登城日 1回目 1995年頃
2回目 2012年 1月 8日(日)晴
難易度 ☆☆
場所 兵庫県篠山市八上上
丹波三大山城の一つで、国指定史跡です。
国指定史跡【八上城跡】
八上城跡は、室町時代から戦国時代にかけて、丹波地方の有力国人である波多野氏が本拠地とした山城である。
篠山盆地の中央南部、山陰街道が東西を貫く八上を北麓に見下ろす高城山(標高約460m)とその西側の法光寺山(標高約340m)に位置する。
波多野氏は、応仁の乱の戦功によって多紀郡小守護代となり、15世紀後半に、高城山南西の尾根先端部に奥谷城を築き、奥谷に城下町を置いた。
16世紀後半には、高城山主峰部に八上城を築きこれを本城とし、奥谷城は支城として改修された。
16世紀中頃には、三好長慶や松永久秀と対立して、一時八上城を攻め取られたが、永禄9年(1566)に取り戻している。
支城である法光寺城は、これらの抗争に先立ち、八上城と城下の防御力を高める目的で築かれたものである。
またその後、城下の中心は奥谷から街道沿いの八上へ移ったとされる。
天正7年(1579)、織田信長の丹波攻略の一環として、明智光秀による兵糧攻めにより、八上城は落城し、波多野氏は滅亡した。
以後前田氏などが八上城へ入ったが、慶長14年(1609)の篠山城築城により八上城は廃城となった。
八上城跡は、本城と支城が城下を挟んで配置されるなど、中世山城の典型的な姿を留めており、戦国領主の支配拠点の様相を現在に伝える史跡として大変重要である。
八上城跡は、室町時代から戦国時代にかけて、丹波地方の有力国人である波多野氏が本拠地とした山城である。
篠山盆地の中央南部、山陰街道が東西を貫く八上を北麓に見下ろす高城山(標高約460m)とその西側の法光寺山(標高約340m)に位置する。
波多野氏は、応仁の乱の戦功によって多紀郡小守護代となり、15世紀後半に、高城山南西の尾根先端部に奥谷城を築き、奥谷に城下町を置いた。
16世紀後半には、高城山主峰部に八上城を築きこれを本城とし、奥谷城は支城として改修された。
16世紀中頃には、三好長慶や松永久秀と対立して、一時八上城を攻め取られたが、永禄9年(1566)に取り戻している。
支城である法光寺城は、これらの抗争に先立ち、八上城と城下の防御力を高める目的で築かれたものである。
またその後、城下の中心は奥谷から街道沿いの八上へ移ったとされる。
天正7年(1579)、織田信長の丹波攻略の一環として、明智光秀による兵糧攻めにより、八上城は落城し、波多野氏は滅亡した。
以後前田氏などが八上城へ入ったが、慶長14年(1609)の篠山城築城により八上城は廃城となった。
八上城跡は、本城と支城が城下を挟んで配置されるなど、中世山城の典型的な姿を留めており、戦国領主の支配拠点の様相を現在に伝える史跡として大変重要である。
八上城へは、大阪駅からJR福知山線に乗って行きます。
最寄駅は篠山口駅。
JR西日本のアーバンネットワーク終端駅。
デカボーがお出迎え。
JR篠山口駅は町からは大分離れており、昭和47年(1972)までは国鉄篠山線に乗り換えて八上城北麓まで行けたが、廃線後は神姫バスに乗って終点の篠山営業所まで行き、さらに福住方面へ行くバスに乗り換えて最寄バス停十兵衛茶屋下車。
たまに直通バスがありますが、本数が少ないので注意。
八上城位置図。
バス停の南側一帯に広がる。
八上城現状図。
(「ひょうごの城紀行(下)」より)
八上城の西側に法光寺城。
当初は、八上城との間に城下町があった。
殿町の名が残る。
その後、城下町は八上城北麓へ移転。
バス停付近から見た旧篠山街道と八上城。
城下町の入口にある重兵衛茶屋。
説明板。
バス停は「十兵衛」であるが、説明板は「重兵衛」だった。
重兵衛茶屋から見た旧篠山街道。
