真弓峠(兵庫県神崎郡) | 三日月の館

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場所 兵庫県神崎郡神河町猪篠、朝来市生野町真弓

 

赤松 VS 山名 激戦の地


但馬から侵攻した山名軍を迎え撃った所です。

 

8月中旬、山名持豊は4500騎をもって但馬・播磨国境の真弓峠に攻め込み、この方面を守る赤松義雅と数日にわたり攻防があった。 

8月28日、山名持豊は真弓峠を突破し、退却する赤松義雅を追撃しつつ坂本城に向かって進軍した。 

8月30日、両軍は田原口で決戦を行い、赤松義雅は善戦するが力尽き敗走した。 

9月1日、山名持豊の軍勢は坂本城へ到り、細川持常の大手軍と合流して包囲した。 

9月3日、赤松満祐は城を棄てて城山城(兵庫県たつの市)へ移る。

 

播磨・但馬の国境にある標高361mの生野峠。
別名真弓峠という。

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ここで、但馬から播磨へ攻め込んだ山名持豊(宗全)と赤松義雅(赤松満祐実弟)との間で激しい攻防が行われた。
峠茶屋の前に説明板が建っています。

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説明板。

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【真弓峠古戦場】

嘉吉元年(1441)但馬国の守護職、山名持豊(後の宗全)は、幕府の命令を受けて真弓峠に布陣した赤松満祐の軍を破り播磨国を占拠しました。
その42年後の文明15年(1483)赤松政則(満祐の一族)は、但馬への進攻を計画し、12月25日真弓峠に到着しましたが、おりしも冬季で雪が多く寒気が厳しかったため、谷陰に設営しているところを、雪なれた但馬勢二千余騎に攻められ多くの将兵が戦死しました。
このため赤松軍は真弓峠から退却し播磨に引揚げました。

平成5年3月
生野町教育委員会

 

嘉吉の乱では真弓峠を山名持豊に破らたことにより戦局が赤松勢にとって不利になってしまった。
細川氏率いる大手軍と山名氏率いる搦手軍に、守護所であった書写坂本城を囲まれた赤松満祐は、要害の地である城山城(兵庫県たつの市)へ移り籠城することとなった。

 

(おまけ)

 

説明板にもあるとおり、嘉吉の乱から42年後にも赤松氏と山名氏との間で真弓峠を舞台に激しい攻防戦が行われた。
但馬進攻を図った赤松政則(赤松義雅の孫)は、山名政豊(山名宗全の孫)に大敗。
逆に山名氏の播磨進攻を受けることになってしまった。
赤松氏にとって真弓峠は鬼門だったようだ。