大島からの手紙

大島からの手紙

大島からの手紙

チャコの訃報は本当にショックだった。
しかしその気持ちは俺ら同級生だけではなく、担任の先生も同じ思いだったのである。

そんな訳で、岡先生と熊を中心に行われた「チャコを偲ぶ会横浜編」に参加してきたのだ。
熊の職場の都合で少人数での開催となったのだが、高齢者相手の仕事なので仕方のない事である。

俺にとっても、久しぶりの岡先生や熊との再会は嬉しかったのだ。
先日の墓参りの後の飲み会(上野編)に続き、これまたチャコのお蔭と感謝しているのだ。
横浜で中華を食べながら、懐かしい話で盛り上がりそりゃ大変だったのだ。
話してるうちに当時は知らなかった真実が明らかになっていった。

まず俺が一番驚いたのは、あの時の岡先生は36歳で俺たちと一緒の時に赴任してきたという事だ。
思っていた年齢よりもかなり若かった(髪の毛のせいだろうか)
そして岡先生はなぜかテニス部の顧問を引き受けることになった。

岡先生によると、春のうららかなある日、職員室の窓からボーっとテニスコートを眺めていたらしい。
誰を見ていたかは分からないが、その視線に気が付いたテニス部のキャプテン、そうあの八木先輩がそれに気づき、顧問をお願いしに直談判したらしい。
この人ならテニス部を上手くまとめてくれると思ったのか、はたまた明るく楽しい風を送ってくれると思ったのだろうか。
いずれにせよ八木さんの行動力は凄かったのだな。

岡先生はそんな八木先輩の熱い思いを察して「よし分かった、俺が命を懸けてテニス部を守ってやるぞ」と話が付いたそうだ。
きっと岡先生も八木さんの美しさと強さに参ったのだろうな。
八木さん信者の俺だから分かるのだ。

まぁそんな訳で、俺たちテニス部一年の春は始まったのだった。
森ちゃんが言うには、八木さんは「愛と誠」映画版でデビューした早乙女愛に似てると言っていたが、なるほど良い線をついていると感心した。
しかし付け加えるなら、そこに「オリビアニュートンジョン」とヤクザ映画の女渡世人「富司純子」を足してもらいたいわけだ。
まぁそれくらいあの頃の八木さんはかっこよかったのだ。

そういえば「愛と誠」は漫画も良かったが、映画とテレビ版もあったんだな。
映画は西城秀樹と早乙女愛で、テレビは確か夏友介と池上季実子だった。
少し物語を話すと、小さい頃スキー場で愛が滑りすぎて危険なときに、誠が身を挺して愛を助けた。
その時にできた誠の額の傷を、愛はずーっと引きずって生きていくのだ。

そして二人の運命は「悪の花園」と呼ばれた不良高校での再会によって動き出したのだった。
番長がいたと思ったら、さらに影の大番長もいて、最終的にはラスボスも現れて。
なかなか感動的なラストに向かって走って行くわけだ。

あと生徒会長の岩清水もまた良いのだ。
決め台詞は「早乙女君、君の為なら死ねる!」
と、どんな時でも愛のために命を懸けるのだな。

ちなみに岩清水は我々の生徒会長の芳賀君に似ているのだ。
しかし芳賀君と言えば、好きな子にやっと告白するかと思いきや、好きだとは言えず「ちょと友達に頼まれたから写真撮らせて」なんて言ってしまうのだ。

話はそれてしまったが、もし読んでない人がいたら絶対に読んでおきなさい、心から泣けるから、じゃんじゃん!
そんな春の始まりだったが、またまた森ちゃんが語ってくれた「卓球部恋愛塾」の話によると、そのころ矢島も恋をしていたそうだ。

卓球部の後輩に惚れて、とうとう初デートにこぎつけたそうだ。
初デートは遊園地に行き、一つ乗り物に乗る度に「楽しかった?」って何度も聞いてしまい、最後には後輩の子も気持ちが引いてしまったそうだ。
そしてとどめは別れの握手を求めたら、彼女の目には涙が溜まっていて、そのまま二人は心切なく家路についたのだそうだ。

そして矢島はその失敗デートの顛末を森ちゃんに正確に報告してくるのだ。
「何かまずい事したのかな俺?」という矢島に「いちいち私に聞くな!自分で考えて反省しなさい!」と心で思ったが、口では「次はきっと大丈夫だから」と慰めていたらしい。

あの頃の矢島は確かに細かかった。
俺も矢島に相談された記憶がある。
矢島はとにかくきちんとデートをしなければいけないと思い込んでいたのだ。
何時に電車に乗って、何時に遊園地に着いて、乗るものの順番も決めて、お昼はどこで何を食べるかまで決めていたのだ。

そんな彼が考えた決めゼリフは「楽しかったかい?」だったのである。
別れ際には、握手でニコッと笑って「今日は楽しかったね、ありがとう」と言う。
こうして初デートは大成功、スキップランランで家路に着く予定だったのだが、思い通りに行かないのが現実の厳しい所なのだ。
まぁそんなこともあり、矢島の恋ははかなくも散っていくのであった。

実はその頃、俺も卓球部の後輩に惚れてしまっていたのだ。
俺の場合はその子が「もし先輩が卓球部にいてくれたら嬉しいな」の一言でテニス部を辞めて卓球部に移ったのだ。
これがあの卓球部3日移籍事件だ。

それにしても卓球部の練習は厳しかった。
晴海ふ頭で腕立て100回、腹筋100回、スクワット100回とか、それを夏の炎天下であの変わった掛け声でやるのだ。
卓球部に移籍して3日後には腹筋のやりすぎでお尻の皮が剥けて出血して、俺の身体はボロボロになってきた。

その時、俺はふと考えたのだ。
あの子が好きだからと言って、何もテニス部を辞めなくても良いんじゃないかと。
気持ちはどこにいようと同じなのだからと。
そこに気が付いた俺は、3日後にめでたくテニス部に復帰したのだった。

その後、彼女とは何度か話をした。
すると彼女は中学の時から付き合ったり別れたりを繰り返してる彼氏がいると言った。
その彼のことが心にあるから、スッキリ俺と付き合う訳にはいかないと言った。
さらに詳しく聞くと、その相手は何と俺の中学時代の同級生で空手の有段者でちょっとヤバい奴だった。

さすがの俺もちょっと躊躇してしまったが、彼女ことが諦めきれずバカな俺は「通信空手」に申し込んだのだった。
空手で勝負しようと考えたのだろうか。
教本の通りに毎朝5時に起きて、毎日1時間突きと蹴りを部屋の壁に向かって始めた。
さらに拳を鍛えるために、コーラの瓶をタオルで巻いて殴り続けた。
今冷静に考えると全く無茶でバカなお話なのだ。

そんな日々を重ねて、さぁそろそろ告白しようかと思った矢先「私は星野先輩とは付き合えない」と彼女に言われてしまった。
さらに自分の友達で俺の事を想ってくれてる人がいるから、その人たちを誘って話をしてあげてくださいって。
そして彼女は最後に「今まで色々話を聞いてくれてありがとうございました」そう言い残して去っていったのだった。
こうしてタケシの「ひと夏の経験」は波の音と共に消えていくのだった、じゃんじゃん!

そして話題は冨浦合宿に移るのである。
あの恐怖の一夜の真相を熊が語ってくれた。
恐怖の一夜とは、熊が夜中急に叫んでパニック状態になった事件である。
その時は大石先生が一晩付き添ってくれたらしい。

熊によると、夜中にふと誰かに見られてるような気がしたという。
目を開けると、カヤの上から老婆が熊を睨んでいた。
それで怖くて怖くて叫んでしまったのだそうだ。
ちなみに熊の寝ていた場所は、前年度の先輩も同じことがあったらしい。

遠泳の話も懐かしかったなぁ。
せっかくもらった氷砂糖を口に含んだと思ったら海中に落としてしまったり。
しょっぱい海水を何度も飲んで、やっとの思いでゴールしたのを思い出した。
先生の話を聞くと、引率した先生たちも大変だったんだな。

あとは熊が文化祭でピンクレディに変身した話。
たしかに熊のピチピチの網タイツ姿を思い出した。
顔も化粧して結構真剣にやってたよなぁ。

体育祭は男全員で挑んだ「えっさっさ」
応援団みたいな声上げてやっていたな。
あれは大石先生の肝煎りってやつだったのだ。
そんな懐かしい話がどんどん出てきて、記憶が蘇る楽しい時間だった。

でもあの時に出会い別れたやつらも沢山いる。
中にはそのまま卒業後結婚していまだに続いてるカップルもいるのだから、やはり何か縁みたいな物を感じるのだ。
振り返っても50年だぞ。
そこに朝潮橋があって、3年間その橋を渡って毎日皆同じ風に吹かれて、笑ったり泣いたりして過ごしてきたんだ。
もちろんそこにはチャコの笑顔が間違いなくあった。
それだけは忘れてはならない事だと思う。
懐かしい話は尽きないのだが、続きはまた次回という事で。

その後、中華料理屋を後にした一行は、自然とカラオケ屋さんに入るのだ。
岡先生の「高原列車は行くよ」を皮切りに、昭和歌謡のオンパレードに突入するのである。

「俺たちの旅」ではドラマの映像が流れてた。
カースケ、オメダ、ぐずろく、ワカメが画像に出てくるのだ。
歌と共に青春が蘇ってきた瞬間だった。

メメの「青春の坂道」も懐かしくて良かった。
岡田奈々の当時の映像が流れて、思わずグリコポッキーのCMを思い出す俺であった。
俺も「君と歩いた青春」を歌いながら、17歳の俺に戻っていたのである。

岡先生の「黄昏のビギン」や「また逢う日まで」も良かった。
岡先生の明るい人柄とゆるい空気感がまた良いんだよな。
改めて岡教室は最高だったんだなと実感する。

そしてカラオケは佳境に入っていく。
熊の「糸」も絡みつくようで良かったが、圧巻はメメの「タッチ」だ
昔、砂町銀座の入り口にあった喫茶店「南風」を思い出した。
今はもう無いんだろうな。
あだち充の漫画ではタッチも好きだが、一番好きなのは「陽当たり良好」だな。
ドラマも見たけど良かったよなぁ、あの時代のテレビ。

「俺たちの朝」を見て、極楽寺周辺に住もうって柿崎と不動産屋さん巡りをしたっけな。
毎日、鎌倉の海の夕陽を見て暮らせたら最高だなって。
まったく何を考えていたんだろうかね。

まぁ今日もダラダラと書いてしまったが、こんな昔話を書けるのはここしかないので勘弁してくれ。
では最後チャコに中島美嘉「雪の華」を送ろう。
俺もあの日から同じ悲しみを背負って生きていると伝えたい。

今日はこの辺で勘弁してあげよう。
次回は「22歳の別れ再び編」につづくのである、じゃんじゃん!








