本来はもっと早く書いておくべきだった内容なのですが、忘れないうちに著しておきたいと思います。

 

刑事法には、「疑わしいときは被告人の利益に」といういわゆる利益原則のほかに、現近代刑事法の鉄則というべき原則があります。それが「罪刑法定主義」です。

罪刑法定主義とは、文字通り、犯罪と刑罰はあらかじめ法律に定められておかなければならないという原則です。これは、既に拙稿「刑罰論の基礎 」で示したように、犯罪以外の行為の自由を保障するために存在します。それは、刑罰というものが(特に生命刑と自由刑は)国家による厳しい制裁であるため、国家によるその濫用を防止するという役割をも果たしています。また、「法定」という点は、国民の代表である国会で民主主義の結果として犯罪と刑罰が決せられるという意味を有しています。つまり、罪刑法定主義は自由主義と法律主義(民主主義)の2つの原則に支えられているのです。

まず、法律主義からの帰結として、類推解釈が否定されています。類推解釈とは、ある事案がある条文に当たらないことを前提にしながらも、その条文の趣旨が妥当することを理由に、その条文の趣旨をその事案に類推して適用する解釈手法をいいます。これと似た概念として、拡張解釈というものがあります。これは、ある事案がある条文に当たることを肯定するのですが、その条文の言葉を広げる場合を指します。

例えば、ある橋に「この橋を牛馬で通った者は5万円の罰金とする」という法律があるとしましょう(もちろん、そんな法律は実際にはありません)。この法律の趣旨が牛や馬のような重いものが橋の上を通ると橋が落下し人々の生命・身体に危険が及ぶため、それを回避するためだとしましょう。例えばここを車で通った人がいた場合に、拡張解釈の場合には「ここでいう『牛馬』とは重量のある移動手段を指すから、車はこの『牛馬』に『含まれる』。」というものです。類推解釈の場合には「ここでいう『牛馬』とは文字通り『牛や馬』(場合によってはその他の重い動物)であって、車はここに『含まれない』。しかし、法律の趣旨が、重量オーバーによる橋の落下を防止するものであるから、それは車にも『当てはまる』。」というものです。このように、両者はその「論理」が違うのですが、刑事法の世界では後者の類推解釈・適用はやってはいけないといわれています。それは、結局「法律」の枠を無視することに繋がり、法律主義に反するからです。

 

次に、自由主義からの帰結として、「遡及処罰の禁止」・「事後法の禁止」があります。これは、行為時の法律であれば自由だったものが将来犯罪となるようなことになれば、結局において行為の自由が達成できないということに繋がるためです。

 

現在、罪刑法定主義は刑法典には実は記されていません。しかし、憲法31条に含まれていると理解されています。

この罪刑法定主義ゆえに、私たちは行為の自由が保障されているということもあり、また法律に犯罪として書き込まれていない以上、どんなに「悪く見える」行為でも処罰することは絶対に許されません。

人は「犯罪など自分には関係ない」と思いがちです。しかし、現代社会では刑事法が多く存在することにより簡単に犯罪者となり得るし、また国家権力が暴走して「無実の罪」で処罰されることがあることは否定できず、そこで「自分は関係ない」と言い切れることはできないはずです。裁判員裁判以外にも、そのような意味でも、刑事法の基礎を知っておく必要はあるのです。