【4000文字作文】鈴のざわめき
神代植物公園の正門にあるベンチに腰掛け、
バスがのっしりと動く音を聞きながら、風に
からかわれている木の葉のざわめきに耳を澄
ます。
夏は、木の葉のざわめきの方が賑やかだっ
たが、風が少し肌寒く感じるいま頃は、風の
方が威勢がいい。
涼しくなりましたねぇ、と柔らかい男性の
声が聞こえ、風の匂いが変わりましたねぇ。
と応じる。ほとんど毎日この男性の、やや低
いが柔らかいまん丸とした声を聞くと、私の
気分は落ち着くのだ。今日もきちんと一日を
すごしている、と確信が持てる。こんな私で
も生きていてもいいのだと、邪魔ではないの
だと安心できる、そういう声。
夏の間は蝉の鳴き声でかき消されていたそ
の声も、今はちょっぴり切ない秋虫の鳴き声
がよりいっそう、その男性の声を柔らかくし
てくれている。
私が視力を失ってからもう、何年が経つだ
ろうか忘れてしまった。二十歳になる前だっ
たから、二十年以上前であることは間違いな
い。
暗闇の中で生き抜く覚悟ができるまでに、
すごく時間がかかった。見えないことで、見
えてくるものもあるのだと、それもまた楽し
いものだと思えるようになったのは、つい最
近のことだ。そんなことを思いながら武蔵境
通りに出て左に曲がる。
気ままに左右へと大きく振っていたステッ
キの振り幅を小さく早くして、指先に沢山の
情報を与えなくてはいけない。右の耳からは
車のエンジン音と、タイヤが道路から剥がれ
る音が聞こえてくる。
しばらく歩いていると私の右の耳と道路の
間に鋭い風がおき、自転車に乗った人が私の
隣をかすめていったことを、耳にかかる風で
感じた。ふいに誰かにイタズラされたような
心地悪い風だ。あっと言う間に、という言葉
があるがまさにそんな感じで自転車は、音と
いう予感も与えず私の横を通り抜けていく。
もうちょっと、もうちょっと。自分で自分
を励ましながら深大寺の入り口でまた、左に
曲がる。
数週間前まで、乾いた蝉の死骸を払い除け
ていた私のステッキは、さらに乾いた枯れ葉
の間を縫いながら進んでいく。
かさかさと鳴る乾いた音はあまり変わらな
いが、何かを成し遂げ疲れ果てて地面に堕ち
た死骸と、これから何かを越えるための準備
として落ちた枯葉との違いを、ステッキが私
の指先に伝えてくれている。
私の右手は、ステッキの先っぽの感触でそ
れが何かを感じることはできるが、それを避
けて歩くことは難しい。
枯れ葉を踏んで歩くのは心地良いが、死骸
を踏んで歩くのは、やはり申しわけない。
そんな小さな罪悪感からも解放されるのだ
と思うと自然に、顔も上を向いてしまうのだ
から、面白いなとひとり、ほくそ笑んでしま
う。
ステッキを百回も振らないうちに木々から
放たれるひんやりとした空気を頬に感じ、ス
テッキを気ままに振って歩く。そうすると自
分の心臓の鼓動もゆっくりと落ち着いていく
のがわかる。
ガラス戸がガラガラ、コロコロと鳴る音が
聞こえ始める。もうしばらく歩くと珈琲の香
りもするなぁと思うと、自然と呼吸を深く吸
い込んでしまう。
私と同年代らしい女性が「たま、たま、さ
ようなら」と猫に挨拶をしている。もう夕方
で店も終わりの時間なのだ。
もうしばらく歩くと左の耳から水がチョロ
チョロと流れる音が聞こえ出す。武蔵境通り
と三鷹通りを結ぶこの道の歩道は、ざらざら
した大きめの石で造られている。
この歩道をステッキの先っぽで撫でている
と、手のひらでステッキが大袈裟に暴れる。
その感触を右手の内に感じながら歩くのが私
は好きだ。
それともうひとつ、この歩道が好きな理由が
ある。
ほんの数年前から、私と同じようにステッ
キを振りながら歩く人の気配を感じ、その人
が女性だとわかったのも、私がこの歩道を歩
くのが好きになった理由のひとつだ。
見えないことで、見えてくるものもあり、
それもまた楽しいと思えるようになったのも