そんな訳で「大島からの手紙」今年一回目の出番なのだ。


まずはチャコの事だなぁ。

ちょうど去年の今頃チャコはこの世を去ってしまったんだよな。

12月に皆で墓参りに行ってきた。

季節外れの暖かい春のような陽気で、チャコの笑顔のように明るくて穏やかな時間だったよなぁ。


高校時代のチャコは、いつも周りの空気をパーッと明るく楽しくさせてしまう人だった。

そして太陽のような笑顔で皆の心を掴んで和ませてくれたよ。

お弁当の時間になると永吉とか種本と机を引っ付けて、いつものお弁当グループでワイワイガヤガヤやっていた。

何がそんなに楽しいのかと、俺とか熊はその光景を横で眺めていたっけな。


あの頃から50年弱の時が過ぎていった。

いつかは皆ともこんな別れの時が来るとは分かっていても、いざその日が来るとこれほど悲しい気持ちになってしまうとは・・

生きていくって事は「出会う事」と「別れていく事」と誰かが言っていたが、それを分かっていても心は淋しさ色で一杯一杯だ。


こんな風に思い出として心に響いてしまうという事は、きっと高校時代に良い出会いをしてきたからだろうと思う。

あの頃はそんな事さえ分からず、ただただ毎日教室の中で笑い合ったり、喧嘩したり悩んだりしてたけど今ハッキリ分かったよ。

あの日皆と出会ったって事は、運命とかそういう巡り合わせだったんだなと。


今俺は心のままにこの文章を書いているが、確かに素晴らしい時間だったんだなと改めて実感した。

チャコの死を受けて皆もきっと同じ気持ちでいるし、いつまでも彼女の眩しい明るい笑顔を忘れられないのだ。

お墓参りの後、皆で献杯して語り合ったが、全員が同じ気持ちであったことは言うまでもない。


そのお墓参りの時に京浜東北線に乗った。

チャコはお母さんの介護施設へ川口から川崎までの長い距離を頻繁に通っていたのだ。

俺はそのチャコが見ていたであろう車窓の景色をボーっと眺めていたのだ。

そして心の中で「チャコ、色んな思い出を作ってくれてありがとう。俺も生きてる時間はベストをつくすよ」と思ったのだった。


そのチャコのお母さんは、チャコが亡くなるわずか一ケ月ほど前に亡くなったらしい。

何とも切ない話である。


最近特に有名人の訃報を聞くが、あの人はこんなにも俺の心を勇気づけてくれていたのかぁと思い知らされる事が多いよ。

俺が高校時代に憧れて毎日レコードを聴いていたオリビアニュートンジョンが亡くなった時はショックだった。

この人の歌に何度も元気や勇気をもらっていたから。


そして谷村新司さんの死もやはり同じ思いにくれたのだった。

もちろん二人とも会ったことも話したことも無いけど、同じ時代を生きてきた感覚があるのだなぁ。

きっとこれからもこんな別れの時はやってくるのだろうが、その時は心のすべてを受け止めて行こうと思う今日この頃の俺なのだ!


こんな時は松山千春の「大空と大地の中で」を聴きたくなる。

「しばれた身体を温めてー」とか「野に育つ花ならば力の限り生きてやれー」とか心に染みるんだよなぁ。


この松山千春を始め、さだまさし、アリス、チューリップ等々は若いころから数えきれないほど聴いてきた歌だ。

でも今も立ち止まったり、悩んだりしたときに再び懐かしい歌を聴いて、明日に向かっていく俺なのである。


今の時代、自然災害が多発してるがそんな時だからこそ今日という一日を精一杯生きることが大事なんだと思う。

森ちゃんに聞いた「東日本大震災」の出来事も、一人の人生に大きく関わってくるのだろうと思うと尚更である。


そして人ってやっぱり実際に会って会話したり笑ったりできる事がとても幸せな事だと今さらながら分かるのだ。

人は皆一人では生きていけないものだからby中村雅俊


そんな訳で、今日はこの辺で勘弁してあげよう。

また皆で会える日を楽しみにしているよ。

さらばじゃ。

そんな訳で、星野武志、63歳!
今日も何とか生きています。
「大島からの手紙 あじさい色の恋」の巻の始まりだ

俺がこの手紙を書くときはいつも音楽をかけているのだが、今日は昔買った懐かしいレコードを聴いている。
1枚目はグレープの「せせらぎ」というアルバムだ。
「ほおづき」「朝刊」「追伸」「シンフォニー」等グレープ時代の名曲がたくさん入ってるアルバムだ。

コロナ時代になって、もうあっという間に3年の月日が経ってしまった。
こんなに皆に会うことが出来ない日々が来るとは思ってもいなかったよ。
俺も日々懐かしの月島に元気に通っているぜ。

考えれば不思議な感じだ。
京商時代はバス通学だったのだが、今は地下鉄電車に変わった。
何が違うかと言うと、やはり外の景色が見れないところだ。
やっぱりバスは街の風景が流れていくのが良いんだよなぁ。

そうなんだ、あの頃は門仲に近づくといつも胸がドキドキしたんだ。
門仲のバス停から毎日あの人は乗ってきたんだ。
あの人とは俺の京商時代を語るうえで忘れられない人「八木先輩」のことなのだ。

高校に入学して、4月のクラブ説明会でいきなり心を持って行かれた。
そして5月の今頃はバス通学であの人と同じバスになることが幸せだったのだ。
たぶん3回に1回くらいの確率で同じバスになった気がする。

不思議なのだが、門仲のバス停に大勢の人が並んでいても、八木さんがいると瞬時で見つけることができた。
さらに運よくバスの中で話すことが出来、さらに幸運だと学校まで話しながら二人だけで通学することもあったのだ。

その時何を話したかは今では思い出せないが、とにかくその間は俺にとっては感動の時間だったのだ。
でもいつもそう上手く行くわけもなく、大抵門仲から乗ってくるのは葛西方面からくるクラスメイトで、それはそれでバカ話をして楽しかったのだ。

そんな俺の1年の頃の高校生活だ。
その頃の放課後は真面目にテニス部の練習に出ていた。
毎日ダッシュ、腕立て、腹筋、背筋、スクワット、さらに素振り100回と本当によくやってたよ。
そして先輩が出してくれるボールを走って打つ打ち込み、テニスでは基本のサーブ、レシーブ、ボレー、スマッシュと続いていくわけである。
日も暮れていき最後に「今日も一日ありがとうございましたー」と挨拶して終わるのだ。

あの時のテニス部の1年男子は、俺、橋本、一志、石黒、村、丸山の6人。
今思えば皆揃って汗流してた良い時間だった。
橋本もまだ真面目にテニスをしていたころだった。
まぁそれでも色々いたずらはして騒いでいたが、まだまだ可愛い高校1年生だったよなぁ。

夏の暑い日は練習後「大黒屋」で食べるヤキソバ、ラーメン、かき氷、あんみつ、それが楽しみで頑張っていたのだ。
そんな時はOBの先輩らがよくご馳走してくれた。
それで普段は話せないようなことを、あの大黒屋のベタベタした畳の部屋で取りとめもなく話していたのだ。

楽しい事だらけの日々だったが、橋本の死も確かにあって、それだけは今も忘れられない悲しい出来事だった。
でも本当に良い青春時代だったと思える。
それはあの時に京商にいたという奇跡だったんだと思うよ。

まぁそんな日々の中で、俺はますます八木さんが好きになっていくのだなぁ。
ただひたすらに八木さんを見ていたんだなぁ。
そんな八木さんとの記憶で今でも鮮明に覚えていることがある。

ある夏の日、なぜか俺と八木さん二人だけで帰ることになった。
二人で門仲までバスに乗った。
なぜかその時のバスはガラーンとしていた。
窓際に八木さんが座って、その隣に俺が座った。
窓が半分開いていて、たしか相生橋を渡ったときのことだ。
風が強く吹いてきて、八木さんの髪が俺の顔にフワッとかかったのだ。

何とも言えない爽やかな香りがして、俺の心の中はドキドキしっぱなしだったのだ。
まぁよくある「風のいたずら」ってやつだなぁ。
そして門仲で降りると八木さんが「星野君、あんみつでも食べていこうか」と言った。
もちろん俺は二つ返事で「はい喜んで」と返事して、富岡不動尊の入り口にある「伊勢屋」に入って「クリームあんみつ」を食べたのだ。
八木さんと色々他愛もない話をしたのだが、それがとにかく楽しくて舞いあがった高校生の俺なのであった。

あとはっきり覚えているのは、その時その店のテレビで「パパと呼ばないで」が放送されていた。
あの石立鉄男が「ちー坊」と言うセリフが有名なドラマだ。
そんなことも含めて、あの日の夕暮れ時の帰りの光景は、今でも俺の心の中に輝いているのである。

今はそんな昔の思い出があった場所、門仲、月島、朝潮橋のある青春の地に仕事で毎日通ってることが不思議でしょうがないんだなぁ。
まぁ今日も長々と昔話をしてしまったが許せ。
今年こそ皆で会えるといいなぁ。
そんじゃらば今日はこの辺で勘弁してあげよう、じゃんじゃん!

