新型コロナウイルス(以下,COVID-19)により,国内外でさまざまな「非日常」が繰り返されています。その拠りどころとなる言説は,素人は言わずもがな,専門家でも見解が分かれているように見えます。本稿では,そのさまざまな言説の優劣を判断するものではありません。むしろ,そこで生じている「事実認定」に関するズレを,法律家の立場から見ようとするものです。

 

我々法律家が「事実認定」をするときは,客観的証拠を中心として「動かしがたい事実」を確定することから始めます。例えば,刃物による殺人事件の場合,当該刃物に付着している血液や指紋を特定し,あるいは刃物の刃の形状と刺創痕との合致などが確認されていくわけです。そして,血液・刺創痕の合致などが認められてようやく当該刃物が凶器であるとされ,そこに付着している指紋は犯人のものであると強く疑わせるのです。このように,反論が困難な事実を中心に据えた上で,その上で「推論」を重ねていきます。

 

さて,今市井に現れているCOVID-19にまつわる言説は,一見すると対立しているように見えるものがあります。しかし,それは本当に「対立」しているのかはよく検討する必要があります。専門家の言説であれば,(通常の場合)動かしがたい部分での事実認識があるとは思われませんから,対立しているように見えるのは,「推論」の部分である可能性が高いといえます。実は,推論の基礎となっている推論上の事実はなお一致している場合は少なくありません。裏返せば,対立しているように見える見解を両方並べることで,「なお対立していない」部分を読み込むことが必要だといえるのです。また,専門家の言葉を容易に「簡略化」・「断定化」しないことも必要です。つまり,「可能性がある」というものを「そうである」と読み替えるのは,誤読であり,「なお対立していない(=動かしがたい)部分」を見失わせてしまいます。

 

しかし,言うは易し,行うは難し,です。なぜ言うは易し~になってしまうのかというと,「当事者意識」と「好悪」を含んでしまっているからです。専門家の言説はあくまで理論を基礎としています。つまり,Aさん,Bさんという個別化は行われていません。だから,致死率3%となれば,「感染者(患者)100人のうち3人くらい死亡するかもしれない」という視線になります。しかし,市井の人々はそのように受け止めきれないかもしれません。なぜなら,その「3人」に自分が入るかもしれないからです。つまり,専門家と市井の人は「当事者」としての目線が別の領域に存在しているのです。専門家は「治療者・防疫者」の当事者であるのに対して,市井の人は「感染者・患者」の当事者としての目線なのです

そうすると,市井の人では,不安になりやすい人ほど,より不安になりやすい言説を信じがちになるということもいえそうです。不安になるというのは,ある種の防御反応です。したがって,安心を得ようとして,より危険な状況を想定しようとします。その危険な状況を克服すれば,「絶対の安心」を得られるからです。ですが,不安になりやすい言説に触れ,かつ「絶対の安全策」が与えられないことが分かれば,さらに自分に都合のいい「不安になりやすい言説」を探し回ることになるというスパイラルに落ちます。つまり,「現状把握のための事実認定」ではなく,「安心(=実は不安)のための事実認定」をしているといえるのです。


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民主主義は決して完璧な政治制度とは言えません。それは,これまで歴史が証明してきたところであり,現在進行形で(わが国も)証明しているところです。しかしながら,わが国を含む多くの国家や共同体は民主主義を採用しています。それは,民主主義以外のあらゆる政体(レジーム)もまた失敗し,それら過去の政体のあらゆるものの中で最もマシだと考えられているからです。

 

もっとも,民主主義が理想的に機能するためには,いくつかの前提が必要です。まず,個人が独立・自立していること,つまり集団的な圧力から自由であること(主体的前提)。そして,政治的な判断に必要な素養を持ち,かつ政治的判断に必要な情報が十分に開示されていること(判断上の前提)。加えて,他者を尊重に値する個人だと認識していること(政治参加主体の平等性)などが挙げられるでしょう。

実は,日本人は,他国の人々に比べて他者を信頼していないというデータが存在します(例えば,総務省『ICTによるインクルージョンの実現に関する調査研究報告書』(2018年)58ページ)。そのような気質がどのようなところに由来するものかというのは,私の手に負えるところではありませんが,このことはわが国の政治状況を考える上でも決して無視できるものではありません。多数派の権力への妥協というのは,いわば当該の多数派が(極端な)無茶をしないことが前提にあります。それは,共同体内部での意見のぶつかり合いをしてなお,それが「有意義なもの」という前提を共有している(はずだ)からです。しかし,現在の日本人のほとんどは,そもそも他者を信頼していません。つまり,いつも他者からの加害や抜け駆けに怯えているのです。したがって,そもそも他者の判断を信用し得ない。

