登城日 2011年10月 8日(土)晴
難易度 ☆
場所 福井県敦賀市疋田
北陸本線の車窓から見ることが出来る城です。
最寄駅である新疋田駅から敦賀方面へ発車してすぐに車窓から見える疋壇城。
車窓から曲輪がはっきりと見えるので、通る度に行きたいと思っていました。
しかし、新疋田駅は各駅しか停まらないのでなかなか行く機会が無かった。
最近、敦賀方面への各駅の本数が増えたので念願叶って行って来ました。
最寄駅の新疋田駅。
駅舎は立派ですが無人駅です。
北陸本線を通過する列車の写真が飾ってありました。
鉄道写真マニアにとっては有名な駅のようです。
この辺りに東海道の鈴鹿関と東山道の不破関とともに三関の1つであった愛発(あらち)関があった。
駅を出てすぐ凶暴な犬に吠えられる
逃げるように国道161号線を北上。
北陸本線の狭いガードを潜った所に登城道がある。
この辺りもかつては石垣だったのかも。
民家の脇を過ぎ登りきると広場があり、広場の向こうに疋壇城が見えた。
広場は西愛発小学校跡。
小学校は昭和59年(1984)に統廃合されてしまった。
今は石碑のみ残る。
広場には疋壇城の南曲輪があったらしいが、小学校建設に伴い破壊され、疋壇城の遺構の1/3が失われた。
もったいないなぁ~
しかし、この広場から見た本丸櫓台が立派。
まさに天守台といった感じ。
来てヨカッタ
櫓台脇に説明板が建っています。
説明板。
昭和29年12月9日 福井県指定
この疋壇城は文明年間(室町時代1469~1487)に、朝倉氏の将疋壇対馬守久保が築いたものである。
この地は、柳ヶ瀬越・塩津越・海津越の主要江州路が集まる交通軍事上の要衝であるので、朝倉越前の最南端防衛拠点として築城されたものであり、本城の東・南・西の三方には、それぞれ出城も設けられていたものと思われる。
しかし、この城が栄えたのは100年間ぐらいで、元亀元年(1570)織田信長が手筒山城を攻略した際に金ヶ崎城と共にこの城も破壊された。
信長軍の撤収後に一旦は修復されたらしく朝倉の臣栂野三郎右衛門尉景仍等が布陣した記録もあるが天正元年(1573)8月、信長再度の越前進撃に依り城主疋壇六郎三郎は打死し、城は完全に破却された。
それからここに400有余年、今も遺る石塁塹壕跡が、名残りをとどめ、そこかしこに遺る小字名と共に往時を物語っている。
(幻雲文集・西福寺文書・信長記その他)
櫓台へ登る。
石垣がありました。
かつては総石垣だったんだろうなぁ~
登ると本丸が見えましたが…
獣除けの電線が張ってあってこれ以上進めなかった。
失礼しま〰す。
廻り込んで登っちゃう。
本丸南側の櫓台を見る。
内側には石垣が残存。
櫓台上には城址碑が建つ。
櫓台から本丸を見下ろす。
周囲を土塁が囲んでいた。
想像以上でビックリ!
南側の土塁。
櫓門があったのかな。
西側土塁。
多聞櫓でもあったのかな。
本丸西側の深い堀。
西側土塁上から南側を見る。
西側土塁上から南を見る。
段々になっていて石垣が見られた。
本丸北西から本丸を見る。
本丸北東から本丸を見る。
本丸北東から東を見下ろす。
下りて行く。
本丸北東部分の石垣。
本丸北側の深い堀。
さらに下りて行く。
本丸北側の堀。
本丸の石垣を見上げる。
あちこちに石垣が見られました。
本丸東側から広場へ戻る。
本丸東側にも深い堀。
石垣が見えました。
本丸を見上げる。
広場から本丸東側の堀を見下ろす。
疋壇城本丸を一周したので、城下へ行ってみました。
疋壇城の北に鎮座する日吉神社。
実は、日吉神社は疋壇城の北の曲輪とのこと。
行きそびれた。
城下を流れる敦賀運河(疋田舟川)。
川舟に荷物を積んで越前と近江を行き交いした。
もう少し散策したかったのですが、残念ながら日没を迎えてしまった。
また見に行きたい城なのですが…
新疋田駅前の犬が怖くて行けない。
何とかならんかなぁ~