京都アニメーションの放火殺人事件。今はほとんどの遺族が取材に応じていない

 

 分かる気がする・・・

 

 心より愛と感謝をこめて

 京都アニメーション事件、台風19号……。警察や自治体が犠牲者の実名公表を遅らせたり控えたりする動きが続いた。ネット社会におけるプライバシー保護が問われる中、実名報道はどうあるべきか。

 

 ■命奪われる社会、問い直す 土師守さん(神戸児童殺傷事件遺族、放射線科医)

 

 私たち家族が犯罪の被害者になった時は、行方不明になった時点で実名で報道されていたので、淳も私も名前の伏せようがありませんでした。

 

 警察が淳の殺害を発表した後のメディアスクラムはひどかった。自宅前に朝から晩まで大勢のマスコミがたむろし、ひっきりなしに電話やインターホンが鳴る。家を出られず日常生活を送れない状態が3~4週間続きました。

 

 事件後、実名報道された犯罪被害者は「檻(おり)の中の動物」のようになります。私たちは何も知らないのに、世間の人は誤った情報も含め、私たちが何者かを十分に把握している状況なのです。被害者に同情的な人ばかりではなく、「今度はお前の番だ」などと書かれたはがきを送りつけられる嫌がらせも受けました。

 

 ただ、時間とともにマスコミや社会との関わり方は変わりました。加害者が少年法で保護されている一方で、被害者側は少年審判を傍聴することすらできない。被害者の権利や支援制度がほぼない状況を訴えたくて、翌年に本を出しました。

 

 事件から3年後の2000年にできた「全国犯罪被害者の会(あすの会)」に加わり、少年法の改正や犯罪被害者等基本法の成立を目指した時から、実名で取材も受けるようになりました。

 

 被害者の実名公表について、「あすの会」は警察が決めるのではなく、被害者の意思に任せるべきだという立場でした。精神的につらい時期に取材や世間の好奇の目にさらされ、心の中を荒らされたくない気持ちは分かります。警察発表をうのみにしたマスコミが「リンチ」を「けんか」と書いたり、ストーカー殺人事件で被害者に落ち度があるかのように報じたりして、遺族を傷つけたこともありました。

 

 それでも私個人は、マスコミが節度ある取材をするのであれば、すぐに実名を公表すべきだと思っています。

 

 淳は11歳で命を絶たれても彼なりの人生を生きていた。「男児」と報道されていたら、人生を否定された気持ちがしたに違いありません。

 

 名前を出し、人柄が分かれば大切な人の命が奪われる社会であってはいけないと思えるし、そのためにどうすればいいのかも考えられます。人は社会とつながっていなければ生きていけない存在です。その死も、社会化する必要があるのではないでしょうか。

 

 京都アニメーションの放火殺人事件には本当に胸が痛みます。今はほとんどの遺族が取材に応じていないと聞きますが、話す人が少ないから、本当は話したくても、話しにくい面もあると思います。でも、いつかは話してほしい。被害者だからこそ、こういう事件があってはいけないと強く訴えられるはずです。(聞き手・千種辰弥)

 

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 はせまもる 1956年生まれ。97年、「酒鬼薔薇聖斗」を名乗る少年(当時14)に次男、淳君(同11)を殺害された。

 

 
■メディア、信頼得ているか 奥村信幸さん(武蔵大学教授)

 

 私が研究対象の一つとしている米国のジャーナリズム実名報道が原則で、私も実名主義の立場です。ただしそのためには、遺族が「実名を託してもよい」と思えるほどメディアが社会の信頼を得ていることが前提です。

 

 その意味で、日本のメディアがいま、一般市民からの信頼を勝ち得ているかというと疑問があります。

 

 米英のメディアが実名主義をとる根拠は、報じる事件・事故の「再現性」を担保するためです。再現性とは、記者以外の第三者が事件・事故の検証をしようとしたときに、その経緯をそっくり再現できるようなエビデンス(根拠)を残しておく、という意味です。

 

 つまり、メディアはあくまで読者の代理として、取材を通じてあらゆる情報を集め、社会全体として事後に検証できるようにしておかなければならない、と考えます。

 

 日本のメディア京都アニメーションの事件で実名の必要を説明した記事をいくつか読むと、「事件の悲惨さを伝えるため」「実名でないと事件の実感が湧かない」などとしています。朝日新聞も「実名だからこそ現実感を持って伝えられる」と書いています。

 