次回は「大島からの手紙 夏の日の恋2023」に続くのだ













そんな訳で、お久!

帰ってきた「大島からの手紙」コロナの野郎を乗り越える巻の始まりなのだ。


もう前回の手紙から三年ぶりになるのか・・

しかしこんな風に時代が過ぎて行くとは、あの日皆で集まった時は想像も出来なかったよな。

いつでもまた集まってワイワイ親交を深められると思っていたのだ。


今はこの春の穏やかな日々を迎えられて本当に良かった。

幸せとは日々の日常が普通に生きられる事なんだなぁと思う今日この頃なんだなぁ。


そしてロシアとウクライナの今の状況を見ると、日本の平和がとても凄い事なのだと思える。

とりあえず今の自分たちに出来る事はなんでもやって行こうと心の底から考えてしまう日々なのである。


俺たちだってこの先あとどれくらいの時間が残されているか分からない所に来ていると思う。

とにかくその日一日をやっぱり大切に生きることだと思うよ。

皆もコロナ禍で色々あったと思うが、元気出して生きていこーぜ!


とりあえず形式的な挨拶はこれくらいにして、ここからはいつもの「大島からの手紙」らしく行ってみよう!


やっぱり恋っていいよなぁ。

今、昔流行ったドラマ「101回目のプロポーズ」をもう一度見直している。

そう武田鉄矢と浅野温子主演のお話である。

武田鉄矢演じる42歳の中年「星野達郎」が浅野温子演じる「矢吹かおる」に100回目のお見合いを挑むお話である。


ドラマは達郎が、かおるに惹かれ恋をして、自分を変えようと奮闘努力し、人生を賭けてアタックしていくのだ。

まだ見たことの無い人はすぐに見た方がいいのだ。

人の恋のお話なのだが、きっと涙が流れてしまうくらい良いドラマなのだ。


そしてやっぱり恋って人を強くしたり、悲しくしたり、人の心は見えるものではないが確かに身体の一部であると思ってしまうんだなぁ。

他人の恋でも感動してしまうのだから、やっぱり自分の恋は素晴らしいものだったんだなぁ。

俺の恋は悲しくも破れたりフラれたことも多々あったが、その破れたハートは自分にも相手にも「思い出」」って形で身体の中に残っているんだろうな。


まぁそんな訳で、俺もこの三年色々あったが、今はなぜか月島で仕事をしているのだ。

そうあの京商のあった場所月島である。


あの頃は都バスで大島から森下を経由して、月島三丁目で降りて京商に通っていたのだ。

今は都営新宿線から大江戸線経由で月島駅で下車している。

とても便利な時代になったわけだ。


そして今の職場はその月島駅から徒歩5分ほどのところにある。

我ながらこの歳でまさか再び月島に通うことになろうとは夢にも思わなかったよ。

俺にとっての「約束の地」そして心の故郷「朝潮橋」を春の風に吹かれて渡る日々が来るとはな。

ちょっと感慨深いものがある。


軽く報告しておくと、通学路にあった「ナナ文具」と「晴海屋」はいまだに健在だ。

しかし喫茶店の「茶茶」と「いとうパン屋」はなくなっていた。

でも俺たちが毎日通学して渡っていた「朝潮橋」は、あの頃と同じ匂いの風が吹いているよ。


橋を渡りながらあの頃、テニス部の八木さんが好きだった自分の姿を懐かしく思い出す俺なのである。

そして昔の大島からの手紙(自分のブログ)を読んでいて、アッと気が付いてしまったのである。

俺はあの頃、八木さんがあんなに好きだったのに一度も本人に気持ちを伝えていなかったのだ。


今思うとテニス部の他の先輩(西山さん)に相談してはいたのだ。

たぶん西山さんから八木さんには俺の気持ちがそれとなく伝わっていて、優しい八木さんは俺の誘いに応じてくれたんだろうな。

時に鬼のように厳しく、時に天使のオリビアのように優しく、優柔不断な俺に接してくれた八木先輩。


やっぱりあの頃の俺にとっては「憧れのマドンナ」だったのだなぁ。

京商時代、あの人を想う俺でいたから、毎日毎日楽しく通っていけたのかもしれない。

まぁ何にしても最近の俺は「月島あの頃の思い出の風の中」なのである。

そして今流れている曲は「101回目のプロポーズ」の主題歌、チャゲ&飛鳥の「SAY YES」で決まりだ!


まぁ俺たちもいつどうなるか分からない時代に入った。

コロナも治まってきたし、そろそろ集まろうぜ!


じゃあ今日はこの辺で勘弁してやろう。

では次回「大島からの手紙 恋は5月の風の中で」に続くのである。

それじゃぁまた!じゃんじゃん

そんな訳で、皆元気かー!
今年も可能な限り手紙を書いてやるのだ。
そこのところ期待してくれたまえ。

この間の銀座で行われた「還暦忘年会」は、懐かしい顔にも会えて良かったのだ。
あの会場で流れていた曲は、普段なかなか聴くことの出来ない曲が多かったのだ。
マギーミネンコの「燃えるブンブン」とか、ずうとるびの「みかん色の恋」とか、百恵ちゃんの「としごろ」とか。
俺たちの青春時代に合わせてくれたBGMだったのか。

そんな中、会はスタートしたのだった。
まずは本間の挨拶、これが凄かった。
「芳賀、やれー!」この一言で元生徒会長の乾杯となるのである。
さすが元「浜のおだまり番長」本間だ。

そんな本間に贈る曲は、もちろん海援隊で「あんたが大将」でどうだ。
そして芳賀にも一曲プレゼントしよう。
クラフトの「僕にまかせてください」で決まりだ!

そしてあちこちで懐かしい話が咲き乱れるのだ。
何でも昔沢田が住んでいた「勝どきハイツ」という所には、岡田奈々や仮面ライダーの藤岡弘や、同じく仮面ライダー2号の佐々木剛も住んでいたらしい。

そしてその時、悪の軍団ショッカーのアジトは、沢田の家の中にあったという噂が流れていたそうだ。
あくまでも風の噂だが、ショッカーの怪人はあの頃よく晴海ふ頭に現れて、恋人たちを襲っていたのだ。
なのでライダー達は「勝どきハイツ」に普段は住んでいて、事件が起こればすぐに駆けつけられるよう「変身」の準備をして待つ日々だったのだ。
まぁあれから40年も経つが、いまだに仮面ライダーが続いているのは凄いことなのだ。

「還暦忘年会」の話に戻るが、昔のあだ名や呼び名が会場のあちこちで聞こえてくるのが凄いと思う。
だいたいあの頃、女子は名前で呼び合っていた気がする。
「りえ」「れいこ」「なお」「とも」「けい」「ちゃこ」とか、あとは「マルコ」とか「白井ぼん」とか「めめ」「アイミー」とか。

あと今回は来てなかったけれど、永吉だけは不思議と「としみちゃん」と呼ばれていたよなぁ。
やっぱりあの頃から永吉は貫禄があったからだろうか。
沢田も足が治って良かったよな。
これでショッカーも沢田と共に復活だ、めでたしめでたし。

それから久しぶりに志村と木村の顔を見れたのは嬉しかったなぁ。
二人とも京商のころはおとなしいイメージだった。
でも芯は一本通っている感じで、あの頃は凛としててなかなか声を掛けづらかった。
今はそれぞれの人生で「お母さん」としてやってきた自信が垣間見えて、今は違和感なく喋れてしまうんだなぁと、時の流れを感じたよ。

俺の記憶だと志村と小田島はいつも一緒にいて仲が良かったんだよなぁ。
そしてそんな二人が矢島にレモンを渡してたシーンをやけに覚えているのだ。
二人で矢島に駆け寄り「矢島君、これ二人の気持ちだから食べて」とレモンを渡すんだよ。
その後、矢島はそのレモンパワーで急に元気になり、卓球場に走っていくんだ。

それから矢島に恋が生まれたのかは未だに謎だが、あの時は二人のどちらかが矢島に恋をしていたのだろうか。
俺もそれ以上のことは聞けなかったが、たぶんあれは「青春の気まぐれ」って言うか思い違いって奴だったんだろうと今は思うのだ。

そんなこんなで60歳になった同級生たちは、それぞれの想いを語っていくのである。
男は定年を迎えて、これからの仕事のことや趣味などを語り始める。
女性陣はパートを辞めましたとか、定年だけどまだまだ仕事をこれからもやっていくんだとか、前向きな気持ちが強いんだなぁ。

俺も思うんだが、人は生きてる限りは何か仕事をしていたほうが良いなぁ。
それが生きていく上での、心と体の支えになると思うのだ。
何もやらなくなったら、きっと生きていく実感がなくなってしまう。
心が感動したり、燃えることや寂しさや切なさも感じなくなってしまうのではないかな。
それじゃあ生きているとは思えない。
心が震えることが無くなったらやっぱりダメだ。
そのために今やっている事に対し、全力でぶつかって行く心が必要だと思う。

