『ゴジラ -1.0』踏み込み感想3(ネタバレ有) | 怪獣玩具に魅せられて

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以前の記事は以下を参照してください。

『ゴジラ -1.0』感想(ネタバレなし) | 怪獣玩具に魅せられて (ameblo.jp)

『ゴジラ ー1.0』踏み込み感想(ネタバレ有)① | 怪獣玩具に魅せられて (ameblo.jp)

『ゴジラ -1.0』踏み込み感想2(ネタバレ有) | 怪獣玩具に魅せられて (ameblo.jp)

 

ここまでは良かったところについて書いてきましたが、次は、「山崎監督……ここは、もう少し何とかならんかったんですかいね」と言いたくなるところについて書きたいと思います。

 

  『ゴジラ -1.0』ネタバレ含感想 どうにかならんかったんかいなと思うところ

①ゴジラをめぐる人間関係

 主人公の敷島に特攻忌避+大戸島でのゴジラ遭遇のトラウマにより戦後も生きる実感を見いだせない男というキャラ付けをしたのは、今回の「ゴジラ」が体現しているものとの関連を強める上で非常に興味深い、という話はしましたが――もちろん、その心意気というか、工夫の気持ちは非常に好意的に汲んでいるんですが、それが作品の中で有機的に呼応しているかというと……ちょっと納得しがたい部分はある。

 端的に言うと、敷居とゴジラの関係性がよく分からないんですよ。

 まず大戸島。特攻忌避という、「負い目」を抱いたまま、敷島が現れた。その夜にゴジラが登場して、筑波海軍航空隊整備部が、橘さんを残して全滅する。そこで敷島は、零銭の20ミリ砲を撃てと言われたけど、撃てずに結果、ゴジラが小隊を全滅させてしまうことになる。翌朝、橘から「みんな死んだぞ! お前が撃たなかったからだ!」と詰られ、本土へ還る船で小隊の写真を渡され、そのことがトラウマとなり、死んだ整備兵たちの姿が亡霊のようにちらついて、生きている実感を得ることができない……というのが、ざっくりした流れになると思うのですが、気になるのは、ここなんですよ。

 敷島が撃たなかったから、みんな死んだのか?

 あのいわゆる呉爾羅、20ミリ砲程度で死ぬとは思えなかったんですけど。

 「お前が撃たなかったから、みんな死んだ」というセリフは、こちら側に少しでも勝算があった場合に言えるセリフだと思うんです。たとえば『シン・ゴジラ』では、蒲田君~品川君段階だと、自衛隊の装備でも倒せたらしいんですよ。蒲田君から品川君に進化した時点で自衛隊が攻撃しようとしたけど、射程内に民間人がいたために攻撃を断念せざるを得なかった。そこで倒すことができていれば、鎌倉さんが東京を蹂躙することもなかったし、被害はもっと小さく済んだはずだった――ってことが、後から分かるようになっている。あの時に攻撃していれば――! いやしかし、自衛隊の弾を民間人に向けるな! っていう時の総理の言葉も非常な重みがあるというか。その時々の決断の難しさが痛感される部分で、僕は『シン・ゴジラ』のこういうところが気に入っているんです。

 ことほど然様に、ゴジラが倒せる可能性があるのに、撃てなかった。しかも今回は十全に撃てる環境下にあったのに、敷島の臆病さのために撃てず、多大な犠牲を払った――という展開になったならば、敷島が精神のバランスを崩すまでの罪悪感を覚えるのも分かります。あるいは単純に、ゴジラに襲われて死にそうになった、という身の危険的なトラウマだというんならそれも分かる。けどさ、どうも、どっちに振り切っている感じでもないんですよ。

 これはパンフレットでも、橘役の青木崇高さんが「責任転嫁」って言っているように、ちょっと橘側のセリフに無理がある。「撃たなかったから死んだ」? 撃っても死んでたと思うよ。まあ時間稼ぎくらいにはなったと思うけど、その場合、敷島が死んでしまうことになる。自分含めた小隊を生かすために、敷島を殺すことを是とするキャラクターなんですかね橘は。

