ベストセラーだというので読んだが、まず方法論に基本的な欠陥があると思う。
この本は、日本の戦後史を読み解くには、「対米追随」路線と「自主」路線という切り口が最善であるという仮説に基づいている。
確かに、日米関係は、両国にとっても、また今や世界にとっても、重要な要素だ。しかし、 対米政策は、米国をどう認識するかだけで決まるものではない。政策を決断したそれぞれの時点で、日米関係以外の国内事情、国際事情もしばしば重要な要因となる。しかし、著者は、路線論を強調しようとするあまり、それらの諸要因を理由も示さずに切り捨てている。
また、対米追随路線や自主路線自体も、極めて曖昧な用語である。「対米追随」と「日米協調や相互協力」とをどう区別するのか等も不分明だ。しかも、多くの場合、「路線」なるものは、結果であって、原因ではないし、イデオロギーでもなかろう。その「路線」を情勢分析・評価の尺度にする以上は、明確な定義が必要だが、それは、本書には与えられていない。
一方、方法論はさておき、内容を見ると、その曖昧な「路線」論に基づいて、他の重要な諸要因には目をつぶり、都合の良い事象だけを安易につなげて、あたかも善玉、悪玉論かのように、各首相がいずれの路線派と見なすかを断じている。これは、フェアではあるまい。
例えば、対米追随の筆頭にあげられた吉田茂の「追随」路線に関する分析は、その典型だと思う。追随の根拠として、同書は、「激動の百年史」から鈴木貫太郎の「まな板の鯉」論(46頁)を引用している。しかし、その引用文につづいて、「言うべきことは言う」(「激動の百年史」96頁)と書いてあるのだが、それを省略している。勿論、敗戦国として、吉田のみならず、日本側が米国の要求で皆苦渋したことは間違いない。
「自主」路線も同様だ。その先鋒たる重光については、12年内の米軍撤退提案を取り上げている。現在でさえ日本単独では安全を確保し難いのに、当時は、それ以上の国際環境だったし、現在でも英仏でさえ米軍が駐留しているように、重光案は、非現実的な案であった。そのことを無視して、「自主」路線と奉るのは笑止ではなかろうか。
さらに付け加えれば、米国政府は、日本もふくめ多くの諸国と同様、常に一枚岩というわけではない。対立する政策のいずれをとるか、或いは折衷案を作るかは、国益の総合判断から決めるものだ。その点、例えば、本書は、占領軍のG2対GSの内部対立に言及して、G2派が追随派の吉田茂、GS派が自主路線派の芦田均となっている(78頁) が、これは、自己矛盾で、ここで「路線」論は破綻している。
また、昭和天皇の沖縄駐留米軍に関する伝言(167頁)についても、「象徴」に反すると断じているが、著者は、天皇制に否定的意見の持ち主なのだろうか。わざわざ陛下を持ち出す必然性がない。昭和天皇は、立憲君主として、御身を律しておられた方であり、よほどのことがない限り、ご意見を控えられたことはよく知られている。陛下の御伝言の真意を明らかにしないまま、短文を引用して、突如象徴論から断定するというのは軽率ではないかと思う。
また、尖閣については、著者は、中国寄りの立場で、かつ尖閣棚上げ論者でもあるが、中国側が、棚上げと言いながら、近辺で天然ガスの開発を進め、或いは海軍や公船による示威行為等の挑発を先導してきた事実には目をつぶっているように見えるのも、釈然としない。
戦後の言語を絶する混乱と飢餓と虚脱感から立ち上がり、自由圏で第2の経済大国になった頃(1968年)、さらにはニクソンショックの頃(1971年)までは、極めて無力で脆弱な敗戦国として苦難の連続だった。 今以上に外圧への対応は厳しかった。
その間も、またその後も現在の世界貿易機関の設立(1995年)までは、通商上の対日差別撤廃が大きな課題だった。
1970年代以降は、中国の台頭に加え、エネルギー・環境問題、所謂円高問題が大きく浮上した。
これらの諸課題は、必ずしも「対米追随」路線か「自主」路線かという二者択一の問題ではない。
だからといって、この著書がまったく価値がないと言うつもりもない。
専門家にとっては、目新しい資料はあまりないが、国際情勢や外交史に詳しくない読者にとっては、いろいろ考える材料を提供してくれている。特に、一面的ではあるが、米国からの圧力が具体的な資料で提供されている。
また、一般の読者は、領土保全については、他国に頼ることには大いに限界があり、日本自身が真剣に考え、対処すべき課題であることをあらためて悟ったことであろう。
その意味で、敢えて点数をつければ50点とした。
勿論、政府のみならず、日本の各界には、言うべきことも言わず、対米追随や対中追随に専念する輩は多い。そうでなくても、口下手で、遠慮しすぎになりがちな日本の国民性だ。しかし、外国からナショナリズムに火をつけられて、日本人は、昔ほどおとなしくはない。特に若い世代は、プレゼンやディベートやユーモアに長けている。相手が米国であれ、中国であれ、これからは、もっとましな日本外交となると期待している。
