かめおかゆみこ です。
メルマガ「今日のフォーカスチェンジ」 15周年記念企画
THE量稽古★150日チャレンジ
本日は、脚本研究会。4日に脱稿した初稿を、検討してもらい
ました。講師は、ふじたあさや氏です。
アマチュア・プロを問わず、月一回、脚本にかかわるひとたち
が集まって、作品を持ち寄って批評しあいます。
自作を批評されるのは、緊張もしますが、自分では見えない
点が見えてきて、いい勉強になります。また、第一読者の率
直な反応を知るという意味でも、貴重な機会なのです。
さて。いろいろな指摘をいただき、気づきもたくさんありました
が、ひとつ、自分の盲点だったこと。『誤解』が書かれたのが、
1944年。第二次世界大戦中だったということです。
あらためて、ウィキペディアで、カミュの履歴をたどってみると、
1940年、ナチスドイツによりパリが占領されると、『パリ・ソワ
ール』紙編集部の移動に伴って自由地区のクレルモン・フェラ
ン、ついでリヨンへと移り、占領体制下の1940年12月にフラ
ンシーヌ・フォールとの婚姻届を提出。
しかし物資の不足と読者の減少から『パリ・ソワール』紙でも人
員整理が進み、失業したカミュは妻の実家のある北アフリカの
オランに一時身を寄せた。この地で前述の三部作(『異邦人』
『シーシュポスの神話』『カリギュラ』)を完成、さらに『ペスト』の
執筆に着手するが、1942年に喀血し、療養のため夫妻で小
村ル・パヌリエに移る。そして6月に小説『異邦人』、12月にエ
ッセイ『シーシュポスの神話』を刊行した。1943年からは非合
法誌『コンバ(戦闘)』の発行に関わり、また占領下のパリでサ
ルトル、ボーヴォワールらとも知り合い親交を深めている。
1944年8月のパリ解放後は、それまで地下発行であった『コ
1944年8月のパリ解放後は、それまで地下発行であった『コ
ンバ』を公刊し同紙の編集長となった。なお同紙でカミュは対
独協力派(コラボ)に対しては厳しい姿勢を取り、極刑もやむな
しという意見を示して寛容派のフランソワ・モーリヤックと対立
したが、後に自説を修正し死刑には反対するようになる。終戦
前後にはまた『カリギュラ』『誤解』が上演され、1946年には
アメリカのコロンビア大学に招かれて講演を行い、現代に蔓延
する物質崇拝に警鐘を鳴らした。(以下略)
こうしてみると、『誤解』の初演は、1944年なので、おそらく、
パリ解放後ではあったとは想いますが、執筆していたときは、
まだ戦争は終わっていません。
当時、カミュは31歳。ただ小説家であったというだけでなく、
時代や歴史にするどいまなざしを向け、臆せず、自説を主張
するひとでもありました。
1960年、友人の車に乗っているとき、交通事故に遭い、46
歳の若さで亡くなりますが、ハンガリー動乱(1956年)制圧で
ソ連を非難していることから、KGB暗殺説もあるようです。
そんな背景をふくめて、あらためて読み返してみると、この作
品が、単なる金品目当ての殺人事件ではなく、より奥深いもの
を秘めていることがわかります。
それが何であるかは、さぐっていく必要はありますが…。
作品のスタイルについても、いろいろな意見をいただきました。
私自身も、初稿を書いてから1週間近く空いたことで、脚本を
冷静に見返せて、あらたな視点も生まれています。
今回は、15~20分くらいのみじかい作品ですが、60~90
分の作品を書くときは、小訂正もふくめて、5~10回は書き
直しをします。
大変ではありますが、そのたびに深まっていく、楽しい作業
でもあるのです。(あ、ちなみに楽しいと想えるのは、脱稿し
たあとですが…)
がんばりま~す