 もちろん、感情的になっての「責任転嫁」ということでもあると思うんですが、なんかここで、「お前のせいでみんな死んだ」って言われても、ちょっと納得し難いというかね……。

 この部分、もっとえげつなくできたと思うんです。敷島も、「お前が撃たなかったから死んだ」って言われて、すぐにグフっってなっちゃ駄目ですよ。一回言い返さないと。「俺が撃っても撃たなくてもあいつを殺せたはずがない」とか「俺に死ねと言うのか」とか。それこそ敷島、橘お互いに限界ギリギリの感情のぶつかり合いをしたら良い。そこで、橘が敷島を罪悪感のどん底に落とし込むよう一言を、言い放てばいいんです。

 特攻隊員だろと。命捨てんのが役目だろと。ここで死のうが同じことだろうと。

 それで敷島が黙り込んでしまうという一幕を入れるだけで、それぞれの考え方や心の断絶が分かりやすくなったはずだし、その後、敷島が本土に戻って安藤サクラに責められる展開が再度の打撃となって、敷島が戦後も罪悪感に苦しむ展開がより呑み込みやすくなると思うんですよね。要は、戦中の価値観で「役立たず」の烙印を押された自分こそが本来先に死ぬべき人間ではなかったのかと思い悩むと。それに対して、典子や周りの人間が、戦中の価値観から彼を引きずり出す意味で、生きることの意味を説くと。そういう構図にした方が分かりやすかったと思うんですけどねぇ。

 序盤だけで、この分量……。まあ、他にも色々と人間関係で腑に落ちないところがあります。例えば安藤サクラの、いきなり良い人になる展開とか、まあ呑み込みにくい。この辺は、全部会話で処理している故の弊害ですね。話としては分かるんですよ? 明子に、自分の死んだ子供を重ねているんだろうなとか。明子の世話を通じて、子どもを失った悲しみや、どこにぶつけようもない怒りに整理をつけていったんだろうなとか。でも、キャラ変が唐突過ぎて伝わらない。海神作戦開始前の、敷島とのやり取りも何か腑に落ちない。ドラマとして、二人の関係の変化が描き切れていないので、これだったら安藤サクラのポジションはもっと縮小しても良かったんじゃないか? 本土に帰って来たばかりの敷島を詰るだけの役で良かった気がします。そして退場しても良かった。明子の世話をするために主人公の人生に介入してくるんなら、二人の関係の変化をもっと丁寧に描かないと。こっちも結局、中途半端なことになってしまっている。

 山崎監督の――っていうか、日本映画の特徴なのかもしれませんが、別にぽっと出でも良い人物を、後半まで引き延ばしたり、あっちこちのカットに入れ込み過ぎなんですよ。世界が狭いように感じられてしまうし、中途半端な人間関係をいつまでも引き摺っているものだから、どうしても突っ込みポイントが増えてくる。別に、全ての人間に決着を付けろなんて言いませんけど――少なくとも序盤で、あんだけ主人公に強く当たっている=いかんせん印象深く感じられる人物として出してきてるんだから、その処理をもっと上手くやれなかったもんかねえと思いました。

 

 

 

②不要なアクション。

 ゴジラが銀座を襲撃するシーン。これは良かったところでも書いたように、本当に怖かった。ゴジラの足元で、瓦礫とともに破壊しつくされていく人たち。今までにないくらいゴジラに近くて、もうゴジラが移動するだけで観てるこっちまで殺されそうな気分になってくる。そしてとどめとばかりに熱線を吐かれて、キノコ雲が上がって、黒い雨まで降って、もう、どうしようもないくらいまで追いつめられる。ここは本当に凄かったと思います。

