気づいたら、5ヶ月もの間を空けてしまい。定期的にものを書くことが諸般の事情で難しくなったとはいえ、ここまで空いてしまうと、(以前にもそう書いたような気がしますが)書くこと自体から離れてしまい、身の周りのものへの観察も怠るようになってしまうという負の側面が際立つように思います。

光陰矢の如しとはいいますが、「スケジュール」調整は随時行わなければ、自らの置かれた状況との不整合ばかりが目に付くようになり、上記のような「離れ」は加速するばかりかもしれません。

 

実は、本稿に関して、何か「ネタ」を用意したわけではありません。書きたかったことがないわけではないのです。例えば、2026年頃に司法試験がIT化されるといったニュースなど、我々の「時代」からは隔世の感のあるような話題もありましたが、時期を失してしまいました。こういう点からも明らかで、やはり、ものを「書く」ことには適したタイミングというものはあるのかもしれません。それを上手に捕まえて、形にしておくというのも必要なスキルでしょう。

 

ブログという形でーすなわち、公開することを前提として―もの書く以上は、やはり自分以外の「読み手」がいるわけであり、その意味では何らかの「役に立つ」ものでありたいとは思うのですが、ここに至るまでで明らかなように、本稿は、とりとめのない思考の流出に過ぎず、「役に立つ」ものとはいえません。

特に本ブログは、実は、法学の基本部分はかなり書ききったのではないか、つまり残された多くはその応用にすぎないのではないか、と思うことがあります。そうなると、本ブログの基本部分を動かさない形で、新しい連載でも始めないことには、新しいネタはなかなか出てこないかもしれないと思うところがあります。このことは、法学が、現在極めて技術的であるというところにも由来しているのかもしれません。

しかし、技術的なものを、このようなところにそのまま書くことにはあまり意味を感じません。それは専門家同士で理解しておけばいいということが少なくないのです。そうではなく、「市民一般」という目で見たとき、やはりコアの部分は実は多くはない(もっとも、それをきちんと理解してもらうことは極めて難しいのですが)。

 

さしあたっては、何か「シリーズ化」できはしないか、少し思案することとしたいと思います。

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ある主張に対して、批判がなされたとき、その批判を「嫉妬しているだけ」といなすようなやり方をしばしば目にします。言うまでもなく、この「方法」については、疑問を投げかけるべきでしょう。

 

この「方法」には2つの問題があります。1つは、批判の内容に目を向けず、自省がなされていない点であり、もう1つは「嫉妬」というふうに処理をすることで相手方の地位を貶める、ある種の「マウンティング」が行われているということです。もっとも、この両者は、互いに関連しており、その意味では混然一体として把握されそうではありますが、論理的には、別のものとして理解されるべきでしょう。両者の違いを意識しながら、少し話をしてみます。

 

まず、前提として、嫉妬という概念を確認しておく必要があるでしょう。嫉妬という言葉は、「妬み」という言葉を含んでいることからも明らかなように、自分より優れたものや恵まれたものを羨み、それが憎しみへ変容したことをいいます。辞書によっては、「愛する者の心が自身以外のものへ向かうのを恨み憎むこと」という語釈が含まれているものもあります。したがって、嫉妬の構造は、嫉妬をした者(A)が嫉妬されたもの(B)の有しているものを有しておらず、そこに羨望があることが大前提です。そこでは、Bの持つ状況がAにとって極めて価値があることが重要であり、時にAが愛する別のCがBと良好な関係を構築しているということが含まれています。

 

この関係からして、Aが何を有しておらず、同時にBが何を有していないのかが把握されなければ、「嫉妬」の構造があるかどうかは判断できません。しかも、その「何か」がAにとって重要な価値を有するものでなければならないという意味で、判断は重層化します。ということは、その判断は「誤りやすい」のです(特に、Aにとって何が重要な価値なのかという判断は、相当に主観的であり、容易ではありません)。

他方、批判というものは、(本来的には)その言論・表現に対する、吟味・検討を意味します。したがって、批判の相手方が嫉妬の相手方たるBであることはあれ、それは論理的に見れば十分条件であるにすぎません。したがって、批判を受けた側が、その批判内容をさらに批判検討するのでなく、その批判者の「身分」に論及するのは、論理的関係がなく、基本的には失当です。まして、「嫉妬だから無視してよい」ということは、「同じ内容が『嫉妬に因らなければ検討されるべき』」ということを内包しています。

 

しかし、「嫉妬」という言葉を用いて、ありもしない「資格要件」に論及しようとするのは、嫉妬という言葉が持つ「羨望」のニュアンスの魔力でしょう。「下位者の批判は検討に値しない」ということを、これほどまでに直球に表現することもそうはないであろうとすら思えます。

ですが、このことは盲目ないしは視野狭窄しかもたらしません。無論、学問的議論では、「資格要件」が問題にされることはあります。実定法学の議論において、条文を読む力のない者に議論の土俵に上がることは認められません。「資格要件」を要求するには、その理由が示される必要があります。通常の言論・表現世界において、このような「資格要件」を課すことは妥当ではないはずです(憲法21条1項参照)。そうである以上、身勝手な「資格要件」の設定は、そのことによって「見たいもの・受け入れたいものしか通さない」というスクリーニングをもたらすことになります。そのこと自体が、同時に、「身勝手で、自省的でない(その意味で傲慢な)人間」であることの証左となってしまっているように思われます。

 


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法律学の試験問題というのは、だいたい、「○○について論じなさい」と、ある概念や判例の説明を求める、いわゆる「一行問題」と、「XとYの法律関係を論じなさい」(民法)、「Xの罪責を論じなさい」(刑法)、「裁判所はどのような判決を出すべきか」(民事訴訟法)、「Kの行為は適法か」(刑事訴訟法)といったような、具体的事例をもとに、判例・学説の理解を問う、いわゆる「事例問題」の2つに分けることができます。

