(書かれたものとしての)文章(いわゆるテクスト)を理解するには,そこに示された個々の語の意味を理解するのみではなく,その後の繋がりを文法などの理解によって補充しなければなりません。「私は自動車に乗る」ということのイメージと,「自動車が私に乗る」ということのイメージは異なります。ここには語の理解(イメージ)のみならず,文法が影響を与えていることが如実に表れています。

 

このようにある文の集合体であるところの文章の把握には,さらに文章間の繋がりの把握が必要なります。文の数が増えれば増えるほど,前の文との関係の把握が複雑化するため,その理解は(徐々にではありますが)困難になっていくということは紛れもない事実でしょう(ミステリー小説などは典型かもしれませんが,前のページに書かれていることを必ずしも重視していなかったにも拘らず,それがカギになっていることは稀ではありません)。この文の繋がりのことが「文脈」ないし「行間」と呼ばれる最も狭い範囲のものでしょう。

 

しかし,「文脈」や「行間」といった言葉は別の意味を持つことがあります。

例えばある小説や詩が書かれたとき,それらが書かれた背景となった歴史的事実やその経緯の理解が,その内容理解を補充するものとして,影響を与えていることがあります。このような,背景的事実もまた「文脈」とか「行間」と呼ばれることがあります。

法の理解においては,このような広い意味での「文脈」が影響を与えていることは少なくありません。個々の学説や判例の(狭い意味での文脈における)字面の正確な理解は言わずもがな,そのような理解に至った書かれざる背景事情(それは社会情勢だったり,あるいは歴史認識などもあるでしょう)の知・不知が,それらの理論(や法文それ自体)の理解を左右することは珍しくないのです。それは翻って,狭い意味での文脈(「小さな文脈」といってもいいかもしれません)すら,広い意味での文脈(「大きな文脈」)の下におかれ,制御されているということを意味します。つまり,大きな文脈の理解なくしては,小さな文脈はさほど意味を持たないということでもあるのです。

 

このことはある種の恐怖でもあります。それはテクストの理解が大きな文脈の理解に影響を受けているのだとすると,そこには膨大な量の知が横たわっており,途方もないほどの労力を要求するからです。もし重要な情報を1つでも落としてしまえば,当該のテクスト理解は全く別のものと理解され,それは往々にして「誤り」だということになります。

こう考えると,軽々しく何ものかを言おうとするのは,「文脈」の価値を理解しない,浅はかなものであり,誤りに満ちたものとなるのです。それは当然,本ブログにも当てはまります。


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