ちさてさて、ここからは『ゴジラー1.0』についての少しばかり踏み込んだ感想を書いていきます。
ネタバレを含みますので、ご注意ください。
ネタバレなしのざっくり感想は、ここに書いてあります。
『ゴジラ -1.0』感想(ネタバレなし) | 怪獣玩具に魅せられて (ameblo.jp)
『ゴジラ -1.0』ネタバレ含感想 良かったところ
まずは、良かったところから。これが、すっごくたくさんありました。
【物語的な工夫】
①主人公の設定
神木隆之介演じる主人公の敷島は、特攻忌避から大戸島に着陸し、その先でゴジラの襲撃を受けて、迎撃することができずに生き延びる。母国の土を踏んでも隣人の安藤サクラからは「恥知らず」と罵られ、大戸島でのゴジラ遭遇からPTSDを発症して、自分が生きていることを自分で許せない――という、そういう人物設定。
戦後も戦争に囚われ、日常の中に自分の居場所を求められない。まだ「自分の中での戦争は終わっていない」人物というのは、この時代設定の中で非常にリアルに感じました。今回のゴジラは、1954年版同様に「戦争の傷跡」の体現ではあるけれど、1954年版と大きく違うのは「核の恐怖」のみならず、戦争というもっと大きな枠の体現としてゴジラを設定していることにある。実際、1954年版のゴジラも、単なる「核の堕とし仔」という一面だけでなく、東京蹂躙→火の海にするシーンは、東京大空襲を強く印象付けるなど、戦争そのものへの恐怖や記憶が根底にあると思っています。
1954年版は、先の戦争から立ち直り、序盤は殆ど戦争についての言及はない。それが顕著になるのは、ゴジラが東京を蹂躙するシーンではなく、平田昭彦演ずる芹沢博士に関連するシーンです。戦後となり、新たな価値観の中で暮らしている人々と距離を取り、ひとり恐るべき研究に没頭する青年科学者。彼こそ、まだ「戦争が終わっていない」、より厳密に言うと、戦後の新たな価値観や、戦争を忘れようとする考えに迎合できず、その世界の中で生きていけない人物。そして1954年版のゴジラも、そんな戦争から立ち直り、新しい価値観の中で生きて行こうとする人々に、戦争や核の傷跡をまた生々しく見せつけるように日本を襲う。芹沢博士とゴジラは、実は根底の部分でつながっており、だからこそラスト、オキシジェン・デストロイヤーを通じて海底で一つに溶け合う――というラストになるのでしょう。自分が暮らせない世界に戻る尾形に、「幸せに暮らせよ」と告げて。
敷島は芹沢博士のように、戦後の価値観に迎合できない男ではありません。ボロボロになった東京で金を稼ぎ、家を建て直し、仕事仲間も大石典子もおり、戦闘機乗りの経験を活かした職場でも居場所がある。芹沢博士のように世間から遠ざかり、一人で実験に明け暮れるような人物ではない。しかしその内面は、芹沢博士など比較にならないくらい、相当に不安定です。
芹沢博士は、戦後の生き方に迎合はできないけれど常に冷静で、自分の研究が世界に与える影響も、自分の研究が表に出た場合の想定や対処も全部わきまえている。それでも研究せずにはいられない心や、恵美子さんにだけ「見せてあげようか?」と言うところ(あそこだけ少年のようなあどけなさが出る)など、達観した部分と少年のような部分とが内在している、そうしたアンビバレントな心境を併せ持つところに独特の魅力があるキャラクターでしたが、敷島はもっと情動的というか、より分かりやすい。彼は大戸島での経験が尾を引き、生きようと頑張っても「過去の亡霊」が夜な夜な夢枕に立つような、そして終いには自分の居場所どころか命の置きどころさえも見失う。そういう意味で彼の戦争は「終わっていない」。
