ある主張に対して、批判がなされたとき、その批判を「嫉妬しているだけ」といなすようなやり方をしばしば目にします。言うまでもなく、この「方法」については、疑問を投げかけるべきでしょう。

 

この「方法」には2つの問題があります。1つは、批判の内容に目を向けず、自省がなされていない点であり、もう1つは「嫉妬」というふうに処理をすることで相手方の地位を貶める、ある種の「マウンティング」が行われているということです。もっとも、この両者は、互いに関連しており、その意味では混然一体として把握されそうではありますが、論理的には、別のものとして理解されるべきでしょう。両者の違いを意識しながら、少し話をしてみます。

 

まず、前提として、嫉妬という概念を確認しておく必要があるでしょう。嫉妬という言葉は、「妬み」という言葉を含んでいることからも明らかなように、自分より優れたものや恵まれたものを羨み、それが憎しみへ変容したことをいいます。辞書によっては、「愛する者の心が自身以外のものへ向かうのを恨み憎むこと」という語釈が含まれているものもあります。したがって、嫉妬の構造は、嫉妬をした者(A)が嫉妬されたもの(B)の有しているものを有しておらず、そこに羨望があることが大前提です。そこでは、Bの持つ状況がAにとって極めて価値があることが重要であり、時にAが愛する別のCがBと良好な関係を構築しているということが含まれています。

 

この関係からして、Aが何を有しておらず、同時にBが何を有していないのかが把握されなければ、「嫉妬」の構造があるかどうかは判断できません。しかも、その「何か」がAにとって重要な価値を有するものでなければならないという意味で、判断は重層化します。ということは、その判断は「誤りやすい」のです(特に、Aにとって何が重要な価値なのかという判断は、相当に主観的であり、容易ではありません)。

他方、批判というものは、(本来的には)その言論・表現に対する、吟味・検討を意味します。したがって、批判の相手方が嫉妬の相手方たるBであることはあれ、それは論理的に見れば十分条件であるにすぎません。したがって、批判を受けた側が、その批判内容をさらに批判検討するのでなく、その批判者の「身分」に論及するのは、論理的関係がなく、基本的には失当です。まして、「嫉妬だから無視してよい」ということは、「同じ内容が『嫉妬に因らなければ検討されるべき』」ということを内包しています。

 

しかし、「嫉妬」という言葉を用いて、ありもしない「資格要件」に論及しようとするのは、嫉妬という言葉が持つ「羨望」のニュアンスの魔力でしょう。「下位者の批判は検討に値しない」ということを、これほどまでに直球に表現することもそうはないであろうとすら思えます。

ですが、このことは盲目ないしは視野狭窄しかもたらしません。無論、学問的議論では、「資格要件」が問題にされることはあります。実定法学の議論において、条文を読む力のない者に議論の土俵に上がることは認められません。「資格要件」を要求するには、その理由が示される必要があります。通常の言論・表現世界において、このような「資格要件」を課すことは妥当ではないはずです(憲法21条1項参照)。そうである以上、身勝手な「資格要件」の設定は、そのことによって「見たいもの・受け入れたいものしか通さない」というスクリーニングをもたらすことになります。そのこと自体が、同時に、「身勝手で、自省的でない(その意味で傲慢な)人間」であることの証左となってしまっているように思われます。

 


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