皆の話を聞いて、それぞれが頑張っているよなぁと俺も改めて元気をもらった訳だ。
俺も今はたまたま元気だが、体を壊して充分に働けない奴ら、心の病で自分の思うような日々を送れない友や、そんな中でも全力で生きてる奴ら
まぁ生きている以上は、全力で生きなければならんのかなぁ!
まぁそんな事を考えさせられたよ。

後は女子の相場と初めて話したような気がする。
「アイミーだけど何か?」と話しかけてくれて、ニコッと笑って「在学中とか話したことなかったよねー」とかそんな他愛のない会話だったけど、そんな一言でも嬉しいもんだなぁ。

あ、今思い出したけど、相場の思い出が蘇ってきたのだ。
それは修学旅行で萩に行った時のことだ。
泊まった萩観光ホテルでゲームセンターかお土産コーナーがあった。
そして温泉があって、その出たところに当時流行ってた健康マシンみたいな物が置いてあったのだ。

大きなゴムに身体を預けて、スイッチを入れるとブルブル振動がでて痩せるみたいなやつ。
それにアイミーが乗って、たしか「強」のスイッチを押したのだ。
そしたらいきなりアイミーの身体とバストがブルブル揺れだして、それを偶然目撃した俺と熊が大爆笑したことがあったのだ。
そんな遥かな記憶が蘇ってしまったのだ。
まぁ今思えばそれも優しい思い出だなぁ。

まぁ皆それぞれに懐かしい話に花を咲かせたってわけだ。
そんな中、リエは皿にバイキング料理を山盛りに取ってきてバクバク食べてるし、隣でメメは酒の入ったグラスをグルグル回して飲んでるし、チャコは痛い膝を引きずってケーキを取りに行っては「美味しいねー」と一口で食べていた。
まぁ皆、昔と変わらないパワーを見せてくれたよ。

そんな訳で一次会もお開きとなり、二次会へと突入したわけだ。
そのままカラオケに流れて、それぞれにマイクを奪い合っていくのだ。
本間はさすがに元フォークソング部部長だ。
「なごり雪」をせっせと歌い始めて、季節外れの雪を降らせてくれた。
元フォークソング部の「なごり雪」は一味違っていたのだ。

そしてレイコも気合を入れて「大ちゃん音頭」「六本木心中」へと続くわけだが、レイコ独特のアクションが良かったのだよ。
レイコは昔もよくミッツと二人でビューティペアとかピンクレディを廊下で踊りながら唄っていたよなぁ。
そんな光景を思い出してしまった。

そして平はサザンメドレーで決まりだ。
数曲歌ってハァハァ息切れし始めて「ヤバい、クスリの時間だ」といきなり鞄から注射器を取り出し自分の腕に打った。
それで落ち着きを取り戻していたが、俺は「とうとう平もクスリ中毒に侵されてしまった」と思った。
話を聞くと「いやぁ長年糖尿病でこの薬なしでは生きていけないんだよ」だって。
そう言いながら生ビールを飲んでいたが、皆色々と身体も大変なのだ。

そして森ちゃんもマイクを握りしめ、矢島の心の恋人岡村孝子の「夢をあきらめないで」を唄ってくれた。
矢島にも聴かせてあげたかったよ。
そしてカラオケの名曲、中島みゆきの「糸」で決まりなのだ。
あの「縦の糸はあなたー 横の糸はわたしー 斜めの糸はアイツー」と、三角関係の名曲を森ちゃんはシミジミと唄ってくれたのだ。

それでカラオケ大会は絶好調になってきたのだ。
そして白井ボンと日野のデュエットも飛び出し、俺はもういつ死んでも悔いはないと思ったのだ。
あ、でもメメとチャコの歌を聴くまでは死ねないぞ、と思い直してカラオケ大会はお開きとなり、それぞれが家路につくのであった。

そしてもし今、清水が生きていたら「お元気ですか」を唄ってくれただろうなと、少し感傷的な帰り道になってしまったのだ。
俺は雨に煙る銀座の街をブラブラ歩きながら、40年前の風景を思い出していたのだ。
あの頃とはずいぶん変わってしまったけれど、あの頃の景色や思いは今でも心の中に輝いているのだ。
なぜか銀座の街の灯りをボーっと見つめる俺なのであった。

まぁ今でもこうして京商時代の仲間と、バカな話ができるのは幸せなことだよなぁ。
皆、日々の生活の中で抱えるものも多く、そろそろ身体もアチコチガタが出てきてるはずだ。
昔みたく風のように走ったりすることも出来なくなったけれど、それでも60代を駆け抜けて良いお爺さんとかお婆さんになれたら良いよな!
今日はこの辺で勘弁してあげよう。

次回は春になると思い出すユーミンの名曲
~「卒業写真」のあの人は今どこに~の巻に続くわけだ、じゃんじゃん!

それでは皆もこの白い冬を乗り切っていくのだよ!
そしてまた暖かくなったら会おう!


そんな訳で、また今年も燃える秋、そうだ俺の季節がやってきたのだ。
今日本はラグビーで沸いているなぁ、ベスト8まで良くやったと思う。

思えば40年ほど前から俺はラグビーを見ていたのだ。
あの頃の日本代表は平尾、そうミスターラグビーその人だ。
彼らがやっとチームをまとめて、世界へと戦いを挑み始めた頃だ。

その頃の日本のラグビーは、世界から見ればまったく相手にされていなかった。
オールブラックスに100点以上の点差をつけられたり、とにかく全く歯がたたなかったのだ。
あれから長い月日を経てよくここまできたものと思う。

台風の被害で揺れる日本列島を勇気付けてくれたのではないかな。
ラグビーのノーサイド精神と絶対最後の1秒まで諦めずに前に進んでいく、あの心がどんな時でも人の心を打つのではないかな。
とにかく諦めずに前へ向かって行け!そうすれば必ず道は開ける
俺も久しぶりにラグビーからかけがえの無い勇気をもらった今日この頃である。
そんな彼らに贈る今日の一曲目はもちろん「スクールウォーズ」のテーマ曲、ご存知麻倉未稀の「ヒーロー」で決まりだ!

そんな訳で皆元気かー!
またまた17歳の時代にタイムスリップなのだ。
高校時代の俺たちの平均的な1日ってたぶんこんな風に流れていたんじゃないかな。

朝はギリギリまで寝てて、ご飯は5分でかっ込んで、身支度も5分、駅までダッシュして駆け込んで電車に飛び乗る。
それでも遅刻しそうな時は、月島のバス停で降りたら校門目指してまたまたダッシュ。
ギリギリセーフでひと安心みたいな。

そして2時間目の授業が終わる頃、腹が減ってしょうがなくなってきてるんだよな。
休み時間に早弁したり、注文した学校のパンを食べて何とか昼まで繋ぐのだ。
その時、自分で注文してない他のパンまで食べちゃう奴がいたりして、お昼に誰かのパンが足りなくなってしまうのだ。

そして楽しいお昼がやってきて、皆それぞれの弁当を食べる幸せなひと時を過ごすわけだ。
昼休みはマンガ本を読んだり、寝てたり、体育館でバレーボールをやったりした。
はたまた好きな子がいる教室に理由も無く行って、その子をボーっと見つめていたりと、皆それぞれの昼休みを謳歌していたのだ。

午後の授業は眠い目をこじ開けて、何とか耐え忍び午後の部活に向けて体力を温存するのだ。
夕日の沈む頃はもうヘトヘトに疲れ果て、腹と背中がくっつくような状態だった。
帰りには必ず「大黒屋」に寄り道して、焼きそば大盛りでソースをダボダボかけて食べる。

夏はカキ氷かあんみつ等甘い物を食べて、それから家路に向かうわけだ。
ちなみに大黒屋のアイドルは「みっつ」にそっくりのオバちゃんだった。
いつも店に行くとニコニコして迎えてくれたのだなぁ。

そして何とか家にたどり着くとすぐさま1時間ほど眠るのだ。
それも必ずレコードを聴きながら眠るのだ。
俺はよくオリビアかカーペンターズ、チューリップ、かぐや姫、さだまさしらのレコードを聴きながら器用に寝ていたものだ。
それから目を覚ますと夜の部の始まりなのである。

まずは晩御飯だなぁ、とにかくあの頃は皆もそうだったと思うが、すぐに腹が減るんだよなぁ。
あぁもうお腹一杯!と思っても、1時間も経つとまた食べられるような食欲が1日続くのだ。
まぁそれが17才の普通なのである。

そしてテレビタイムとなるのである。
だいたいあの頃は観る番組がほぼ決まっていて、歌は「ベストテン」ドラマは「太陽にほえろ」「必殺仕事人」「俺たちの旅」「寺内貫太郎一家」だった。
スポーツは「プロレス」だなぁ。

それからラジオもよく聴いていたなぁ、必ず聴いていたのがニッポン放送の「日立ミュージックインハイフォニック」だなぁ。
この番組のなかで色々な人のレコードを紹介してくれて、それをカセットテープに録音して何度も繰り返し聴いていたんだな。
その中で、これはどうしても欲しいって思ったレコードだけはバイトして買ったのである。