この人物の描き込みは、芹沢博士のような深みはない。良くも悪くも、分かりやすいし、情動的というのは、いかにも山崎貴作品のキャラクターっぽいんですが、今回のゴジラが、より大きな「戦争への記憶」として機能しているので、真に迫って感じるものがありました。特攻による死を恐れた先に「逃げた」大戸島でゴジラの襲撃を受け、そこでも自分だけは助かってしまった。本当は、あの島で死ぬはずだったんじゃないか。いや既に、死んでいるんじゃないか――っていうのは、ゴジラが登場した瞬間に背景になってしまいがちな人間サイドの物語や描き込みの中では、何というか、納得の余地は多いように思います。まあ、大戸島での出来事が、敷島にとってそのまま「戦争の記憶」とイコールになるかどうかについては、ちょっと嚥下しにくいものがあるのですが、物語の特に序盤は基本的に敷島の主観を基に話が進んでいくので、冒頭から主人公の物語に引き込まれるというか。主演の神木隆之介さんの演技テンションで、持って行かれるところも正直あって。
作り手としては、この敷島の「戦争の記憶に憑りつかれて今を生きることができない」というところに、戦争が終わったとしても抱えこむ羽目になる苦しみみたいなもの、「戦争」が齎す悲劇のありようを伝えたいという意図があったと思うのですが、この部分は、この『ゴジラ -1.0』で表現できているかは別の話として、『ゴジラ』という怪獣映画の中で、こうしたものを入れてくるアイデアは、成程さすが面白いって思いました。そして、その「亡霊」の体現たるゴジラからどのように解き放たれるかについては、『ゴジラ -1.0』という作品単体で答えを提示してしまうには勿体ないほど、幾千ものアイデアを比較検討して答えを探し出していくべきテーマだと思います。
長々と書きましたが、とにかく主人公である敷島の物語として、僕は中盤まで、非常に面白く観ることができました。
②ゴジラの「怖さ」とどうやって向き合うか。
ゴジラシリーズの中でも、僕が特に注目しているのはここです。
その点において、僕は平成のVSシリーズに不満があり、中途半端にゴジラと心を通わせる枠を設定したものだから、ゴジラが怖くない。脅威として映らない。特に『スペースゴジラ』のストーリーは酷かった。「ゴジラを手に入れたものが勝者となる(ドヤ顔)」「ゴジラは、誰のものでもないわ(キリッ)」ーーいやいやゴジラって、一個人の掌中に収めるにはあまりにでかい存在だと思うんですけど。
唯一許せるのは『VSキングギドラ』で、あれは徹頭徹尾ゴジラを脅威として描いた上で、土屋嘉男による、ゴジラとの心の繋がりとその終焉を描いていた。この話でもゴジラを利用しようとする未来人が出てきましたが、あれはゴジラを操ってーーとかではなく、最終的にゴジラに暴れてもらって日本壊滅させよう、なので納得感がある。だから僕はVSシリーズではキングギドラが一番好きなんです。
ミレニアムシリーズは、最初の『2000』は人間ドラマが陳腐すぎる。しかし次回作の『G消滅作戦』以降は、ゴジラが明確な脅威、乗り越えるべき壁として設定された。特に『G消滅作戦』『Xメカゴジラ』に見る手塚監督ゴジラ映画は、ゴジラ打倒に執念を燃やす人物の視点から物語が描かれているわけで、今回の『-1.0』と共通するところもある。ミレニアムシリーズのそういうもころは、結構好きなんです。
そして今回のゴジラですが、徹頭徹尾「怖い」。害悪、悪意の塊みたいなゴジラです。そのゴジラとどう向き合うかには、非常に注目しました。
結論なんですが、
主人公の敷島とゴジラの関係は、この後の「モヤっと回」で話すように、しっくりきたものではなかったです。
しかし、別の登場人物とゴジラの向き合い方に、けっこう「おおっ」と思ってしまいました。それが、吉岡秀隆演じる、あの博士です。
