浦東というのは上海市を東西に分ける黄浦江の東側という意味である。本稿は上海の浦東新区の成立過程を書いてゆくものであるため、黄浦江の西側にあたる浦西について詳しく書くことはしない。また、話の中心は1980年代の浦東である。それ以前の浦東についても詳しくは触れない。ただ、上海市全体のことについては、その歴史を簡単に記しておく。また、その中で浦西と浦東がどのように発展してきたかについて、ごく簡単に触れておくことにする。
上海は現在は中国最大の都市であり、経済の中心でもある。世界的にいっても有数の巨大都市である。しかし、中国の歴史全体からみれば、比較的最近になってから発展した都市である。古くから、中国の政治・文化の中心は北にあった。長安、開封、洛陽などの古都は長江より北にある。長江以南は宋代以降にようやく開発が進んだ。とはいえ、その江南の中心にあったのは南宋の都であった臨安(現在の杭州)であり、大運河沿いの町として栄えた蘇州であり、南京であった。上海は宋代にはまだ地方の一都市に過ぎなかった。
町としての上海は南宋の時代に上海鎮として生まれた。この鎮は黄浦江の西側、現在旧市街と呼ばれているあたりにあった。1292年には上海県になる。明代に周囲に城壁が築かれ、県城としての体裁を備えた。この県城の城壁の名残が、現在も旧市街に残っている。明代に作られた庭園である豫園も旧市街の中にある。
以下に地図を示しておく。
なお、地図はおおよその位置を示すために筆者が作ったものであり、正確なものではない。
このころの上海県は江南省と呼ばれる広い地域に属する県であった。この江南省が1667年に安徽省と江蘇省という二つの省に分かれた。上海県は江蘇省に属する県となった。しかし、江蘇省の中でも上海は中心的な県ではなかった。「江蘇省」という名前は、江寧(現在の南京)の「江」と蘇州の「蘇」から付けられた名前である。つまりこの頃この地域で栄えていたのは上海ではなく南京と蘇州であったことが、この省の名前からもわかる。上海も綿織物や陶器、塩の交易などで栄えてはいたが、省の名前につけられるほどではなかったのである。
一方、浦東という名前は、かなり昔から使われていたようである。1404年に浦東、浦西の名前が見られるという。しかし、現在の浦東新区のあるあたりは、清代以降、北は川沙の名で呼ばれ、南の方は南滙と呼ばれた。ただ、名称や区分けは何度も変更になり、昆山県に入ったり、嘉定県の範囲に入ったりしている。川沙には古い町並みが残っているのでそれなりに栄えてはいたようだが、この時点では県にはなっていない。清代には川沙撫民庁が設けられた。川沙は基本的には農村であった。
さらに、川沙の南は南滙と呼ばれていた。県に昇格したのは1726年であった。ここも川沙と同様、江蘇省に属した農村であった。
さて、この上海県が大きく発展するきっかけとなったのはアヘン戦争の結果1842年に結ばれた南京条約である。南京条約で上海は欧米列強の要求により開港を強いられることになる。そして、1845年に「土地章程」と呼ばれる協定によりイギリス租界が設けられた。租界の「租」は借りる、「界」は区域の意味であるから、租界はイギリスが中国(清朝)から土地を借りるという意味合いである。イギリス居住区などと呼ばれることもあるが、イギリスが強制的に借り上げた土地といったところであろ。イギリス租界が設けられたのは、県城の北、黄浦江の西側であった。現在、外灘(バンドと呼ばれる)から南京路、人民広場へ到る繁華街を中心とする地区が中心となっていた。その後1948年にはフランス租界、続いてアメリカ租界が設けられた。フランス租界は県城の北側のイギリス租界との間から県城の西側に向けての地区である。現在の准海路周辺である。アメリカ租界はその後1863年にイギリス租界と合併され共同租界となった。租界はその後それぞれ拡張された。共同租界は西側と北側に拡張され、北側は黄浦江が東に大きく湾曲する部分の北にまで広がっていたが、それでも黄浦江の西対岸には及んでいなかった。フランス租界は西へ向かって広がっていった。
この租界に多くの外国人が移り住み、外国の物資が大量に流れ込んだ。道路や埠頭が整備され、多くの西洋風の建築物が建てられた。租界は外国人の居住地であり、イギリス人が最も多かった。日本人やポルトガル人も多く住んでおり、アメリカ人よりも多かった。しかし外国人だけでなく、そこに多くの中国人も流れ込んだ。1851年に結成され全国に広がった太平天国をめぐる混乱により、難民化した人々が多く上海の租界に流れ込んだのである。1854年の第二次土地章程では中国人の租界の居住が事実上認められ、1855年には中国人の定住も認められた。これにより租界内に住む中国人は一気に増加する。人口の増加に伴い、租界は徐々に拡張されたが、それは主に西へ向かって広がっていった。やはり浦東には広がっていかなかった。
この頃の浦東も、黄浦江沿いに若干の港湾設備が作られたのみであった。(村松伸「図説上海 モダン都市の150年」河出書房新社、1998、p64に地図が載せられている)浦東のそれ以外の地域は開発はされず、東側には農村が広がっていた。その後、1912年に川沙は県に昇格した。人口が増え、生産活動も盛んになったということだろうか。