レコードは近くの商店街にあった「いよ屋」で買うのである。
必ず付録にその歌手のポスターが付いてて、それがあの頃の楽しみでもあったのだなぁ。

自分の部屋にはオリビアやカーペンターズのポスターがベタベタ貼ってあった。
そんな記憶は皆にもあるのではないかな。
ちなみに柿崎の部屋の天井には「大場久美子」が貼ってあった。
矢島の部屋は「ピンクレディ」と「アグネスチャン」だった記憶がある。

そうそうラジオは夜も更けてくると「かぜ耕士のたむたむたいむ」「あおい君とさとう君」を聴くのだ。
ちなみにあおい君はあおい輝彦で、さとう君はケメこと佐藤公彦だった。
さらに深夜放送で「オールナイトニッポン」やら「セイヤング」へと続くわけである。

しかしラジオだけ聴いてる訳ではなく、その間試験勉強をしたり、マンガ本を読んだり、時には「恋の手紙」を書いたりと忙しいのだ。
たぶん女子などは、好きな人への手編みマフラーなんて編んでいたのではないかな。
そして当初はマフラーとして編んでいたものが最後には毛糸の腹巻に変わってしまったりした(と推測する)

夜中の3時頃になるとさすがに睡魔が襲ってきて、そのままバタンキューと寝てしまい気が付くと朝になっていたのだ。
まぁ長くなったが、若い日の一日は皆だいたいそんな感じだったのではないかな。

こんな俺にも中学の時には憧れの「マドンナ先生」がいたのだった。
大学を卒業したてで我が大島中学に赴任してきた「青木先生」だった。
とにかく若くて元気が良くて、いつも光り輝くような瞳の先生だった。

俺はその先生に、本を読む素晴らしさを教わり、また良い映画や良い音楽を聴きなさいと教えられた。
それまで読んでた本なんて漫画か推理小説だったし、映画なんて西部劇しか観なかった。
音楽なんて天地マリの「虹を渡って」とかアグネスチャンの「ひなげしの花」とかそんな歌謡曲しか聴かなかった。

その俺が急に「君達はどう生きるか」を読んだり「ローマの休日」や「風とともに去りぬ」を観たり、「ビートルズ」を聴きだした。
今までとはまったく違う扉を開いてくれたのが青木先生であった。

その頃は休み時間になると用も無いのに先生の所に行き、バカ話をしたり青春についての相談にのってもらったりしてた。
とにかくいつも青木先生の傍にいたような気がする。
そんな俺も中2の時には何となくしらける日々、そうだよくある反抗期ってやつだ、そんな時があった。
そんな時でも青木先生の話を聞くと、少しは元気になり又頑張ろうという気持ちになったのだ。

そして中3、そろそろ進路を決めねばという季節がやってくる。
俺は家が商売をしていたので単純に商業高校に行こうと考えていた。
青木先生にも相談してて、志望校は京商とすんなり決まっていた。
そんなある日、一度下見の見学に行ったのだった。

家からバスを乗り継いで、実際にどれくらい時間がかかるのか確認したかったのだ。
たしか冬の寒い日で、北風がピューピュー吹いていた。
空はどんより曇り空で、そんな日に中3の俺は初めて京商を見にいったのであった。
学校に近づくにつれて,帰宅する在校生たちとすれ違うたびに不安になってきたのだ。

なぜなら中3の俺の目には、皆ツッパリのお兄さんお姉さんとしか映らなかったのである。
学校を一回りすると俺の中には、あの「愛と誠」に出てくる悪の花園、そう花園高校のイメージが出来上がっていたのだ。
この高校に入って俺は生きて卒業できるのだろうか・・そんな最悪な第一印象だった。
まぁ今思えば中学生から見た高校生はやはり大人に見えるし、ツッパリ学生もその時代の流行のファッションだったんじゃないかな。

そんな気持ちの中何とか入試も終わり、いよいよ合格発表の日になった。
俺は同じ中学から一緒に受けた二人、マー君とタカと3人で京商に結果を見に行ったのだ。
しかし俺の番号はあったものの、マー君とタカの受験番号はなかった。
3人で合格して同じ高校へ行きたいと思っていた俺たちの現実は厳しかった。

そのあと3人無言で門仲まで歩いた。
頭の中では今の現実を受け止めきれず、誰も喋ることが出来なかったような気がする。
そのまま学校にたどり着き、職員室の青木先生に報告をした。
先生は「星野おめでとう、そして2人もまだ私立があるんだから、今は辛いけどもう一頑張りだよ」
といつものキラキラ輝く瞳で俺たちを受け止めてくれた。

青木先生の声を聞いて、俺たちの心もいつのまにか少しだけ軽くなっていた。
マー君もタカもいつもの笑顔を取り戻していて「私立の受験を頑張るぞー」と元気になっていた。
その後二人とも無事に進路が決まって、いよいよ中学の卒業式を迎えるのだ。

その日俺は校門にいた青木先生に駆け寄って
「先生有難うございました。先生が大好きでした、こんな俺を見捨てずに3年間見守ってくれて・・・・」
最後は半泣きで挨拶して、そして握手してくれたのだった。
そして俺は大島中に別れを告げ、京商生へと羽ばたいていくのであった。
あのときの先生の手の温もりは一生忘れないと誓った俺なのだ。

そんな俺に贈りたい一曲はカーペンターズの「イエスタディワンスモア」で決まりなのだ。
本当に遠い日々の記憶を紡いで書いているのだが、そんな懐かしい俺の「中学生日記」版の物語であった。
そんな訳で再び17歳の頃に戻るわけだ。

ちょうどこの季節に俺とクマは休み時間になると、5人組と呼んでいた後輩達と廊下でバカ話をしていたんだなぁ。
その頃のクマは外国の女性ロックバンド「ランナウェイズ」って言うレオタード姿で歌ってた色っぽいグループに釘付けだった。
そしていつも彼女らの真似をして「チェリーボーイ」とか言う歌を口ずさんでいたのだ。

それでいつのまにか5人組はクマを「チェリーさん」と呼んでいたのだ。
その頃は意味も分かっていなかったが、日本語に訳すと「童貞さん」っていう意味だよなぁ。
クマは訳も分からず「チェリーさん」と呼ばれて喜んでいたよなぁ。

そして俺はテニスの部活にいつも決まって白のトレーナーを着ていたのだ。
そしたらいつの間にか俺のあだ名が「はんぺん先輩」になっていた。
あの時、もし「ロッキー」で着ていたグレーのトレーナーを着ていたら俺は「ロッキー先輩」と呼ばれていたのだろうか。
まぁそんな事を考えても「ロッキー先輩」は幻となってしまった訳だ。

そしてその後もこの5人組とは相変わらず休み時間に廊下で「ガハハ」笑っていたのだ。
その時は本当に良い時間を過ごしていた。
それがまさかこれから始まる「恋の嵐」になるとは、この時の俺はまだ知る由もなかったのである。
この悲しくも切ない恋のお話は、また次回へと続くのであった。じゃんじゃん!

まぁ余談だがこの頃は皆けっこうあだ名で呼ばれていたんだなぁ。
矢島は「ヤジさん」とか「ユタ子」とか、柿崎は「ジイ」で芳賀は「ハガヘ」
高島はスケベな高島だから「スケタマ」、成島は家が弁当やだから「なり弁」
守孝は顔がケツみたいだから「ケツ」とかひどいよなぁ。
金沢はなぜか同い年なのに「アニキ」、佐久間は「チャーボー」
ケツじゃない池田は「コツ」だったなぁ、ただ細かっただけなのに。

たぶん女子は女子同士で色々呼び名があったんだろう。
それでもやっぱり最強は本間の「おだまりババア」と沢田の「浅草ババア」で決まりなのだ。
これに鬼太郎の「砂かけババア」を含めての3大ババアで最強なのだ。
またまた懐かしい記憶を書いてしまった、まぁ許せ。 

そんな訳で今日はこのくらいで勘弁してあげよう。
じゃあ皆の衆11月23日13時に、銀座フォーエタティで会おう!
次回「冬の恋は心に染みる青い空」の巻でどうだー!じゃんじゃん!

そんな訳で大島からの手紙「還暦なんか乗り越えろ」の巻だ、じゃんじゃん!

この前の呑み会では幹事の皆様ご苦労様でした。
まぁ色々あったけど楽しい呑み会だったよ。

考えてみるとこの「大島からの手紙」も書き始めてから約10年も経ったのだ。
振り返ってみると、色んな場面で悲しい時、切ない時、楽しい時、そんな思いを燃える心で書き続けられて、俺は本当に幸せだったと思う今日この頃なのである。
これからもこの燃える思いを綴っていきたいと思うのだ。

唐突だけど、俺は橋が好きなのだ。
隅田川に架かる「新大橋」「永代橋」「勝鬨橋」、門前仲町から月島に向かう「相生橋」なんかいつも良い風が吹いているぜ。
そして京商に行く途中にある「朝潮橋」この橋を渡ると何故か心がスーッと落ち着き気分が良いのだ。

そんな東京の街に架かる橋には、いくつかの切ない思い出もある。
将来の夢を語った友のこと、愛を告白した時や別れを決めて歩いた時、明日からどうして生きていこうと悩んで歩いた日々や、心の切なさと辛さをいくつかの場面で橋を渡って乗り越えた日々があった。

そんな自分に贈りたい今日の一曲目は、もちろんハウンドドックの「ブリッジ~あの橋を渡るとき~」で決まりなのだ。
♩時は戻らないから 傷ついても あの橋を渡るとき 全てが変わる♩
この詩に何度勇気をもらったことか。
まぁそんな風に何とか生きてきた俺なのだ。

