城山城(播磨国) | 三日月の館

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登城日 2010年 1月 9日(土)曇
難易度 ☆☆
場所  兵庫県たつの市新宮町馬立

 

嘉吉の乱終焉の地


嘉吉元年(1441)9月3日、播磨国守護所書写坂本城を幕府軍に包囲された赤松満祐は要害の地である城山城(きのやまじょう)へ移った。

 

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【城山城】

城山城は標高458mの山上に位置する山城で、奈良時代の古代山城と室町時代の中世山城が同じ場所に立地しています。
古代山城の遺構は主に西斜面に残っており、石塁(a~d)や「門の築石」と呼ばれる門礎等があります。
中でも石塁cは全長41m・高さ3mの規模をもち、当山城の石塁としては最大です。
また「門の築石」は唐居敷と呼ばれる形式のもので、同形のものでは山口県の古代山城「石城山神籠石」にあるだけです。
14世紀の中頃、播磨国守護赤松則祐は播磨支配の拠点とするため大規模な山城を当地に築きますが、嘉吉の乱(1441)で赤松満祐が幕府軍に攻められ当城で自害し、城山城も落城します。
城山城には、この時の遺構(郭・堀切等)が多数残っており、当時使用していた遺物も出土しています。
城山城は県下唯一の古代山城として、また播磨屈指の中世山城として大変貴重な遺構といえます。  

平成6年3月
新宮町観光協会

 

城山城へはJR姫路駅から姫新線に乗り換えて行きます。

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車窓から見た城山城。

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大手道の最寄駅は東觜崎駅ですが、まずはその一つ先にある播磨新宮駅近くのたつの市立新宮歴史民俗資料館へ向かい情報収集。

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中には城山城の模型がある。
しかし、この模型は古代山城のもの。
城山城は古代山城と中世山城が同じ場所に立地。
一般的には古代山城の方が有名だろう。

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しかし、ちゃんと縄張図も展示してあります。
また、「たつの市 越部古道散策マップ」を貰いましょう!
このマップには登城道の他、縄張図まで付いています。

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付近には国指定史跡新宮宮内遺跡があるのでついでに見学。

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かつての様子。

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北には大寺山城が見えます。

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じっくり見ていたら日が暮れてしまうので、城山城へ向かうべく因幡街道を南下。

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輪袈裟の清水。
弘法大師が大干ばつの時にこの地を通りかかり輪袈裟を地面に置き経を唱えたところ清水が湧き出たと云う。

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越部里から西へ。

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搦手道から登城しました。

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入り口付近には市野保古墳群があります。

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15分程進むと搦手門跡に到達。

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門の礎石が残る。
この礎石は古代山城のもの。

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ここから険しい山道となります。

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途中、道が判別つかないのでビニールが張ってあります。
心許ない。

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まずは、城山城の出城だった祇園嶽城を目指しました。

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祇園嶽城への登城道と城山城への道の分岐点。
ここまで搦手門跡から20分。

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5分登って祇園嶽城へ。
城下を見下ろす。

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頂上の様子。
今一つはっきりしない城跡。

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細長い曲輪。

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祇園嶽城から見た城山城。

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また先程の分岐点に戻り今度こそ城山城へ向かう。

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途中路を見失う。

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道に迷ったら、木に付いている赤いマーキングテープを探すこと。

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祇園嶽城から約25分で大手道との合流地点へ到着。
供養碑が目印。
側面に南無阿弥陀仏の銘がある。

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ちょっと先にかえる岩と、

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亀岩がある。

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ここからまっすぐ行けば城山城へ行けますが、亀の池へ寄り道。

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亀の池。

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この池は溜池。
弥生時代の高地性集落が存在したとか。

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亀山を目指す。

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しばらく歩くと石塁が見えてきました。
古代山城のものです。

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古代山城の門の礎石。

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亀岩から約25分で亀山(城山)頂上へ到着。

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ちょっと西へ下りて行くと、古代山城の石塁cがある。

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この石塁が城山城最大規模。

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亀山頂上から10分程少し下った所に城山城があった。

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縄張図。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_60723176_43?1316565130_

屋敷跡。

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石垣が僅かに見られた。

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9月3日、赤松満祐は書写坂本城を棄てて城山城(兵庫県たつの市)へ移る。 

9月9日、赤松義雅が逃亡して幕府軍に降服し、播磨の国人の多くも赤松氏を見放して逃げてしまった。 

9月10日、幕府軍が総攻撃を行い、覚悟を決めた赤松満祐は子の教康や弟の則繁を城から脱出させ、切腹した。 

 

三基墓。
この辺りで、赤松一族69人が自害した場所と伝わる。

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屋敷跡から南を見る。
山の中腹にあり、眺望は良くない。

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帰りは兵糧道から下山しました。

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見張岩。

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石塁が見られた。
古代山城のものかな?

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兵糧道入り口。

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麓には赤松氏の菩提寺と伝わる興聖寺がある。
赤松満祐の念持仏(毘沙門天像)や満祐・則実・義雅の位牌があるという。

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城山城に日が暮れていく…

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6月24日から約2ヶ月半に渡る嘉吉の乱が終焉し、赤松氏が一旦滅びることとなった。