記録を放映、同行された方々によるカンボジアの移り変わりの現状、剣持さんの写真、支援を支えカンボジア訪問で人生が変わったことなどの挨拶とテーブルスピーチ。
後半は、常に支援を続け演奏されてきたグループによる、ポピュラーな曲でチャリティ
ーコンサート、それと剣持さんの知り合いによるラテン音楽のソロ演奏。1時間余り、しみじみとそしてリズミカルに時が流れ最後に皆で「故郷」の合唱だった。
その活動を振り返ると『写真』が縁で、これほどまでに国際的な支援活動にのめり込んだ剣持さんの、不屈な探求心と精神力に驚愕するばかり。ご活躍本当にご苦労でした。
今後は援助された国々の皆さんを思いながら、この地で身近なものに目を向けて写真を楽しんでほしいと思うばかりだった。
写真は国際親善活動のきっかけになった2冊の本と最終回の集いでの剣持さん(中央)
下関城郭カードコレクション
夏休みも終わりに近い新聞に「下関の城郭・山城のカードを集めてレアカードを貰おう」という記事が掲載された。
記事の内容は『市内の公共施設(歴史博物館・生涯学習センターなど)や観光施設(長府庭園・道の駅など)の指定された場所にその施設に近い城郭や山城のドローン写真と時代背景などを簡単に説明のあるカードが置かれていて、11枚をゲットすると、12枚目のレアカードを入手できる。カードは、川棚温泉観光ボランティアン会、勝山三山を守る会、楢原ゆうあい会、ふるさと再発見作業部会の4団体でつくる「下関城郭サミット」が、昨年(2021.3)にカードを5千枚作成したが新型コロナウイルスの影響で集客活動が鈍っていた。配布は本年12月28日までで無くなり次第終了。市内で確認されている50を超える城郭、山城の中から現地調査が行われた12ヶ所を選び、市教委文化財保護課の中原周一主任が監修。関係者は、若い世代に地域の歴史や文化に興味を持ってもらう入口にと期待する。』というものだった。
以前から、市内の山城や城郭に興味は持っていたが、その数50を超えるというのに驚き、その場所が何処なのかその切掛けにでもと思い「若い世代に期待とあったが、後期高齢者老々二人」弟と共に施設を一巡した。
振り出しに、下関市立歴史博物館《串崎城》のカードだが、簡単なアンケート用紙に記入して1枚目を頂いた。同館では『特別展・歌を詠む武士』を開催中でこれも鑑賞し「下関城郭カードコレクション攻略リーフレット」も頂いた。これには、本州の最西端に位置し九州と対面した下関市は、古代から近代まで交易や交流を担う地域であり、土地の守りを固めるため多くの山城や城郭が築かれた場所でもありました。『下関城郭サミット』では山城から居館などを6っの時代と、それぞれの役割や特徴を紹介」と趣旨目的が書かれ、市内地図に今回のカード施設の配置と50を数えるという城の位置などが記入されていた。
それにしても、彦島地区を見ると10ヶ所の砲台が山城・城郭として記入されている。たしかに吉田松陰も視察されてはいるが、その一部は下関要塞として明治時代の建設によるものであろうか。それなら金比羅や山陰方面にもと思わぬでもない。ともあれ第一弾の全施設を巡回し同じようなアンケートを提出、親切な応対を受け最後にはレアカードも頂いた。このレアカードこそ長門城で、情報が知りたいものだったが場所は?になっていた。
『日本書紀』に665年8月と670年2月に長門城を築いたと記していて、市内では火の山、前田の東・茶臼山、長府の唐櫃山(かろうとやま)、吉見の龍王山などの説にくわえ豊浦町の鬼ヶ城の中腹(ここにも唐櫃山とよばれる山がある)という説が有力である。
この年では、それぞれの場所を踏査することも出来ないが、これをきっかけに若い人たちの研究心に期待したいものである。