話は変わるが、この前本棚を整理していたら、昔の年賀状や手紙が大量に出てきて懐かしく読んだのだ。
それは50年くらい前からのもので、よく残っていたなぁとビックリしたのだ。
あの頃の年賀状は、皆手書きでイラストやマンガ等結構手の込んだ物が多かった。
いい機会だから幾つか紹介してみよう。

熊澤のハガキは必ず自分のイラスト入りで、それがまた上手いんだよ。
クマがスケボーに乗って虎に引っ張られてるシーンで、それが必ずGパンツナギファッションなんだ。
これが実にクマのイメージに合ってて凄いのだ。
そしてセリフは必ず「たけし、頑張らんとだちかんぞ!」と一言入っているのだ。

その頃のクマは貧乏大学生で、1日3食共につけ麺生活で体重も50キロ位しかなかったんじゃないかなぁ。
しかし顔の大きさだけは変わってなかったから、バランスが悪くて何だかヤジロベエみたいだったのだ。

チャコのハガキもなかなかだったよ。
チャコらしき女の子が赤い着物姿で正座して挨拶をしているシーンだけど、顔の表情が何ともおすまししてて良いんだなこれが。

矢島は必ず今年の目標が書いてあるんだ。
1.いつも5分早い矢島になるよう努力する
2.鼻血、貧血防止に努力する
3.借金返済に全力をつくす
4.松田聖子のファンクラブに加入する
まぁこんな事が書かれているのだ。

そして柿崎は必ず家族のエピソードを面白く書くパターンだ。
ある年のハガキは、競馬の出走表に見立てて書いてあった。
1枠 アルコールヨシノブ 牡30歳 (得意技)朝帰り
2枠 ボケマリ 牝25歳 (得意技)里帰り
3枠 パンパースチサト 牝0歳 (得意技)寝返り
毎年家族の様子を書いて笑わせてくれるよなぁ。

岡先生は一言「新しい出発、頑張れー!」で決まりだ。

沢田は家族写真で店の前のシーンが多いなぁ。
「境屋」の暖簾の下で皆ニッコリって感じだなぁ。
こうやって見ると沢田も若い頃があったんだなぁっと・・いやいや

そして日野はこれも凄い「Drスランプアラレちゃん」のイラスト入りでちゃんと色鉛筆でカラーにしてある。
一言「今年は光ゲンジならぬ、光る!ジューちゃんで行きたいと思います。ハイ!」と本当に上手いイラストなのだ。

三ツ木の自身の似顔絵イラスト入り年賀状は圧巻だった!
メガネと三つ編みカットで、一目でこの子は三ツ木だと分かる!

この頃の年賀状は皆絵が入っていて、それぞれがかなり上手かったのだ。
あとは「スヌーピー」やら「チッチとサリー」のイラストが入っているのが結構あった時代なのだ。

そうそう、この頃はクラス会も頻繁にやっていて、場所は門前仲町の「あさ月」、銀座「いけ増」とかで開催した。
そのとき往復ハガキで出欠を取っていて、その返信ハガキも沢山でてきた。

その中の一枚に、今は亡き小林弘昌君のハガキがあった。
そのコメント欄に「僕は今、家事手伝いに励んでいます。お金はありませんが出席しますのでヨロシク!」とコヤシらしい言葉で書いてあったよ。
いやぁ懐かしいなぁ。

そしてアニキこと金沢功も最初の頃は出席で返信ハガキが届いていたのだ。
ウエケンもスヌーピーのハガキで出席の返信がきていた。
この頃は大勢出席していたんだよなぁ。

クマのコメントは「キレイどころを揃えてくだされば出席です」と書かれていた。
メメの返信は「あれから1年、皆さんも少しは大人っぽくなったかなぁ。モチ見目さんは色っぽくなりましたよ。なんちゃって」と書かれていた。

芳賀の返信ハガキには、やりたい事として「柿崎と伊東玲子の婚約発表会」と書かれていた。
皆、なかなか良いハガキ書いてたよ!
森ちゃんのも出てきたなぁ。
「11/17は教育実習の真っ最中です、でも頑張って行っちゃうからね!」と。

さらに懐かしい手紙やらラブレターみたいなものもずい分と出てきたのだ。
それらの手紙を読んでいると、いつしか心は17歳の頃に戻っていたのだ。

一字一字丁寧に気持ちを込めて、俺みたいな男に「好きです」と書いてある。
少しの迷いもない真っ直ぐな気持ちを、想いを届けとばかりに書いてある手紙を。
今60歳になってその手紙を読むときは、心が甘酸っぱく切なく、まるで「初恋の味カルピス」を初めて飲んだ時の爽やかな心になってしまう。
そして次の瞬間、17歳の青春時代の俺がたしかに60歳の俺の中に生きているんだ!と感じるのである。
その日の俺は一日17歳の星野武志に戻っていたのだなぁ。

まぁそんなバカな事をしてるいつもの俺なのだなぁ。
でもそんな想い出が明日を生きていく力になってるのだと思う。

その他にも橋本や野中先生の年賀状が出てきたりして、俺は思わず涙ぐむのであった。
白井ぼんの家族写真の年賀状が出てきたときは笑ってしまった。
これがあの「きよしさん」だったのかと。
先日の還暦を祝う会のとき、白井ぼんから旦那さんとの出会いやらプロポーズの話やらを聞いた直後だったのだ。
そんな幸せな白井ぼんに贈る曲はもちろん、サザンオールスターズの「そんなキヨシに騙されて」で決まりだな。

そんな訳で先日の飲み会で俺は二人の女性を泣かせてしまったのだ。
その一人はメメなのだなぁ。
お父さんの話をしてるうちに、感極まって涙ぐむメメなのだ。
そんな心優しいメメに贈る曲は、もちろん甲斐バンドの「安奈」で決まりだ!
♪安奈 クリスマスキャンドルの灯は燃えているか 安奈 お前の愛の灯は燃えているか♪ 
泣かせる詩なんだなぁ、うーむ

そしてもう一人の女性は佐竹なのだ。
彼女とは高校時代はたぶん話しをしたことはなかった。
でも何となく知ってるもんだなぁ。
廊下ですれ違ったりして、あの頃彼女はたしかツッパリ少女だったよなぁ。
長いスカート、つぶした鞄、眉毛はそって、パーマかけて、そんな感じだったと記憶している。

まぁそんな彼女だったが、話して見るとなかなか良い奴だったよ。
大島をこよなく愛していた。
たぶん高校時代はカッコつけて、真っ直ぐにツッパッていたのだろうな。
そんな佐竹と仕事の話をしていたら、彼女の目から思わずキラキラ涙がこぼれてきたんだ。
心に溜まっていた切ない想いが溢れてきちまったんだ。
それはきっと彼女の優しい心が流させた涙だと思う。

俺はそんな彼女を見てて、話を聞いてあげることしか出来なかったよ。
もしこれが17歳の頃の俺だったら、その涙でコロッと恋に落ちてしまったんだろうと60歳の俺は思ったのだ。
まぁ俺もだいぶ大人になったものだから、もうそう簡単には恋に落ちたりしないのだ。
タケシもだいぶ成長したものだ。
そんな彼女にこの一曲を贈りたい、研ナオコ「泣かせて」でどうだ!

その泣いてボロボロの佐竹を、武居が優しくお母さんみたいに慰めてあげていた姿が良かったのだ。
まぁ人と人は年月が過ぎても変わらない友情とか愛情みたいな心で繋がって立ち直って行けるんだなぁ。
でもこんな風にメメも佐竹も素直に涙を流せる場所はそれほどないと思う。
高校時代の友というだけで、こんなにも優しい場所になるんだなって。

若いときはもっと激しくて簡単に涙していたけれど、今はそう簡単には泣けないよ。
顔で笑って心で泣いてこらえるみたいな。
だから余計に何も考えず、素直に涙を流せる時って凄いんじゃないかなぁ。
俺も皆の顔を見て話して、そして心燃やしてまた明日から頑張ろうやという気持ちになる訳だ。

これからの10年、70歳位までが「黄金の10年」って言われる時間だ。
その一瞬一瞬、一日一日をなるべく皆で気持ちよく生きていく。
それが今の俺達には一番良いんじゃないかと思う今日この頃だ。
まぁ今日の所はこの辺で勘弁してあげよう。

次回は「矢島からの手紙~夏の少女の巻き~」に続くにのだ。
ではさらばだ、じゃんじゃん!  

 

 


と思ったが今日の俺はこれくらいで勘弁しないのだ。
まだ言いたいことがある。
それはさっきの橋のエピソードだ。

昔の恋人に再会して「大きな熱い恋」を失ったことを悔やみ、再び恋してしまうバカな俺だった。
そんな時「新大橋」のベンチに座り、その心を断ち切るために一人で缶ビールを片手に何時間も過ごしたこともあった。

「相生橋」は橋の下に降りると、風が気持ちよく吹いてくる入江がある。
その石段に座り、長い時間2人で缶コーヒーを飲みながら将来の夢を語ったこともある。

「朝潮橋」では、冬の冷たい風が吹く中、月の光を眺めながらかじかむ手を温めて、涙を流す彼女の姿をただ見つめるしかできなかったバカな俺がいたりした。

「勝鬨橋」で別れ話になり、2人は別々の方向に向かって歩き出したこともあった。
そんな昔の思い出たちが俺の心の中に蘇ってきたよ。

兎にも角にも、橋は俺の人生の節目に欠かせない大事な場所なのである。
あと橋ではないけれど「晴海埠頭」も好きな思い出深い場所である。
夏の暑い日の夕暮れ時、ここの風に吹かれるのは実に気分が良いのだなぁ。
さらに秋、冬もこの場所で良い風に吹かれたりしてたよなぁ。

やっぱりこんな時はユーミンの「埠頭を渡る風」と「ノーサイド」が聴きたくなってくるのだ。
よしついでに「青春のリグレッド」も聴いてしまえー。
まぁこの辺で少し気持ちを落ち着けてコーヒータイムだ。

まぁ10周年と言うことで随分書いてきたが、今の俺の夢を少しだけ話そう。
それは熊沢が以前のように元気を取り戻してほしいということ。
またあの似顔絵入り年賀状がもらいたい。

あと矢島にも昔のように熱い気持ちの年賀状を書いて欲しい。
それとチャコのおすまし顔イラスト入りの年賀状も欲しいなぁ。
あとは日野のカラーのアラレちゃんイラスト年賀状で決まりだな。
なんだか些細な夢になってしまった。
だから名前のあがった友人たちよ、もしできるなら俺の夢を叶えてくれぃ。

まぁ今日も色々バカなお話に付き合ってくれてありがとう。
俺の恋話もそろそろ佳境にきたなぁ。
最終回は「北海道運命の恋物語」を書く日がくると思うのだ。
でももう少しタケシの「東京恋物語」は続くのだった。
そこらへんはヨロシク!