 

しかし,現実の状況を見てみると,このことが逆説的に働いているように見えるのです。つまり,信頼できないからこそ,多数派になりたがると。「弱い犬はよく吠える」というのはよく聞きますが,それは,吠えることで自らを強く見せようとする防衛行動です。同様に,他者を信頼できない弱い存在は,「武器」を持ち,自らを強く見せねば他者からの侵害に耐えられません。数は最も強い力の1つです。王政だって民衆が一丸になって立ち上がれば倒すことができました。他者を信頼できない非力な人々は「多数派」であることで(ある種の暴)力を得,自らの身を守ろうとしているのだと理解できるのです。

 

日本人が長いものに巻かれる気質だというのは,実は他者を信頼していないということと無関係ではないと思われます。同時に,個が十分に自立していないということも。このことは,自立した個人を前提とする民主主義にとっては致命的な欠点の1つなのかもしれません。


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我々は,これまで「人は真実と論理の前には納得せざるを得ない,ひれ伏さざるにはいられない」ということを前提に教育を受け,そして生活してきたはずです。しかし,このことは,少なくとも私の幻想だったのではないかと思われてきました。

 

中世ヨーロッパでは「この世は神の創り給うた世界であり,人(ないしは地球)を中心にして創られた。だから太陽は地球の周りを回っている」と理解されていたところ,コペルニクスやガリレオの「計算」と「観察」によって,本当は地球が太陽の周りを回っているのだということがわかったと,我々は教わるのです。これは(学術的な担保を持った)事実と理論が(教条的な)思い込みに勝ることを学ぶストーリーとして用いられます。

もちろん,このことすら,一朝一夕に出来上がったわけではありません。事実,ガリレオは異端審問を受け,有罪判決により軟禁状態に置かれました。つまり,地動説が正しかったことの証明は,その後の研究者によりなされたのです。それまでは,真実は地動であったとしても,人々は(ある種頑なに)天動という教条を守ってきたのです。

 

こう考えてくると,少なくとも短期的な視点では,事実も論理も人を動かす力を持っていません。事実や論理は時間をかけて「社会」を動かすにすぎないのです。

しかも,現在は「オルタナ・ファクト(alternative fact:また別の事実)」の時代とも言われ始めています。つまり,「事実」の持つ感銘力が小さくなっているのです。ひとつには,科学技術の発展の副作用という面もあるのでしょう。写真や動画を思い浮かべるだけでもわかるように,あらゆるものが「捏造」できてしまう時代であり,1つの事実の真実性を検証するのにも,膨大な時間や資源が必要になってきてしまいました。つまり,短期的な真実発見が困難になってしまい,「それは真実ではない(かもしれない)」という抗弁を簡単に許すようになってきているように見えるのです。

 

そうすると,「納得」や「説得(力)」というのは,もはや論理や事実ではなし得ないという,最近の実感に重なってきます。そこにあるのは,当事者の世界観との合致や,趣味嗜好,好悪や価値観といった,非常に主観的で不安定かつ多様なものに多元的に依拠しているということです。論理や事実を真に納得や説得力の根拠としている人のみが論理や事実のみを大事にするのであり,それよりも自らの世界観や価値観,好悪のようなものを重視している人にとってはなお,事実も論理もクリティカルなものとしては役立たず,ただ世間での無視できない数の人たちが「事実(ソース)」などを要求しているという部分を真似て,都合よく(つまみ食い的に)それらを利用しているにすぎないというのが実態であるように見えます。


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私が見聞きしてきた範囲に限定されはしますが,日本人は,「ズルい」という言葉は使っても,「不公正」ないしは「不公平」という言葉はあまり使わないように見えます。ここにある差異が,単に発話される際の音の数の問題であるのならば問題はないように思われますが,そうなのかという検討は必要なように思われます。

 