写真は下関市内の城郭などへ期待を寄せるパンフとカードなど
旅の記念品(33)-金魚ねぷたとホタテの貝殻-
青森のねぶた祭が、3年ぶりに開催され17台の大型ねぶたが参加し笛太鼓のお囃子や伝統の「ラッセーラー」の掛け声で約3㎞のコースを練り歩いたと、テレビのニュースが流れた。マスク姿であっても東北の3大祭りの復活、観衆と共に喜びがあふれていた。
ふと青森に旅行し、その時の記念品「金魚ねぷた」を思い出した。
青森に旅をしたのは平成20年(2008)5月で、主な目的は、吉田松陰の竜飛岬、本州最北端の大間崎、北前船の港、三内丸山遺跡などだった。
「弘前城」には八重桜があり、「弘前ねぷた村」で祭りの由来や鏡絵、掛け声の「ヤーヤドー」を聞いた。あわせて津軽三味線も堪能。「館内撮影は自由ですよ」とねぷた村の若者の気持ちいい声が、その旅の初めだっただけに今も青森の印象として残っている。
岩木山を背景にリンゴの花を見ながら鯵ヶ沢、深浦などの港町に行き、北前船の歴史を感じ、五所川原市では「太宰治記念館」「立佞武多(たちねぷた)の館」を見学。この館は高さ22m、重さ約17tのねぷたが収まっていた。ここの掛け声は「ヤッテマレ」である。
県内をほぼ一周、随所で「ねぶた」或いは「ねぷた」の話や津軽三味線の演奏を聴き、最後に青森市内では、青森市営球場で完全試合を達成した藤本英雄(巨人軍投手=下関市彦島出身)の記念碑にも立ち寄り、そして三内丸山遺跡を訪ねた。
その広さは38ha(東京ドーム約7ヶ分)とにかく広い、遺跡の復元も充実していて通年公開、見学自由、撮影も自由、ボランティアガイドは当時100人と聞いた。こんな開放的でおおらかな特別史跡、全く羨ましい限りだった。
近くの三内霊園には、函館戦争のとき青森で没した兵士たちの官修墓地を(条例改正により)昭和23年の都市計画でこの場に纏めた19基のお墓があり、内、長州関係者9名が、本州の最北に手厚く葬られ眠っているのを確認した。
飛行機の待時間は、港近くの「アスパム」(地上15階、高さ76mの正三角形の建物)ですごしたが、三角形は青森の「A」をイメージしたもの。そして青森の情報発信基地として自然文化物産を紹介し、コーナーでは津軽三味線の演奏(1日2度)もされていた。ここ
に、小さな青森みやげ「金魚ねぶた」があったので、はじめて実物を見た「ホタテの貝殻(縦、横とも16㎝)」と一緒に求めた。
ところで、弘前ねぷたは享保7年(1722)には文献に登場、様々な形で時代を彩るなか江戸時代の明和年間(1764~1771)に津軽藩士が京都から持参し藩主に「津軽錦」という金魚を献上した。庶民はこの金魚に憧れを抱き、それをモデルにして「金魚ねぷた」にして広め、その後、子供たちが提灯のように手に持って練り歩いたという。
金魚は、金運をもたらし幸福を呼ぶ縁起物として親しまれ、馴染み深く、ねぷたまつりの期間中、様々な店先に「金魚ねぷた」が飾られ、祭りのみに限らず工芸品としてインテリヤ装飾、お土産にも人気が出るようになった。
私が持ち帰った記念品には、青森県物産協会推奨のシールが張られ「ねぷた」ではなく「金魚ねぶた」となっている。
山口県柳井市では、近年「金魚提灯」が盛んだが、そのルーツは、江戸末期、柳井「さかい屋」の熊谷氏が、北前船で伝わった弘前の「金魚ねぷた」をヒントに「金魚提灯」を作り、一時途絶えていたものを復活し、昭和40年代半ばに柳井の河村さんによって作り方が広まり平成になって提灯祭りが大々的に行われるようになった。
それにしても、この夏は青森県などの東北地方、線状降水帯が居座り長雨による被害が発生、心からお見舞い申し上げる。
写真は青森で求めた金魚ネブタとホタテ貝殻(左)と柳井の金魚提灯