 しかし、メディアの役割はあくまで「真実を伝える」ことです。それによって「殺人を起こさない社会をつくるには何をすべきか」を考える材料を読者に提供するのであり、事件の悲惨さを呼び覚ますことではありません。実名は、記事の説得力を客観的に増すための装置であって、情緒や印象を増すために使うものではありません。

 

 日本の多くのメディアは綱領などで、報道機関としての使命や記者の取材倫理を書いていますが非常にあいまいで、公開すらしていない社もあります。一方、ニューヨーク・タイムズや英BBCは、取材ルールを明記した行動基準を一般に公開し、予想していない形で事件や事故が起きても、編集局のだれが新たな取材ルールを決めるか、責任の所在まで定めています。

 

 欧米ではこうした確立したルールをもとに遺族取材をしますが、日本では取材のルールが一般に広く理解されていないため、遺族は記者個人を信頼するしかない。この違いは、遺族の心情からすれば天と地ほどの差があります。

 

 また、ワシントン・ポストは新聞の使命を「真実を伝えること」としているのに対し、日本は「表現の自由」を守ることを綱領などに掲げています。言論・表現の自由は読者に支援してもらい共に守るものであり、読者に何を約束しているのかは明確ではありません。

 

 こうした取材ルールの公開や読者への約束なく、「実名報道させて下さい」と言っても、社会の理解を得るのは難しいのではないかとも思います。(聞き手・稲垣直人)

 

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 おくむらのぶゆき 1964年生まれ。ジャーナリズム専攻。元テレビ朝日記者。メディアの信頼などについても研究。

 


 ■さらされるリスクを警戒 小林康正さん(京都文教大学教授)

 

 実名を避け、匿名を求める風潮が広まっています。その背景を考えるにあたり、まずは「有名人」になるということがどういうことなのか、考えてみましょう。

 

 明治期の新聞を見ると、一般の人の「誰それが浮気をして夫婦げんかになった」と伝える記事が実名で報じられています。当時の「小(こ)新聞」と呼ばれる大衆紙は「のぞき見趣味」に満ちたものでした。

 

 人々は新聞を通じて今まで知らなかった名前と出会い、それが「有名人」を生み出しました。有名になった人は権威を手にしますが、裏腹にプライバシーを暴き立てられるという不利益もありました。

 

 現代の新聞は、さすがに当時の新聞とは違います。ただ、週刊誌など一部のマスメディアや、その受け手となる人々の「のぞき見趣味」的な性質は、今日まで変わってこなかったと言えます。

 

 事件の加害者や被害者の顔写真や実名が新聞やテレビで報道されると、「インターネットの住人」らが彼らの生い立ちなどを暴き出す。ネットの著しい普及とSNS社会の到来で、「のぞき見趣味」的な状況はバージョンアップされているように感じます。

 

 マスメディアを介さず、誰でもネットを通じて「有名人」になるチャンスがある半面、突如、自分の名前が意に反して晒(さら)されて好奇の対象になるリスクがある――。

 

 事件の被害者の家族の間で、被害者の匿名発表や報道を望む人が増えているのは、実名をさらす弊害を人々が認識し始めたからではないでしょうか。ネット上の不都合な個人情報を消す「忘れられる権利」も注目され、自分や家族を守るため、匿名を求める人が増えてきたと思います。

 

 一方で、名前の「公共性の喪失」が進んだという側面もあると思います。

 

 例に挙げたいのは「伸子(しんこ)ちゃん裁判」です。1960年代、伸子(のぶこ)さんという母親が娘に「伸子(しんこ)」と名付けようとしたところ、役所は「紛らわしくなる」などと受理しなかった。そこで父親が裁判を起こしましたが、敗訴しました。

 

 判決では「いかなる名が付けられるかについては本人自身はもちろん世人(世間の人たち)は利害関係をもっている」との判断が示されました。この頃は今よりも、名前の公共的な性質が広く理解されていました。

 

 現代は「プライバシー」という言葉がマジックワードのように使われ、災害の犠牲者の名前を行政側が公表しないケースも増えています。犯罪被害者の名前も、「家族の意向」を理由に警察が公表しない例が増えていますが、被害者の名前は果たして遺族だけのものでしょうか。実名を伏せるという対応が本当に必要なのかどうか。その都度、よく考える必要があると思います。(聞き手・長谷川健)

 

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 こばやしやすまさ 1960年生まれ。専門は民俗学。著書に「名づけの世相史」など。近代社会での姓名学の広がりも研究。