その女性の気配を感じてからかもしれない。
彼女のステッキには小さな鈴が付いている
ようで、ちりんちりんと楽しそうに鳴る。ま
たそのステッキの先っぽがカラカラと歩道の
石を掻き鳴らす音も、元気良くハツラツとし
ているのだ。
そして、その鈴の音は、どんなに強い風よ
りも、私の心の中の木の葉を揺らし、ざわつ
かせる。
私が鈴の音に翻弄されるのは、これで二度
目になる。一度目はまだ私の目が使える頃、
まだ昼と夜の違いを光で感じ取れていた高校
生の頃だった。
その女の子の財布には小さな鈴が付けられ
ていて、その子が歩くとちりんちりんと、走
るとリンリンと、鳴っていた。
一度だけその女の子と一緒に帰ったことが
ある。そう、ちょうどこの道を一緒に。
教室では冗談を言ったりからかったりして
気楽に話せたのにその時は、何を言っても嫌
われそうで怖くて、何度も暑いなぁ……と独
り言のように呟いたりすることしかできなか
った。そうだ、夏だった。
互いの家の近くまで来ると、ちりんちりん
と鳴っていた彼女の鈴の音が止まり
「じゃっ。」
と、短い別れの挨拶をされた時、絶望的な
気分になったことを思い出すと今でも、口の
中が乾いて変な汗が出てしまうのだ。その後
間もなく夏休みに入り悶々とした夏を過ごし
たっけ。
退屈と後悔だらけの夏休みが終わり、学校
で久しぶりに見るその女の子が、やけに大人
っぽく見えたのを覚えている。魅力的だった
無邪気な笑顔に、ちょっと憂鬱そうな微笑み
が加わり、ふとした時に見せる寂しそうな表
情がよけいに彼女を大人っぽく見せた。
何も変わっていない自分と、明らかに変わ
ってしまった彼女。りんりんと鳴らしていた
鈴も外されていたのに、他の女の子が鳴らす
鈴の音に私の耳は反応していた。
私にもそんな甘酸っぱい、ほろ苦い思い出
があるのだ。ほろ苦いといえば、今もそうか
もしれないけど。
私は自分自身にやれやれと呆れながら、バ
ス停のベンチに腰掛ける。右の耳からバスが
のっしりとやって来て、スピードを落とした
音が聞こえたので、私は乗車しないことを伝
えるために大きく首を左右に振り、下を向い
た。
もう日が暮れようとしているようだ。光は
見えないが、頬に当たる陽の温かみが消えよ
うとしている。
今日、あの女性は鈴とステッキを鳴らしな
がら、現れてくれるだろうか。
いい年齢をした盲目の男が恋なんてと笑わ
れるかもしれない。笑われる覚悟はできてい
る。そう心の中で呟きながら私は自分のステ
ッキを力強く握りしめた。
二台目のバスが私の前を通過した後、りん
りんという聞き覚えのある鈴の音が、右の耳
から聞こえてきた。私は年甲斐も無く深呼吸
して、その鈴の音が近くなるのを待った。今
日こそは話しかけて女性の声を聞こう。ステ
ッキが歩道の石を掻く乾いた音と、鈴の音が
段々と大きくなってくる。その音が大きくな
ってくるのと同時に私の心臓の音も大きく、
早くなる。なんとも頼りない心臓だ…。
自分の心臓の音ばかりが気になって、鈴の
音に集中できなくなってくる。
どのくらい離れているのだろう。私は意識
を自分の内側ではなく、耳に集中させた。
鈴の音はもうすぐそこまで来ていた。ちり
んちりんと一定のリズムを刻みながら私のす
ぐ後ろを通っていく。彼女のステッキが私の
座っているベンチを軽く小突く。彼女に、い
つまで座っているのと言われているようで思
わず背筋を伸ばしてしまった。
だが、まだ立ち上がれない私を置いて、そ
の女性は鈴を鳴らしながら通り過ぎていく。
鈴の音がもう聞こえなくなりそうになった
時、ようやく私の脚は動き出し、彼女を追っ
た。小刻みにステッキを振って、早歩きで彼
女を追った。
鈴の音がまた大きく聞こえてくる距離にま
で追いついた時私は思わず
「暑いねぇ」
と、鈴の音より大きな声で話しかけた。そ
の瞬間、鈴の音は止まった。と同時に私の思