演技テンションはいかにも山崎監督テイストなオーバーアクトでキツいところもありましたし、この人が出張れば出張るほど陳腐というか、急に世界が狭くなったような感じを覚えるというか、現実味がなくなるというかだったんですが、最後の「海神作戦」実行中に、この人が言ったことの裏付けが、凄い良いと思ったんですね。
作戦中、海に誘導したゴジラに対して最初にすることは、船を一艘犠牲にして熱線を吐かせることでした。なぜなら、ゴジラは一度熱線を吐くと、しばらくは吐けなくなるから。
これ、映画館で見てた時は、「シンゴジラと同じやんけ。しかもちゃんとした説明もなく」と不満に思ってたんです。54年版のゴジラでは、ばんばか吐いてましたからね。熱線を吐いた後に再チャージまでに時間がかかるゴジラって、シンゴジラ以降の新しいキャラ付け。それを踏襲するのはちょっとなぁって思ったんです。
その見方を反省したのは、パンフレットで他ならぬ、吉岡さん直々のコメントを読んだ時です。自分が演じたキャラクターとゴジラの関係について、吉岡さん、こう仰ってます。
ゴジラが放射熱線を吐く場面で最初、僕は驚く顔をしていましたが監督に「野田には、ちょっと笑ってほしい」と言われて(中略)。ただ驚くのではなく、どこか冷静に状況を見ているからこそ、ゴジラが放射熱線を続けて吐けないことに気づくと思うんです。
あ、そういうことなんだって、すごく腑に落ちたんですね。
そうか、あの状況下において、あの博士だけは怖がることなく(いや、怖さもあったろうけど)見てたんだ。分析してたんだ。
登場人物も観客も揃って悲鳴を上げそうだった海上の追いかけっこのシーンで、彼だけは状況を見ていることができるキャラだったこそ、「ゴジラは熱線を連続して吐けない」ということに気づけたんだって。そういう、作中理論に基づいて説明できることだったんだって分かって、おおってなったんです。
ここは、これくらいの「分からなさ」で良かった気がします。ゴジラが高雄を襲う様子や銀座蹂躙の光景を見て、「ゴジラは一度熱線を吐くと再度吐けるまでに時間がかかる」みたいなことを説明台詞でやりそうなもんだけど、そうなると著しくテンポが悪くなる。作中の人物が気づいたことや思ったことをリアルタイムで言葉で表現しがちな山崎監督の作家性の中で、この部分は異彩を放って非常に興味深く感じました。
そしてこれが効果的に働くための要素が、「ゴジラの近さ」だったと思うんです。
今回のゴジラはフルCGですが、CGの利点として監督は「距離の近さ」を上げています。着ぐるみの怪獣との合成だったらどうしたって違和感のある距離でも、CGだと違和感がない。そしてその近さが「怖さ」と「没入感」に繋がり、そしてゴジラに襲われているシーンでは観客から「冷静さ」を奪う。事実僕は、少なくとも海の上での追いかけっこは先読み志向を止めて映像に見入るくらいに引き込まれていました。その時に、吉岡秀隆さんがどんな顔をしていたかはまるで覚えていません。覚えていませんが――きっと二回目に観た時は納得できるようになっているのでしょう。迫りくるゴジラに畏怖の念を抱き、いかにしてこの窮地を乗り切るかに腐心している多くの人物と同じ心境になれる没入感=ゴジラとの近さがあるからこそ、一人冷静に状況を見ていたキャラクターとしての存在意義が光るようになっている。「ゴジラを前にどう立ち向かうか」を、人物レベルで描き分けしようとしている。今回のような「ゴジラへの対峙の仕方」が個人的には好みだし、それを上手く機能させるためのビジュアル的、映像技術的な「ゴジラの近さ」など、きちんとした戦略があるように感じられて、そこは凄く良いなと感じた次第です。