 だからこそ、この銀座襲撃のシーンは、最後までゴジラの一方的な破壊アクションで終わって欲しかった。

 観た人ならばわかりますが、あのシーンでの、典子の電車ぶら下がりアクションが心底ノイズでした。

 ゴジラに咥えられた電車の中でぶらんぶらんしているシーン。

 これだけで、激しくリアリティが減じられた気がしました。

 ゴジラに近いと言っても、その近いところで人間のフィジカルアクションは要らないと思ったんです。それは、『ゴジラXメガギラス G消滅作戦』で、主人公がゴジラの背中に乗って発信機を打ち込んだシーンのように、荒唐無稽上等な空想科学映画路線の作品にあったら楽しい要素ではないでしょうか。

 戦後の世界で極めて生々しい怪獣被害を描くような作品では、喰い合わせが悪い気がします。そんなものなくったって、ゴジラが大暴れしているシーンだけで十分満足できるのに。

『ゴジラー1.0』は、必要不可欠なアクションと、不要としか思えないアクションの差が際立ちます。たとえば中盤、海上でゴジラから逃げるシーン。ゴジラから必死で逃げながら、ゴジラの口の中に入った機雷に弾をぶち込むアクションがあります。あれは後半の展開のために必要不可欠だし、この作品の中でも屈指の名シーンに数えられると思います。あそこだって、『JAWS』的な既視感はありました。が、それでも心底楽しかったのは、とにかくあのシーンはテンポが良く、スリル満点なのでノイズかどうかなんてことをあまり感じないで楽しむことができたからだと思うんです。逆に、銀座蹂躙の典子のぶら下がりシーンがノイズに感じられてしまったのは、現実離れしたフィジカルを前にして、リアリティも大幅に減じられ、そのシーンだけが浮いて見えるように思えてしまったんですね。

 あとこの銀座襲撃のシーンは、よくよく考えると納得できないところが多い。敷島は、吉岡秀隆が演じる博士? から、ゴジラについての情報を逸早く得られる立場にあったはずなのに、なぜ典子を簡単に銀座に行かせてしまったのか。そして何故、後から追いかけてすぐに再会できたのか。あの人の数、それも大混乱している中に、どうやって典子を探し出したのでしょうか。そもそも交通手段は? あのバイクで行ったの? でも、その後もバイクで移動してましたね。ゴジラが暴れてる銀座にバイクなんかで行ったら、さすがにオシャカになったと思うんですが。

 これもやりようはあったはずで、敷島が典子に再会できないままにゴジラが熱線を吐いて、銀座を瓦礫の山に変えてしまったら良かったんですよ。ぶら下がり電車から海に落ちて、放心の体であるいている典子は良かったので、そのまま、典子が狂気だが正気だか分からない表情で見上げている先で、ゴジラが熱戦を吐いて、凄まじい爆炎に典子の姿が消える――という画で撮れば良かったんです。

 一方の敷島は、典子が銀座にいるということを、人づてに聞いて急いで駆けつける。そして、建物の奥にゴジラの姿を見た瞬間、恐怖で足がすくむ。それでも必死の思いで典子を探しているうち、ついにゴジラが熱戦を吐き、吹っ飛ばされて――辛くも建物の物陰に入り込むことができて難を逃れるが、破壊しつくされた銀座の街を前に、これでは典子が生きている可能性など万に一つもなく、絶望して絶叫したところに黒い雨が降る――という、流れで良かった。つまりここで、典子と再会させないままに片方を「生死不明、だが恐らくは死んでいる」状態で退場させておくことで、ラストの(個人的には大いに不満ですが)、実は生きていた! という展開がまだ呑み込みやすくなると思う。

 この部分に限らずですが、山崎監督は人物が得る情報や伝える情報というものに、「時差」を付けるのが苦手なんじゃないかな、って思うんです。あるいはそれは、僕が山崎作品で一番苦手としている「一緒感」に繋がるのかも知れませんが……その辺を、次に書きたいと思っています。

 

その4に続く。