考も止まった。
暑いのは私だけですね、と訂正すると彼女
が笑う声が聞こえた。
その笑い声は鈴の音のように私の心の中に
響いた。でも私の心臓はまだ、鐘のようにゴ
ンゴンなっていた。
* * * * * * * * * * * * * *
【400文字作文】グリーン・ベルベット
夜の道を歩いていると、秋の虫たちがまる
で、期待を裏切った目覚まし時計のような、
弱々しい金属音を鳴らしていた。蝉の鳴き声
より情熱さに欠けるその金属音は、私を安心
させた。
蝉の鳴き声がアナログなら、秋の虫が鳴ら
す音は、デジタルだ。
夏の陽射しに便乗して、アフロヘアーのよ
うに膨らみ、葉 を茂らせたツツジの根元の土
には、ビッシリとコケがはりついている。
ベルベットのようで美しく、触れたくなり
右手を伸ばしたが、土の湿度をほんの少し指
先に感じ、女の顔の皮膚のようだな……と思
い手を引っ込めた。
行き場の無い指先を自分の唇に当てコケを
睨んでいたら、白髪の女性が私を見て微笑ん
でいた。さらに行き場を失った右手の指先を
左の耳たぶに運び、白髪の女性から視線を外
すと、綺麗でしょう?と声を掛けられたが私
は、ええ……と答えるのが精一杯だった。
で、期待を裏切った目覚まし時計のような、
弱々しい金属音を鳴らしていた。蝉の鳴き声
より情熱さに欠けるその金属音は、私を安心
させた。
蝉の鳴き声がアナログなら、秋の虫が鳴ら
す音は、デジタルだ。
夏の陽射しに便乗して、アフロヘアーのよ
うに膨らみ、葉 を茂らせたツツジの根元の土
には、ビッシリとコケがはりついている。
ベルベットのようで美しく、触れたくなり
右手を伸ばしたが、土の湿度をほんの少し指
先に感じ、女の顔の皮膚のようだな……と思
い手を引っ込めた。
行き場の無い指先を自分の唇に当てコケを
睨んでいたら、白髪の女性が私を見て微笑ん
でいた。さらに行き場を失った右手の指先を
左の耳たぶに運び、白髪の女性から視線を外
すと、綺麗でしょう?と声を掛けられたが私
は、ええ……と答えるのが精一杯だった。
【400文字作文】サンカク関係+1
猫が困ってるけど、まぁいいか…という風
情でアパートのよく滑る鉄の階段に座って、
空から落ちてくる雨粒を眺めている。
その階段を降りて5、6歩の場所にトタン
屋根で作られた車庫があり、そこには雑種の
茶色い犬が腹這いに寝そべっている。ボール
が落ちてきたらいいのになぁ…という風情で
波状のトタン屋根で集められ、太くなった雨
粒が地面に落ちて土を掘っていくのを眺めて
いる。
猫は犬がいることを、犬は猫がいることを
知っているけど、互いに雨というフィルター
を利用して気付いていないフリをしている。
猫は今更だけど…という感じで前足で顔を
洗い、犬はいつもここが…という感じで前歯
で右の前足の甲を掻いている。
アパートの隣の白い家からはピアノの音が
聞こえてくる。鍵盤を弾き、弦を叩くピアノ
の音は雨音に溶け込み、寝そべっていた犬は
オスワリをし、少しだけ尻尾を振った。
情でアパートのよく滑る鉄の階段に座って、
空から落ちてくる雨粒を眺めている。
その階段を降りて5、6歩の場所にトタン
屋根で作られた車庫があり、そこには雑種の
茶色い犬が腹這いに寝そべっている。ボール
が落ちてきたらいいのになぁ…という風情で
波状のトタン屋根で集められ、太くなった雨
粒が地面に落ちて土を掘っていくのを眺めて
いる。
猫は犬がいることを、犬は猫がいることを
知っているけど、互いに雨というフィルター
を利用して気付いていないフリをしている。
猫は今更だけど…という感じで前足で顔を
洗い、犬はいつもここが…という感じで前歯
で右の前足の甲を掻いている。
アパートの隣の白い家からはピアノの音が
聞こえてくる。鍵盤を弾き、弦を叩くピアノ
の音は雨音に溶け込み、寝そべっていた犬は
オスワリをし、少しだけ尻尾を振った。