「ズルい」という言葉が発せられるとき,多くの場合にそこに嫉妬などが認められるように思われます。もちろん,このことは「不公正」であることと必ずしも差を生み出すわけではありません。「これは不公正だ」と感じる前提に,「あいつの方が得しやがって」という感情が先立つことは十分にあり得るでしょう。したがって,ここは決め手にできません。

しかし,語感の問題として,「不公正」というときには,そこで

は「公正」つまり“fair”が問題とされている以上,それは「正義」の問題でもあるといえるでしょう。つまり,その「ズルさ」が「正義」にも適っていない場合と整理することができるのです。

 

そうだとすれば,(とりわけ今の日本人にとっては)「不公正」であるという表明は非常にハードルの高いものになってしまいます。いうまでもなく「正義」の表明を前提としているからです。とりわけ,俗流の「正義」概念が流布している以上,「正義感を押し付けるな」のような的外れの非難を受けざるを得ない場合もあるでしょう。そうなると,曖昧模糊とした「ズルい」という言葉に逃げざるを得なくなる。ですが,「ズルい」という言葉は,より「自分が不利益を被っている」という嫉妬や被害感情が表に出た言葉であり,「不公正」や「不公平」といった,事態の理解とそれに対する規範的な検討を含んでいないように見えてしまいます。どうも座りが悪いのです。

 

我々法律家にとっては,「ズルい」のかではなく,「不公正」ないし「不公平」ではないかこそが命脈です。仮に元が「ズルい」から発していたとしても,それが「不公正」ないし「不公平」ではないかの検討が必要なのです。それで,「不公正」ないし「不公平」といえるだけの内実を備えていなければ,それはやはりただの嫉妬や自らの地位に対する不満以上のものではないでしょう。だからといって,「ズルい」という言葉が直ちにそれのみを指すというわけではないところがまた難儀なところです。


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最近はまとまった時間を取るのが難しくなってきたこともあり,例年律義にやってきた年末年始の挨拶も飛ばしてしまいました。

まぁ,私のブログは,一部では(試験前の)あんちょこであったり,あるいは自説を補強するための法律家の一見解として,つまみ食い的に利用されているみたいなのでそれでもいいのかもしれません。

 

さて,年末年始,近年稀にみるほど国内外の情勢が大きく動いています。世界的な関心といえば,イラク・アメリカ情勢でしょうか。国内的には,元日産会長のゴーン氏のレバノン逃走劇であったり,いずれも法とは切っても切り離せない話ばかりです。ですが,これらについて何事かを語ろうとすることは,私の手には余ってしまいます。一方には自己の無知故に的外れになる可能性が高く,あるいは現在進行形で事象が動いており,いつ状況が大きく変化してもおかしくないという事情もあります。他方で,とりわけゴーン氏の逃走劇については,私は極間接的であれ業界内部の人間です。無粋な擁護を並べかねない。やはり成り行きを見守るしかないように思われます。

 

社会あるところ法あり(Ubi societas, ibi ius.)と言われるように,人として生れ落ち,人間社会の中で「人間」として生きていく以上は,法との関係は断ち切れません。言い換えれば,この社会で起きていることの多くは法の問題だともいえます(法の問題にならないものも多くありますが)。日本人は,「法」といったとき,規制や制裁(刑罰)をイメージしがちです。その来歴をここでお話しする余裕はありませんが,そこからは自律的な人間像ではなく,自己中心的である種動物的な人間像を描いているということが見て取ることができます。確かに,そのような規制や制裁が必要な場面というのは,そういった人間像が実現したときであることは確かです。ですが,同時に,革命が圧政から逃れるために行われてきたという歴史的事実に照らすとき,力の行使それ自体が「非人間的」であるということまでは含意しません。

 

年始早々新宿駅で公衆の面前での自殺行為があったそうです。人々はこれにスマホを向け続けていた,と。これについてのコメントは,過去の拙稿(例えば「中井英夫『虚無への供物』を読む」)を見てもらえばもはや不要でしょう。ひとつ言うのであれば,当の自殺行為者が「なぜそういう場所を選んだのか」という(意図せざるかもしれない)効果は十分に可視化されたといわざるを得ません。

 

法は非人間的になろうとする人たちに(自律的な)人間であることを強制します。しかし,幾度も法は非人間的な人間に敗北し続け,そしてなおそのような非人間的な人間と対決し続けています。法が完全な勝利を収めるときというのは来ないのかもしれないのに。我々は今日も不安定な吊り橋の上に立っているのです。


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