この2つの問題のパターンで、具体的レベルにおいては、記述方法が変わらざるを得ません。しかし、抽象的には、法概念の正確な理解を問うという意味では一致しており、「問い方」が違うにすぎません(当然、「問い方」の違いで、「答え方」も変わらざるを得ません)。そうすると、「絶対に落としてはいけないポイント」というのは「同じ」です。

 

法律学の多くの場合、その出発点は、条文であり、次に判例です。それらを理解する上で、「理論」が必要になることも多いわけですが、いずれにしても、「それだけ」で何かを「述べた(論じた)」ことにはなりません。「理解」を問うということは、「深掘り」が求められているのであり、「言葉の暗記」では点数になりません。

その理解の出発点こそが、「定義」です。民法ではあまり「定義」を示すことはないように思われますが、その他の分野では、ほぼ必須といえるでしょう。言い換えれば、ここが示されていない答案というのは、どうしても評価が下がらざるを得ないように見えるのです。例えば、刑事訴訟法における「任意処分」は「強制処分に当たらない捜査手法(刑訴法197条1項本文)」というような形で定義化することができます。だからこそ、まず当該の処分が「強制処分」に当たるかを論じなければならないのです。しかし、初学者(のうち特に成績のふるわない者)の答案は、まずこれがない。

 

法律学の論理の特徴は、「前提を共有していく」ことにあるように見えるのです。だからこそ、理解が分かれそうな部分での定義や説明が必須になります。そして、「あなたがそういう前提なら、確かにそうなるよね」というのが説得力の1つになるわけで、この「前提の共有」について無顧慮であれば、「独善」と評されるように思います。そして、この「前提」には、「法律学関係者であれば共有していること」も含まれており、「理論の理解」もこれに当たります。いわば、定義は、この「前提の共有」の第1歩なのです。

 

学校レベルでものを書くことに難があると感じられる方は、一度「まず定義を書いてみる」という癖をつけるだけでも、大分変わるかもしれません。


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1月27日、早稲田大学元総長の西原春夫先生がご逝去されたとの報に接しました。94歳だったとのことです。

西原先生は、早稲田刑法学の巨人で、多くの門下生を輩出されており、その門下生は、学界・実務の双方において、刑事法学を支えられています。

西原先生といえば、間接正犯や過失犯における「信頼の原則」に関しての研究が特に著名で、大著も存在しています。

先生のご生前の活躍を記念し、ここにご冥福をお祈りいたします。

 


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どうも執筆から離れてしまっていて、よくないなと思いつつも、書ける範囲のことはそれほど多くはないのだと自覚しないわけにはいられません。もしかすると、これが年内は最後の投稿でしょうか。

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法において、「身体」は基本的な利益の1つです。そして、利益序列の中でも、生命について第2位の地位を与えられるのが一般的です。その理由は極めて単純であり、身体への侵害は、その延長線上に「生命」への侵害をもたらし得るからでしょう。

 

しかし、このような単純な理解のみで足りるのかというと、若干の疑義があります。1つには「魂の器」としての「肉体」という理解があるからであり、もう1つには「人格の表象」としての「身体」という理解があり得るからです。無論、両者は密接に関連しており、截然と区別されるわけではないように思われますが、論理的には別物であるように思われます。1つ1つ分解していきたいと思います。

 

まず、「魂の器」としての「肉体」です。言うまでもなく、この理解は、(キリスト教が模型となるような)伝統的な西洋哲学の理解です。この理解の下では、「肉体」が傷つけられたとしても、「魂」を汚すことには直結されません。しかしながら、肉体の消滅は現世からの魂の遊離を意味するのであり、その意味で肉体には重要な役割が与えられています。

このような宗教的な理解のみを示すのであれば、「法」の話としては受け入れがたい人もいるでしょう。しかしながら、「魂」を「人格」と読み替えたとき、途端に「法」の話としての実質を持ち始めます。つまり、人格それ自体の攻撃ではなく、身体だけに対する攻撃もまた独自の意義があり、それには我々の「生物」としての生と直結するのです。

一方で、事をこれだけで捕捉するのは困難でしょう。それは、我々は、特定の宗教観を前提としない限り、肉体の消滅を人格の消滅と結合させるからです。その意味で、身体への攻撃は、時に人格への攻撃を意味することがあります。性犯罪は現況このように理解されているのではないかと思われます。

 

このようなことは、「自身の身体」に対する侵襲の場合にはわかりやすいのです。しかし、殊、自身が「他者へ」と考えたときこのイメージを持っている人は、実は多くないのではないかと思われます。よく「パーソナル・スペース」という言葉が用いられますが、他者のそれに鈍感な人が見受けられるように思われるのです。

その理由がいかなるところにあるのかは即断できないのですが、街中で人と一定距離を空けられないというような場合に、相手が「人格ある個人」であることを無視しているのではないかという疑念は拭えません。接触の危機は、時に「攻撃」を予感させるものでもあります。他者を人格ある個人として捉えることは、他者を尊重すべき個人として捉えることと同義です。そのことと「攻撃」とは基本的には対極に立ちます。

もし、このような他者を人格ある個人として捉えられないことが、実は「自身も人格ある個人である」ことへの無理解に由来するものであったとすれば、それは極めて不幸なことといわなければなりませんし、見ようによっては、「現世社会」に「生きて」いないのではないかとも思われます。仮に肥大化した自己意識はあったとしても、その「肥大化」が自他の境界線の曖昧化に由来するものなのだとしたら、実はアイデンティティ自体の形成に問題がある可能性があるように思われるのです。

ここから先は発達心理などの専門家にお任せすべきかもしれません。


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