三木城 その1(播磨国) | 三日月の館

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登城日 1回目 1990年頃 晴
      2回目 2011年 1月10日(月)晴
難易度 ☆
場所   兵庫県三木市上の丸町

 

三木合戦の舞台


東播磨守護代別所氏の居城です。

 

別所氏は、赤松氏の庶流とされ三木周辺の土豪だった。
文明15年(1483)の真弓峠の戦いに敗北して権威が失墜した播磨守護赤松政則の勢力回復に尽力した別所則治は、その後東播磨八郡の守護代に任じられるほど別所氏を飛躍させた。
明応元年(1492)頃に三木城を築き、以後別所氏の居城となった。

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元亀元年(1570)別所則治の玄孫である長治が5代目城主に就任。
就任時幼少だったことから、叔父の別所吉親と別所重棟が後見人となった。
吉親は親毛利派、重棟は親織田派だった。

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天正5年(1577)に羽柴秀吉が播磨に侵攻し加古川城で軍議を開く(加古川評定)。
秀吉は、それまで織田信長に従っていた別所氏をはじめとする播磨の豪族達は毛利攻めに協力してくれるものと思っていた。
しかし、この時出席した別所吉親は秀吉の傲慢な態度に憤慨し、軍議は決裂。
帰国後、別所氏は反旗を翻し毛利氏へ味方することとなった。

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別所氏は重棟を追放し、三木城の防備を固めて籠城を決めた。
また、神吉城、志方城、高砂城、野口城、端谷城、衣笠城、淡河城などの支城が三木城を支援。
それに対し秀吉は、三木城を兵糧攻めにするとともに、支城から落としていくこととした。
天正6年(1578)4月野口城を攻める。
沼地にあったため攻めあぐねた秀吉は付近に植えられていた青麦を刈り取り、沼地に敷き詰めて平地にして落城させたと云う。

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神吉合戦が起こる。
城主神吉頼定や梶原十右衛門入道冬庵らが奮戦し、1ヶ月以上攻防するも天正6年7月神吉城は落城。
(この頃尼子氏残党が守る上月城へ毛利氏の大軍が攻め掛かる。見捨てられた尼子氏は滅亡し、山中鹿介幸盛は捕えられる。)

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その後、秀吉の大軍は志方城に襲い掛る。
志方城は櫛橋氏の居城で当時の城主は左京亮伊則。
伊則は大軍を目の当たりにしとても支えきれないと観念し落ち延びていったとか。
または、当時の城主は伊定だったとも最後まで奮戦したともあり、はっきりしないらしい。
伊定の娘が、黒田官兵衛孝高の妻だった光(てる)。
この時、中道子山城も落城。

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その後、衣笠氏が守る端谷城も落城。
(この頃、有岡城で荒木村重が反旗を翻し、説得に行った小寺(黒田)官兵衛が幽閉される。)
周辺の支城は落とされた三木城内で、天正7年(1579)2月軍議が開かれる。
志染川の手前で待ち伏せして、囮に釣られて川を渡ってきた秀吉軍に攻め掛ろうと主張する別所吉親。
それに対し、足軽大将の久米忠勝は一気に秀吉の平井山本陣へ攻め込もうと主張。

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天正7年2月、別所長治は平井山本陣へ攻め込み一気に勝負を決することとした(平井山合戦)。
しかし、地の利が悪く敗色が濃厚となってきた別所方は、秀吉勢に扮して志水彌四郎直近が生首を太刀に突き刺し、久米五郎忠勝が生首を手に持ち「大将の見聞を」と本陣へ詰め寄るも討ち取られる。
結局、別所方は長治の弟小八郎治定も討たれる大敗で終わった。

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平井山合戦で敗北したものの、毛利氏からの兵糧の支援は続いており、明石近くの魚住から陸揚げし丹生山を経由して三木城へ搬入していた。
(随分遠回りな気がするが…)

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そこで、秀吉は補給路を断つべく天正7年5月丹生山の明要寺砦を襲う。
多くの僧や稚児が犠牲となり、五輪谷、花折山、稚児ヶ墓山などの名が残る。

