淡河城(播磨国) | 三日月の館

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登城日 1回目 1990年頃 晴
      2回目 2011年 8月 5日(金)晴
難易度 ☆☆
場所   神戸市北区淡河町淡河

 

三木合戦の際、別所方として奮戦した淡河定範の居城です。

 

淡河城へは、三ノ宮バスターミナルから吉川庁舎前行き神姫バスに約40分乗って、淡河本町北バス停下車。

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淡河本町交差点角にある道の駅淡河へ。
初めて政令指定都市に設けられた道の駅という。

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道の駅淡河周辺案内図に淡河城の説明が載っています。

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【淡河城址】

文治元年(1185)淡河則長が淡河城を築城したと伝えられる。
天正7年(1579)豊臣秀吉に滅ぼされた後、慶長6年(1601)まで有馬氏の居城であった。
本丸、空濠、水濠の遺構が残っている。
・淡河氏墓碑
二の丸にあり、四方に仏像を刻んだ宝篋印塔や笠は珍しく、重要な石造美術品として注目されている。

【淡河城の変遷】

文治元年(1185)淡河則長が淡河城を築城したと伝えられる。
承久4年(1222)淡河庄は北条時房の所領となり、地頭職として北条一族の右近将監成正が派遣され、淡河氏を名乗った。
南北朝時代、淡河氏は後醍醐天皇の南朝方についたが、北朝軍の播磨守護職の赤松氏に取り囲まれ落城した。
しかし、その後も勢力を保ち、赤松一族から養子を迎え、赤松氏に属した。
嘉吉の乱(1441)のとき、赤松氏を滅亡させた但馬守山名持豊に降伏し、山名氏の支配下となった。
応仁元年(1467)に赤松政則によって赤松氏が再興され、応仁の乱に山名氏かっら播磨を奪回した際、淡河氏は赤松方に復帰し、おおいに活躍したと伝うわ(えら?)れる。
長享2年(1488)別所則治が三木城を築き、東播8郡24万石の守護代になったので、淡河氏も別所氏に属した。
天文23年(1554)有馬郡の有馬重則によって淡河城は落城したが、永禄元年(1558)に元にもどり、淡河氏最後の城主定範まで続いた。
やがて、天正6年(1578)三木城主別所長治が織田信長に背いたため、天正7年(1579)羽柴秀吉勢に取り囲まれたが、秀吉勢のなかに牝馬を放って混乱させ、秀吉勢を敗走させたことは有名である。
その後、一族郎党は三木城に入り、天正7年9月、秀吉の三木城攻めにより、淡河氏は滅亡した。
淡河城は、有馬法印則頼の居城となり、山崎の合戦、長久手の合戦の功により1万5千石に増封され、淡河町は、1万5千石の城下町として、おおいに栄えた。

 

道の駅の中にも説明板があります。

淡河町の鎮守である歳田神社には、羽柴秀吉の制札が残っていたとか。

説明板についている縄張図。

(ひょうごの城紀行より)

情報収集したところで、いよいよ道の駅の裏に聳えている淡河城へ。

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少し国道428号線を南下し、道標の所を右折。

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橋を渡る。

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県民緑税によって整備された登城道を登る。

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黒いトンボがいた。

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登り始めてすぐに模擬櫓が見えてきた。

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約2分で本丸到着!

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本丸にある模擬櫓。

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模擬櫓から道の駅を見下ろす。

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本丸の様子。

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本丸にある説明板。

本丸案内図。

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本丸北側は栗林。

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急峻な切岸。

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本丸南側に土塁。

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本丸西側に本丸門跡。

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本丸門脇に天守台があった。
登ってみる。

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天守台跡に城址碑。

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城址碑の下の説明板。

天守台の東側に稲荷。

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拝殿内部の様子。

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淡河上山遺跡推定復元断面図。

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淡河城復元図。

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淡河合戦図。

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稲荷。

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稲荷の先は模擬櫓。

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模擬櫓側から土塁を見る。

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土塁へ戻る。

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土塁上部。
稲荷を裏から見る。

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土塁から本丸を見る。

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土塁から二の丸を見る。

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本丸と二の丸の間の内堀。

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土塁から竹慶寺跡を見る。

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行ってみる。
本丸西側土塁を本丸門跡から見る。

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内堀跡西側。

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下りて行くと大手門跡。

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二の丸。

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大手門南側の内堀。

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反対側から見る。

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L字型に曲がり、南側内堀。

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二の丸から本丸と内堀を見る。

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竹慶寺跡へ。

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竹慶寺跡にある淡河家廟所。

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竹慶寺跡から見た二の丸。
すっかり田んぼとなっている。

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もうちょっと南から。
二の丸の田んぼの先に本丸が見える。

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二の丸の西側には三の丸(中丸)や西の丸があったが、堀や土塁は無くなり解らない。

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この辺りに搦手門があったのだろうか?

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堀や土塁が無くなって不明確。

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淡河城を後にする。
麓の城下町。

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湯乃山街道淡河宿本陣跡。

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かつては播磨の東境として重要視され、有馬氏時代には1万5千石の城下町として栄えたが、今は寂しい淡河城でした。

 

(おまけ)

 

豊助饅頭。
車の出入りがあったので寄ってみた。

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モグモグ。

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地元ではそこそこ有名らしい。