わが国の「法」は、まずもって、条文の形で存在しています。そのため、わが国は「成文法国」とか「制定法国」などといわれることがあります(対義語は、不文法国、判例法国でしょうか。両者は厳密には異なるのですが)。

そこに「文」が存在するとき、我々はその文の内容、つまりは意味内容の看取・理解に迫られます。その際には、当該の文を超えて、その「周辺部」までの理解を踏まえた上での理解が必要なことも少なくありません(以上、例えば、拙稿「『文脈』・『行間』について」)。

 

条文・法文といえども、このことは同様です。現在の会社法や各種の行政関連の個別法(例えば食品衛生法など)は、それなりに「書き込まれ」ており、条文を日本語として読めば、相応の日本語能力を有してさえいれば(そして、実はこのこと自体にも高いハードルがあるのですが。拙稿「日本語の読み書きについて」参照)、ある程度はその内容を理解することができます(もっとも、法令用語は存在しており、あくまで「ある程度」の域を超えません)。しかし、伝統的に「法」の代名詞であった、あるいは世間の人々が真っ先に思い浮かべるであろう憲法をはじめとする、いわゆる基本六法は、その重要性に比して、極めて簡素な条文になっています。だからこそ、法学教育・研究の重点は、この「条文理解」に割かれてきたといっても過言ではないでしょう。

すでに上掲「日本語の読み書きについて」でも述べたように、短い文であれば、その意味内容は必ずしも判然としません。一方、法の適用にとっては、当該の事実が、法の規定の中にあるのか外にあるのかということが第一に問題とされます。そうである以上、当該の事実が規定の枠内にあるかどうかを判断するための下位の基準の設定が必要となり、この下位の基準を導く作業が、「法の解釈」と呼ばれるわけです。

 

法が言葉で書かれている以上、法文=条文は、人文学でいうところの「テクスト」に相当します。つまり、「読まれるもの」としての性質から逃れがたいといえるのです。と同時に、「読まれるもの」である以上、やはり「読まれ方」は区々になり得るものでもあります。小説であれば、まずはその小説を読み切りさえすれば、差し当たっては足りるのかもしれません。しかし、法文の場合には、典型的には「特別法は一般法を破る」という法諺のように、その法典だけでさしあたって完結するということすらほぼないといってよいように思われます。このあたりが、「素人」には「できている」つもりでも、「専門家」から見れば「初歩すら押さえられていない突拍子もない理解」になりやすい原因の1つといえるでしょう。

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