それでは今度こそ本当のさらばじゃあ。
じゃんじゃん!
 

そんな訳で皆んな元気かー!
あれから40年ついに「赤いちゃんちゃんこ」の日が来たのかぁ。
今日の一曲目は5月の爽やかな風の日にピッタリのオリビアニュートンジョン「そよ風の誘惑」でいくのだ。

まぁ何にしても「還暦を祝う会」を企画してくれた面々には感謝なのだ。
振り返ればこの60年色々皆もあったと思うが、今生きていることが一番良かった事なのだ。
幹事の皆様ご苦労様です、まぁつのる話は当日のお楽しみという事で。

話は突然飛ぶのだが、矢島豊の永遠のアイドル「岡村孝子」の白血病の件はビックリしたのだ。
なんせ「孝子クラブ」の会員NO.7の豊だから、彼の青春はこの人なくして語れないのだから。
20代の青春の全てを孝子に捧げた豊もそうとう辛かったと思うのだ。

その頃の俺は、矢島の付添人&ボディガードとして孝子のコンサートにはよく同伴したものだ。
真夏の横浜アリーナからクリスマスコンサートまで、まぁよく行っていたなぁ。
その頃、矢島も私生活で色々な悩みや仕事のストレスを抱えていて、彼女の歌を聴いては慰められたり勇気をもらったりして「また明日も頑張るぞー」と言っていたものだ。

コンサート会場では「夢をあきらめないで」がかかると豊は必ず、目からキラリと光る涙を流していたのだ。
俺もそんな豊の隣で、心の中では泣いていたのだ。
そんな青春の1ページが蘇ってきた今日この頃なのである。
早く元気な姿でまた豊の前に戻ってきてほしいものだ。

さてこの辺でコーヒータイムだ。
今日は暑いのでアイスコーヒーなのだな。
さぁそんな訳で今日の2曲目はご存知チューリップの「虹とスニーカーの頃」で決まりなのだ。

そう言えば財津さんも今は闘病中なのか、あまり出てこなくなってしまったよなぁ。
またあの切ない声で「サボテンの花」を聴きたいのだ。
だんだん寂しくなってくるよなぁ。

さぁ気を取り直して行くぞー!
そんな訳で今日は「偽りの恋」のお話なのである。

それは高校2年の夏休みの出来事だった。
毎日の暑さで日々ボーっとして生きていた俺に、ある日突然電話がかかってきた。
相手はまったく知らない子だった。

その子の話では彼女の友達が京商で、その友達に俺と会ってみろと言われたらしいのだ。
とにかく会って話をして欲しいとの事だった。
電話口での彼女の声は切なくて、俺の心にジーンと響いてきたのだ。

今この子に会って話を聞いてあげなければ男がすたる、今俺が助けてあげねばダメだと直感したのだ。
その頃の俺はすぐ熱くなる男だったのだ。
「分かった!今どこにいる?直ぐ行くから待ってろよ、早まっちゃいけねーよ」と飲みかけのキリンレモンを一気に飲み干してチャリにまたがり、その子の待つ公園に全速力で走ったのだった。

公園に着くと2人の女性が待っていた。
電話してきた子と、友人の子だった。
その友人の子が京商のK子で、今まで話をした事はなかったが顔は知っていた。
そしてとりあえず3人で喫茶店に入り、アイスコーヒーをグッと飲み干して身体の熱を下げた俺は、ようやく2人の話を聞くのであった。

話を聞くと、今の自分は家にいても学校にいても毎日が辛くて寂しいのだとか、何か心に燃えるものを持ちたいのだとか、そんな悩みだった。
なぜ俺と関係があるのかと思ったのだが。
K子の話では、彼女の悩みを聞いてるうちに、星野君とは話をしたこともないけれど、きっと彼女を元気づけてくれるってひらめいたのだそう。
まぁそんな理由で俺に電話をかけてきたのだった。

その時どんな話をしたのかは詳しく覚えてないのだが、2時間くらい何だかんだ色々話したのだ。
帰り際に悩んでた彼女は「今日は星野君と話せて良かった、少し元気になれたよ」と満面の笑顔で言ってくれた。
そして「ありがとう」と言って、二人は夏の夕暮れの中を帰って行ったのだ。

一人取り残された俺は、まぁ俺たちくらいの青春真っ只中の奴って、誰かに心の声を聞いてもらえただけで立ち直れる時もあるんだよなぁ
と一人納得して、チャリを引きずりながら夕陽の中をトボトボ帰るのであった。

その後K子とは学校でたまに顔を合わせる事もあったのだが、お互い何も言葉は交わさず、目と目で「元気か、大丈夫か」と分かるような感じになったのである。
青春時代にはこんな事でも心が熱くなれるんだなぁ。
今もその気持ちだけは無くしたくないと思ってる俺なのである。

さぁ今日はこの辺で勘弁してやろう!
次回は「生徒会長の芳賀康明だけど何か文句あっか!」の巻に続くのだ!じゃんじゃん!
あの頃、芳賀も熱い恋をしていたからなぁ。
そんな訳でさらばじゃ!
そんな訳で春だなぁ。
とりあえず矢島よ、還暦おめでとう!
17歳の頃はまさかこんな日が来ることなど考えも及ばなかったが、60歳になっても心はまったく変わってない事に気付いた。

変わっていくのは身体の方だ。
あちこちガタガタになってしまうのだ。
まぁこれが生き続けたと言うことだろう。
それでも60年生きてこれたのは奇跡なのかもしれない。

まぁ振り返って思うのは、人ってやっぱり一人では生きて行けないと言うこと。
色々迷惑かけて、その力で生かされてきたんだって最近分かるよ。

最近は俺たちの時代のアイドルやスターがどんどん亡くなって、その事で自分が意外と落ち込んだりする。
そっか、俺は気づかなかったけど、秀樹や樹木希林に知らずのうちに元気や勇気をもらってたみたいだ。
俺たち世代もあと何度桜の花がみれるのか・・
そんな事を考えるような所まで来たってことか。
そんな日々を送っているよ。

イチローの引退は、なかなか感動のシーンだったな。
やはり日々しっかり生きている奴の目と心は違うなぁ。
あと今の心配は、水泳の池江璃花子選手のことだな。
なんとか復活して欲しいものだ。
色々心が動かされる日々だよ。

俺たちもそろそろ第二の人生に入って行くわけだが、仕事に関してはやはり続けていた方がいいな。
何もする事がない状況だと、人はダメになって行くと思う。
今まで仕事は悩みの元だと思っていたが、最近は逆にそれがあるから日々の生活に生きがいを感じたり出来てるのだと思う。

身体が動くのならその方が良い。
後は日々の自分なりのコンディション作りを考えた方がいいな。
食べること、運動すること、休むこと、そのバランスが大事だ。
昔に比べて、俺もだいぶ食べる量も酒の量も減った。
それでも今は丁度いい感じだ。

後は運動だなぁ。
身体は年々動かなくなってきてるから、自分に合う適度なストレッチや筋トレをするようにしている。
それで1日を動ける身体にして仕事をするわけだ。
今は先の事より1日1日を気分良く元気に生きる事が大事な気がしてる。

今、山本コータローの「岬めぐり」がかかっている。
まだ若い17歳の頃に聴いていた曲だ。
あの頃は、失恋のたびに街や海や山へと、フラフラ行っては心の叫びを慰めていたのだ。
まぁ相変わらず懐かしい曲を聴くと、あの日に帰ってしまう俺なのだ。

あの頃、京商の教室で「心のノート」があった。
そのノートに皆気軽にその日その日の想いを綴っていたよなぁ。
その一つ一つの文には、それぞれの切ない想いがあったんだよな。
俺もたまに書いたり、そして他の奴の気持ちを読んだりしていたよ。
まさに青春の1ページであったのだ。
あの頃はそのノートに慰められたりしてたんだなぁ。

そんなある日、俺は教室の窓際の席で、その「心のノート」をボーっと読んでいたんだ。
季節は初秋の夕暮れ時だった。
その時だった、下級生の女の子が俺の方へ走って来た。

その子は顔見知りの子で、何度も学校の廊下で立ち話をする間柄だった。
笑顔の素敵な子で、いつもニコニコしてまるでペコちゃんみたいな子だった。

彼女は息を切らして「先輩、このテープを聞いて下さい、私が好きな歌を心を込めて作ったテープなんです」
そう言って、一本のカセットテープを渡されたのだ。
そのテープにはかぐや姫の「僕の胸でおやすみ」「妹」「加茂の流れに」「なごり雪」「あの人の手紙」など、すべて心に響く歌が入っていたのだ。
そして最後の曲は中村雅俊の「あなたを愛する私」で終わっていた。

