本稿の内容は、ある意味では、自戒を込めたものでもあります。
政治家なりタレントなり(以下、政治家等といいます)がする「失言」や「厳しい物言い」、あるいは「正論」などいったもの(以下、「強い物言い」といいます)は、必ずしも「失言」などではないように見えます。政治家にとってその発言は、やはり、基本的には「有権者」を向いているものと見るべきでしょう。そうだとすれば、やはりそのような発言を好意的に受け止める人たちがいるということを意味しているように思われます。
強い物言いが好まれるように見えているということが何を示しているのかが問題です。このことは、一時期とみに見られた「スカッとする話」の類でも同じです。端的にいえば、人々の「加害欲求の充足」であろうと思われます。何らかの理由で他者に加害をしたいけれど、現実に存在するさまざまな理由(中には、それが法であるということもあるでしょう)により、その欲求が満たされないときに、それを他者に「代理」させているというわけです。つまり、政治家等が、人々の「加害欲求」を代理して、加害じみたことを行っているというわけです。その意味で、当該の政治家等は、きちんと「理性的判断として」強い物言いをしていると理解できるのです。
この構造は、「飲み込み」の契機を有しています。当該の政治家等は、人々の支持を背景にして「強い物言い」ができているのだとすれば、当該の政治家等が「自分の意思で」加害したいと考えたときにさえ、「人々の支持がある」ということを根拠として、(濫用的に)「強い物言い」ができてしまうということでもあるのです。言い換えれば、政治家等に、「人々の支持」が利用されることがあるのです。
しかし、いざ「あなたたちには加害欲求があり、それを他人に肩代わりさせている」といわれて、「そうだ」と肯定できる人は多くはないのではないでしょうか。「加害をしたい」というその要求は、現代社会においては忌むべきものと考えられているために、これを肯定すると、自身の「善良性」が失われるように見えるからです。しかし、これすらも危険です。自身が善良であるからこそ「多少の加害」が「防衛」等の名を借りて肯定されるような錯覚に陥るからです。それであれば、初めから、自身の持つ加害欲求に素直に向き合った上で、それを適切にコントロールする方が、よほど誠実であろうと思います。
何にせよ、そのような「自身を善良だ」と思い込みたい人々の感情を(ある意味においては)うまく利用しようとすることはできるのです。「自身を善良」だと思い上がるその性根をこそ捨てなければ、いつまでたっても、この構造から抜け出すことはできないように思われます。