この本は、日本の戦後史を読み解くには、「対米追随」路線と「自主」路線という切り口が最善であるという仮説に基づいている。
確かに、日米関係は、両国にとっても、また今や世界にとっても、重要な要素だ。しかし、 対米政策は、米国をどう認識するかだけで決まるものではない。政策を決断したそれぞれの時点で、日米関係以外の国内事情、国際事情もしばしば重要な要因となる。しかし、著者は、路線論を強調しようとするあまり、それらの諸要因を理由も示さずに切り捨てている。
また、対米追随路線や自主路線自体も、極めて曖昧な用語である。「対米追随」と「日米協調や相互協力」とをどう区別するのか等も不分明だ。しかも、多くの場合、「路線」なるものは、結果であって、原因ではないし、イデオロギーでもなかろう。その「路線」を情勢分析・評価の尺度にする以上は、明確な定義が必要だが、それは、本書には与えられていない。
一方、方法論はさておき、内容を見ると、その曖昧な「路線」論に基づいて、他の重要な諸要因には目をつぶり、都合の良い事象だけを安易につなげて、あたかも善玉、悪玉論かのように、各首相がいずれの路線派と見なすかを断じている。これは、フェアではあるまい。
例えば、対米追随の筆頭にあげられた吉田茂の「追随」路線に関する分析は、その典型だと思う。追随の根拠として、同書は、「激動の百年史」から鈴木貫太郎の「まな板の鯉」論(46頁)を引用している。しかし、その引用文につづいて、「言うべきことは言う」(「激動の百年史」96頁)と書いてあるのだが、それを省略している。勿論、敗戦国として、吉田のみならず、日本側が米国の要求で皆苦渋したことは間違いない。
「自主」路線も同様だ。その先鋒たる重光については、12年内の米軍撤退提案を取り上げている。現在でさえ日本単独では安全を確保し難いのに、当時は、それ以上の国際環境だったし、現在でも英仏でさえ米軍が駐留しているように、重光案は、非現実的な案であった。そのことを無視して、「自主」路線と奉るのは笑止ではなかろうか。
さらに付け加えれば、米国政府は、日本もふくめ多くの諸国と同様、常に一枚岩というわけではない。対立する政策のいずれをとるか、或いは折衷案を作るかは、国益の総合判断から決めるものだ。その点、例えば、本書は、占領軍のG2対GSの内部対立に言及して、G2派が追随派の吉田茂、GS派が自主路線派の芦田均となっている(78頁) が、これは、自己矛盾で、ここで「路線」論は破綻している。
また、昭和天皇の沖縄駐留米軍に関する伝言(167頁)についても、「象徴」に反すると断じているが、著者は、天皇制に否定的意見の持ち主なのだろうか。わざわざ陛下を持ち出す必然性がない。昭和天皇は、立憲君主として、御身を律しておられた方であり、よほどのことがない限り、ご意見を控えられたことはよく知られている。陛下の御伝言の真意を明らかにしないまま、短文を引用して、突如象徴論から断定するというのは軽率ではないかと思う。
また、尖閣については、著者は、中国寄りの立場で、かつ尖閣棚上げ論者でもあるが、中国側が、棚上げと言いながら、近辺で天然ガスの開発を進め、或いは海軍や公船による示威行為等の挑発を先導してきた事実には目をつぶっているように見えるのも、釈然としない。
戦後の言語を絶する混乱と飢餓と虚脱感から立ち上がり、自由圏で第2の経済大国になった頃(1968年)、さらにはニクソンショックの頃(1971年)までは、極めて無力で脆弱な敗戦国として苦難の連続だった。 今以上に外圧への対応は厳しかった。
その間も、またその後も現在の世界貿易機関の設立(1995年)までは、通商上の対日差別撤廃が大きな課題だった。
1970年代以降は、中国の台頭に加え、エネルギー・環境問題、所謂円高問題が大きく浮上した。
これらの諸課題は、必ずしも「対米追随」路線か「自主」路線かという二者択一の問題ではない。
だからといって、この著書がまったく価値がないと言うつもりもない。
専門家にとっては、目新しい資料はあまりないが、国際情勢や外交史に詳しくない読者にとっては、いろいろ考える材料を提供してくれている。特に、一面的ではあるが、米国からの圧力が具体的な資料で提供されている。
また、一般の読者は、領土保全については、他国に頼ることには大いに限界があり、日本自身が真剣に考え、対処すべき課題であることをあらためて悟ったことであろう。
その意味で、敢えて点数をつければ50点とした。
勿論、政府のみならず、日本の各界には、言うべきことも言わず、対米追随や対中追随に専念する輩は多い。そうでなくても、口下手で、遠慮しすぎになりがちな日本の国民性だ。しかし、外国からナショナリズムに火をつけられて、日本人は、昔ほどおとなしくはない。特に若い世代は、プレゼンやディベートやユーモアに長けている。相手が米国であれ、中国であれ、これからは、もっとましな日本外交となると期待している。