そのテープを聴き終わった時、俺は確信した。
この子は俺に恋してしまったのではないかと。
ウーム、まずいぞこれは。
実は俺もその時、燃える秋の恋に落ちていたのだから。

俺もその時は高校3年生、少しは大人の階段を登ってきた男だ。
少しでもペコちゃんを悲しませずに話をしてあげねばと思ったわけだ。
そして彼女を呼び出して、小体育館の外にある原っぱみたいな所で、階段に腰掛けて話したんだなぁ。

彼女の目を見たり、木の葉が揺れるのを見たりして、自分の想いを伝えていたと思う。
やけに良い風が吹いていたのだけは覚えている。
話も佳境に近づき、すべてを話した俺。

しばらくの沈黙が流れたあと、彼女はゆっくり顔を上げて俺を見た。
いつものペコちゃんの笑顔で
「先輩大丈夫、だからこれからも卒業するまで今まで通り話をして下さい」
静かな秋の京商の体育館裏の出来事でした。

今でもそのテープを聴くと、その時の事を思い出し切なくなる俺なのである。
あれから40年、お互いにジジババになってしまったのだろうが、あの日のあの時は一生に1日だけだったんだから。
今思えば、良い秋日和だったんだなぁ。

そんな一つの想い出にさえも、俺は勇気づけられて、何とかここまで生きてきたのだろう。
まぁそんな思い出話しができるのも、本当に幸せな事だとつくづく感じる今日この頃なのである。

そう言えば矢島よ、あの日朝潮橋の上で聞いた、将来の夢だけど少しは叶ったのかい?
今振り返って同級生の皆にも聞きたい。
あの17歳の頃の熱い想いとか、夢とかは叶ったのかと。

俺自身にもだ。
今思うことは、17歳の時の心って形にしたら、トゲトゲでいつも何かに刺さってたりした。
だから痛い想いが多かったのかもしれない。

今は60歳の心になって、あの日よりも少しトゲもなくなり、丸くなってきたのか許せる事もできるようになってきたと思う。
春になり、心も暖かくなってきた今日この頃の俺である。

次回「矢島豊の僕の胸でおやすみの巻」に続くわけだ。
それじゃ今日はこの辺で勘弁してやろう、じゃんじゃん!
そんな訳で、冬のど真ん中の頃だ!皆、元気かー!
今年も義理チョコの季節がやってきた。

この時期、寒さに身体も心もやられがちだが、冬にも冬の良さがあるのだ。
熱燗も鍋も湯豆腐も、この時季だから美味いのだ。
俺も毎晩、晩酌で酒を楽しんでいる。

 最近はBS放送でフォークや演歌の番組が沢山ある。
この歌番組を観ながら呑むパターンがほとんどだな。
最近は演歌界のホープ「三山ひろし」がいるが、熊の高校時代に雰囲気が似ているのだ。
そんな感じで、やっぱり演歌と酒はとても合うのだなぁ。

 一方フォーク界は、今ユニット流行なのである。
「なごみーず」はガロの大野さん、正やん、太田裕美で構成されている。
そして「ブラザースファイブ」は杉田二郎、ベーやん、ばんばん、高山厳、因幡晃が組んでいる。
この間なんぞは、懐かしのポプコン2017ライブがあった。

このポプコンからは、中島みゆき、八神純子、ツイスト、ガム、チャゲアス等が生まれたのだなぁ。
チャゲと石川優子の「二人のアイランド」なんて懐かしいなぁ。
ガムはいま一人で葛藤しているみたいだが「愛はかげろう」は今聞いても良い曲だ。
そしてたぶん知ってる人は少ないと思うけど「浜田良美」という人がいたんだなぁ。
良い歌だったんだけど、ほとんど売れずに消えていってしまったのだ。
うーんポプコン懐かしいなぁ。

そんな訳で、今日の一曲目はもちろん郷ひろみの「お嫁サンバ」で決まりなのだ。
俺たちの高校時代の女性陣は、だいたい秀樹・五郎・ひろみの三派に分かれていた気がする。
俺も「よろしく哀愁」「私鉄沿線」「ブルースカイブルー」は今でも好きだ。
しかし、ひろみ郷はいまだに歌も踊りも凄すぎるのだ。
まぁこんな寒い冬の時季は、熱燗で心を温めて、昔の歌や映画で元気をもらうのが一番だ。

 俺はこの時期になると「ロッキー」を観たくなるんだよなぁ。
そして必ずラストで涙を流すのである。
そうすると、まだまだ俺の心も熱いものがあるんだなと確信するのだ。
話はだいぶそれてきたが、そんな訳で今日の二曲目はクリスタルキングの「大都会」で行ってみよう。
そんじゃらば前置きはこれくらいにして、皆様お待ちかね「大島からの手紙・・涙の朝潮橋」のはじまりはじまり。

その頃の俺は、京商の隣の学校に入学して、1年生としての春をむかえていた。
そんなまだ初々しい5月の頃の話である。
学校にも慣れ始め、友達もでき、日々燃えていた頃、出会ってしまったのだ、あの人に。
この大島からの手紙にも何度か登場している、あの「百瀬さん」である。

 確か体育館で体操をしている姿を見た瞬間、俺の身体に春一番が吹いたのだ。
一目惚れだったなぁ、完璧にやられました。
俺が1年で百瀬さんは3年、そうまったく高校生の時と状況は一緒だったのだ。
俺が高校1年、八木さんが3年、これはまたまた運命の悪戯なのかと思った。
それから1年間、百瀬さん命の日々が始まったのだ。

 楽しかったなぁ、学校に行けば大好きな人に会える、ただそれだけで良かった。
その頃の3年生の先輩たちは皆良い人ばかりだった。
毎週、学校帰りに月島のもんじゃ屋や、門仲の「のんべぇ」「あさ月」等に誘われた。
そこで人生のためになるお話を聞いていたのだ。
俺の性格上そんな場所でも百瀬さんに「好きです!」と半分本気で言っていたのだ。
彼女は大人なので「星野君、またまた冗談ばかり」とうまくかわされていたのだった。

 八木さんの時は俺はまったくのガキだったから、まともに世間話などできなかった。
ただただボーっと見とれていることしか出来なかった。
でも百瀬さんのときは、俺もだいぶ成長したのか、世間話や人生の話など大人としてつき合えたと思う。
あの時の1年間は、百瀬さんの笑顔だけで生きていたのだなぁ。

そして今日の三曲目はツイストの「燃えろいい女」なのだぁ。

そして楽しい日々はあっという間に過ぎ、卒業の季節がやってくるのだ。
俺はこのままじゃいかん、やはりきちんと気持ちだけは伝えなければと思った。
そして意を決してデートに誘い、自分の気持ちを伝えたのである。
百瀬さんは、とても優しく気遣いの出来る人だった。
いつも他人を裏方で支えるような人で、そして元気付けてくれる人だった。
そして俺の気持ちを聞いた彼女は、自分の気持ちも言っておかなければと語ってくれたのである。
まぁここは過去にも書いたと思うので割愛するが、結論から言えば実らぬ恋だったということである。

でもそんな恋ではあったが、俺の人生の中では充実した日々であったと、彼女に感謝せずにはいられないのであった。
そんな卒業していく彼女に、俺は手紙を書いたのだ。

 3月13日(木)晴れ
贈る言葉
百瀬さん、卒業おめでとうございます。
この前はすいません、私の我がままを聞いてもらって
やっぱり自分の気持ちを言って良かった
あなたの心を言ってもらって良かった
人は誰でもくじけます、だからこそそこから立ち直ろうと頑張るのです
俺だってへこたれます
でもそこから前へ進めば良いのです
あなたは素敵な人でした
人を好きになることの大切さを、俺は教わった気がしてます
俺はあなたの子供のような所が好きです
確かにしっかりしてて、他人に悩みを見せないようにしてるけど、そんな中でたまに少女のように思える時があります。
一度きりの人生です、自分の思うように精一杯生きていくのが本当だと思います。
自分の人生の中では誰もが主人公、百瀬さんが幸せになれるように俺はいつも祈ってます。
今まで一年、こんな俺の話を聞いてくれてありがとうございました。
これは俺の百瀬さんへの感謝の手紙です。
そして海援隊の「贈る言葉」のレコードをあなたへプレゼントしたいのです。
それではお元気で・・・・

 とまぁこんな手紙を書いたのだった。
俺は学校の帰り道「朝潮橋」のたもとでこの手紙を渡すために待っていたのだ。
まだ冷たい風が吹く早春の頃、春の星空を眺めながらたたずんでいたのであった。
あれから約40年と月日は流れたが「朝潮橋」に春吹く風は、あの頃と変わらず心に吹いてくれるのだろうか。
とまぁ、この時季になるとこんなことを思い出してボーっとしている俺なのである。

この冬が過ぎればまた春はやってくる。
これだけでも今は幸せな気持ちになれる今日この頃の俺なのだ。
皆も色々あるだろうが、あまり無理せず自分の心のペースを大事にしながら日々楽しく生きていこう。

 俺もまた皆と会える日を励みに、頑張って日々働くよ。
忘年会は楽しかったよなぁ。
そんな訳で、次回「大島からの手紙・・春の風と矢島の燃える恋の物語」に続くのだ!
それでは今日はこのへんで勘弁してあげよう!じゃんじゃん!