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もう一つの補給路であった淡河城へ攻め寄せる。
城主淡河定範は智勇共にすぐれた武将で、外曲輪に無数の菱を撒いて秀吉軍を悩ませ、さらに城へ攻めかかってきた秀吉軍に牝馬を放ち、大混乱に陥った所に攻め掛り秀吉軍を打ち破った。
しかし、最後には城を捨てて三木城へ撤退したと云う。

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天正7年6月13日、平井山本陣にて秀吉の軍師竹中半兵衛重治が陣没。

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丹波では別所長治の妻照子の実家である八上城主波多野氏が滅亡。
ますます孤立した三木城に立て籠もる別所氏は、天正7年9月、毛利氏と別所氏の双方が出兵し、兵糧を三木城に運び込むという作戦を実行。
大村合戦では淡河定範が5人になるまで奮戦し、神鉄三木駅近くの八幡の森で自刃したと云う。
(淡河氏は北条氏の末裔だそうです。)
この戦いに後藤将監基国も参戦。
落城前に次男基次を黒田官兵衛に預けたとか。
後藤基次が後に黒田家を出奔し大阪の役で豊臣方として活躍する後藤又兵衛です。

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大村合戦では別所吉親の妻も活躍。
紀州の守護大名畠山政国の娘で勇猛で知られたとか。

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毛利氏と別所氏は、三木城の付城であった平田山砦を襲い、城主谷大膳を討ち取る。

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しかし、大村・平田合戦では戦いに明け暮れ食糧搬入出来なかった。
さらに、10月には備前の宇喜多直家が毛利方から織田方に寝返り、11月には荒木村重が籠もる有岡城が落城。
三木城は毛利氏からの支援が不可能となり孤立無援。
城内の食糧は尽き飢餓地獄に陥る(三木の干殺し)。
天正8年(1580)正月、秀吉は三木城内の支城に攻め掛る。
まずは、6日に別所長治の弟友之が守る宮ノ上要害を攻略。
弱り切った城兵は抵抗出来ずに撤退。

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11日には鷹の尾城を攻略。
あっという間に陥落したとか。
別所友之はかろうじて三木城へ撤退。
残すは三木城本城のみとなってしまった。

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秀吉軍は一気に三木城へ攻め掛る。
しかし、大手門から出撃してきた吉親の妻の反撃に遭う。

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しかし、抵抗もここまで。
別所長治は最期の決断を下す。
城主一族の切腹によって城兵の命を助けるなら開城するという条件を浅野長政へ伝える。
このことを聞いた秀吉はその決意に感嘆し、16日に最期の酒宴のために酒肴を贈る。

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翌17日、三木城内で最期の酒宴。

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別所長治一族の妻子が自害。
この時、子の一人が連れ出され八木城主別所吉治となったとも、後藤基国が匿ってその後帰農したとも。

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城主別所長治は辞世の句を残して弟友之と自害。
「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば 」
まだ23歳の若者だった。
吉親は首を差し出すのを快しとせず、城に火を付けようとしたところ城兵に討ち取られたと云う。

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三木城落城後、別所長治の首級は秀吉によって安土の織田信長の元に送られた。
その後、雲龍寺七世安室春泰和尚が安土から持ち帰り、照子夫人と共に寺内に埋葬し弔ったと云う。

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また、別所氏の菩提寺だった法界寺(三木市別所町東這田)には別所長治の遺体が埋められたと伝わり、毎年4月17日の追悼法要では、当時の合戦の様子を語る「三木合戦絵解き」が行われている。

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それでは、三木城へ向かいます。
つづく

 

(おまけ)

 

平井山の麓のブドウ園の一画にある竹中半兵衛重治の墓。
天正7年(1579)4月、播磨三木城の包囲中に肺の病に倒れた。
秀吉は重治の病状を心配して京都で療養させたが、自らの死期を悟った重治は平井山本陣に戻った。
享年36。

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墓は志染町安福田の栄運寺にもあるらしい。