この道沿いに城下町があった。
右側には堀もあったという。
重兵衛茶屋の南側には、堀の横にあったと思われる土塁跡が残る。
八上城登山案内図。
登城口は何ヶ所かある。
春日神社口から登城。
もう一つの説明板。
【歴史の森 高城山森林浴場】
高城山、標高459m、丹波富士と呼ばれる秀峰であり、八上城攻防の戦われた古戦場跡である。
八上城は永正期より約50年、波多野秀治になって完成された丹波支配の拠城である。
天正3年から、天下統一を目指す織田信長の命による明智光秀の丹波攻略は熾烈を極め、前後11回にも及ぶという。
ついに利あらず、和議と称する謀略により秀治、秀尚兄弟は殺され、城中の全将兵は城に火を放ち自刃して落城、時に天正7年のことである。
落城に伴う悲話も数多く、石垣や曲輪の跡、城下町等の名残に秘められているようである。
慶長14年、松平康重城主の時、篠山城が天下普請で構築され、八上城は廃城となった。
高城山、標高459m、丹波富士と呼ばれる秀峰であり、八上城攻防の戦われた古戦場跡である。
八上城は永正期より約50年、波多野秀治になって完成された丹波支配の拠城である。
天正3年から、天下統一を目指す織田信長の命による明智光秀の丹波攻略は熾烈を極め、前後11回にも及ぶという。
ついに利あらず、和議と称する謀略により秀治、秀尚兄弟は殺され、城中の全将兵は城に火を放ち自刃して落城、時に天正7年のことである。
落城に伴う悲話も数多く、石垣や曲輪の跡、城下町等の名残に秘められているようである。
慶長14年、松平康重城主の時、篠山城が天下普請で構築され、八上城は廃城となった。
春日神社鳥居。
この辺りに堀があったという。
春日神社境内。
高城市松稲荷神社を合祀。 説明板。 この辺りに山麓の居館跡である主膳屋敷があった。
主膳屋敷跡の切岸。 主膳屋敷の様子。
前田玄以の子である前田主膳正茂勝の供養塔が建つ。 主膳屋敷から登城開始。 クマ 出没注意!! 山火事も注意です。 主膳屋敷から約8分で伝鴻の巣到着。
西からの敵に備えた番所があった所。
頂上まで約750m。 ここからなだらかな坂道が続きます。 篠山城下が見えました。 約3分で伝下の茶屋丸到着。
西からの敵に備えた陣地。 ここから細長い曲輪が続く。 八上城の支城、法光寺城と旧城下町を見る。 中の壇。 こういった階段は返って疲れる。 伝上の茶屋丸。
頂上まで約650m。 階段が続きます。 当時の石垣かな? 主膳屋敷から約30分で右衛門丸に到着。
波多野秀治在城時はここで全山の総指揮と執ったとか。 右衛門丸に残る石垣。 縄張図。
右衛門丸の一段上に小さな曲輪があり、
その脇を登って行くと、三の丸。
三の丸から右衛門丸を見下ろす。
三の丸から涼御殿を見下ろす。
三の丸から二の丸を見る。
二の丸へ。
二の丸虎口。
虎口には門跡の礎石が残る。
二の丸から三の丸を見下ろす。
二の丸から見た本丸。
(つづく)
高城市松稲荷神社を合祀。 説明板。 この辺りに山麓の居館跡である主膳屋敷があった。
主膳屋敷跡の切岸。 主膳屋敷の様子。
前田玄以の子である前田主膳正茂勝の供養塔が建つ。 主膳屋敷から登城開始。 クマ 出没注意!! 山火事も注意です。 主膳屋敷から約8分で伝鴻の巣到着。
西からの敵に備えた番所があった所。
頂上まで約750m。 ここからなだらかな坂道が続きます。 篠山城下が見えました。 約3分で伝下の茶屋丸到着。
西からの敵に備えた陣地。 ここから細長い曲輪が続く。 八上城の支城、法光寺城と旧城下町を見る。 中の壇。 こういった階段は返って疲れる。 伝上の茶屋丸。
頂上まで約650m。 階段が続きます。 当時の石垣かな? 主膳屋敷から約30分で右衛門丸に到着。
波多野秀治在城時はここで全山の総指揮と執ったとか。 右衛門丸に残る石垣。 縄張図。
(つづく)