鳥羽城(三重県) | おおとり駆の城日記

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三重県鳥羽市の鳥羽(とば)城です。


鳥羽城は文禄3年(1594)に九鬼嘉隆によって築城されました。

九鬼嘉隆はもともと志摩国の小さな一勢力に過ぎませんでしたが、早くから織田信長に仕え、長島の一向一揆や石山本願寺との戦いにおいて、水軍を率いて数々の戦功を挙げました。

なかでも、天正6年(1578)に行われた第二次木津川口の戦いでは、当時としては異例の大型の鉄甲船6隻を率いて、毛利水軍を打ち破り、九鬼水軍の名を一躍高めました。


信長の死後は豊臣秀吉に仕え、秀吉の九州平定、小田原征伐などでも活躍し、文禄元年(1592)朝鮮出兵の際にも日本丸という大型軍船を中心とした大船団を率いて参戦しました。


慶長5年(1600)関ケ原の戦いでは、石田三成方の西軍につき、東軍についた息子守隆と父子に分かれて戦うことになりました。

西軍の敗北を知った嘉隆は、鳥羽城の東約3kmに浮かぶ答志島(とうしじま)に逃れます。

守隆の必死の嘆願により、家康から助命の許しを得ますが、それを知ることなく、嘉隆は答志島で自害します。

司馬遼太郎の『関ヶ原』にはその嘉隆と守隆の父子の戦いを取り上げた場面があり、守隆が急ごしらえの船団を仕立てて、お互い空鉄砲を撃ち合う様子が描かれました。

関ケ原の戦いで、どちらが勝っても家が残るよう、親子や兄弟が敵味方に分かれて戦うという例は真田父子(父昌幸、子が信之と幸村)が有名ですが、他にもあったのですね。


その守隆は家康から5万5千石を与えられ、鳥羽藩初代藩主となりますが、寛永10年(1633)に跡目争いが起こり、九鬼家は改易、かわって内藤忠重が入り、二の丸、三の丸などを増築し、三層の天守を設け鳥羽城を近世城郭へと改修しました。

その後は土井氏、大給松平氏、板倉氏、戸田松平氏と目まぐるしく城主が替わり、享保10年(1725)稲垣氏が入ったあとはようやく安定し、幕末まで鳥羽藩の政庁として存続します。

しかし、安政元年(1854)に地震により天守以下の建物が倒壊し、修理を加えないまま明治維新を迎え、廃藩置県後廃城となりました。

昭和に入ると跡地は小学校となり、本丸跡は運動場となっていましたが、現在は小学校は移転し、城跡公園として整備されています。


鳥羽城は海に突き出た標高40mの城山に築かれ、水軍を重視するため、海側に突出した形で大手門が設けられていました。

現在周囲は埋め立てられていますが、当時は三方を海に囲まれた文字通りの「海城」でした。

最盛期には3重の天守をはじめ、13もの櫓が城内に建っていたといいますから、海から眺める鳥羽城は壮観だったことでしょう。陸側は総漆喰の塗り込めの白色で、海側は黒色で仕上げられていたことから、別名・二色城(錦城)と呼ばれました。


三の丸広場

近鉄の線路沿いにあるこの広場は城山公園の玄関口として整備されています。

後方には棚田のような石垣が見えます。岩村城の七段城壁を髣髴とさせますが、これは当時の遺構ではなく、公園として整備されたもの。また、名前は三の丸広場ですが、当時は二の丸御殿があった場所といわれています。

ちなみに線路と国道を挟んだ鳥羽水族館前に大手門がありました。


またこの紋は「左三つ巴紋」とよばれる九鬼家の家紋ですが、嘉隆の息子・守隆の代から使用していたもので、父親の嘉隆の頃の家紋は七曜紋であったと言われています。



太鼓櫓跡の広場

さきほどの城壁階段をのぼっていくと、広場に出ました。

ここが現在城山公園と呼ばれているようですが、本来三の丸のあった場所です。

「TOBA」のモニュメントがある映えスポットです。




さきほどの城壁階段を見下ろします。

手前が御木本真珠島。

向こうに見えるの島が答志島で、九鬼嘉隆の銅塚、首塚があるそうです。


本丸西側の石垣

本丸の石垣は九鬼氏当時のものとみられています。

荒々しい野面積みがいかにも海賊の城と思わせます。


本丸跡

長く鳥羽小学校のグランドとして使われていたため、平坦となっています。


天守跡

天守台などは残されていませんが、発掘調査の結果、本丸のほぼ中央に天守があったとみられています。

また、江戸時代に残された絵図などによって、望楼型の三層天守だったことがわかっています。


本丸御殿跡

平成23年(2011)から発掘調査が行われ、本丸御殿の井戸跡や排水溝などが確認されています。


大井戸跡


本丸から見た鳥羽湾

日本一の飼育種類数を誇る鳥羽水族館が目と鼻の先。

イルカ、アシカショーのアナウンスが聞こえるくらいの距離です。


本丸南の石垣

夏草で見えませんが、石垣の中ほどには水抜き穴が設けられています。


旧鳥羽小学校

この校舎は戦前に建てられたもので、三重県では最初の鉄筋コンクリート造りの校舎だったとか。平成20年(2008)年まで現役で使われていました。

三重県の登録有形文化財に指定されています。


家老屋敷跡

こちらは海側と反対、鳥羽市役所の裏手になります。

城内の家老屋敷があった場所です。土塀は復元のようですが、周囲に野面積済みの石垣が残されています。

ここには平成15年(2003)まで鳥羽幼稚園があったそうです。


城跡を歩いたあとは、鳥羽水族館の人気者

ラッコを見て癒されました。


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