大野純司のブログ -28ページ目

ライオ・ランドリーさんの娘さんの公立高校留学計画

 知り合いから、ある男性のホームステイを頼まれました。ライオ・ランドリーさんと言う方で、佐賀県では有名な方らしいです。ご自身はアメリカ人のお父さんと日本人のお母さんのハーフ、奥さんは日本人で、娘さんが来年からハワイの高校に留学するので、その手配のために10日間ほどハワイに来たというわけです。

お会いしてみると、家内曰く、ドラゴンボールの亀仙人のような方。私と同い年で、誕生日も二日しか違いません。子供のころ、ご両親に連れられてアメリカから佐賀に引っ越してきましたので、日本語もペラペラです。当時の佐賀では、外国人は珍しかったので、有名になって、ご自分のラジオ番組も持っておられるそうです。たまたま佐賀出身の友人と話す機会があったのですが、彼も彼の家族も、ランドリーさんのファンだそうです。92日からはNHKワールドに出演し、40周年を迎える佐賀のバルーン・フェスタの宣伝をするそうです。

早速、長男が教えているマッキンリー高校に見学に行きました。学校は今、夏休みですが、生徒会の二人の女子高生がボランティアしてくれて、学校を案内してくれました。事務の方ともお話ししましたが、法律的なことはよくわからないので、知り合いの弁護士に連絡したところ、公立学校は1年しか留学できないとのこと。また、アメリカでは高校は義務教育なので無料ですが、外国人の場合は生徒一人当たりの実費を払わなければならないそうです。ですので、ほとんどの留学生は、私立学校に留学するとのことでした。

彼の娘さんの場合、元々1年の計画でしたので、それでもかまわないのですが、この際アメリカの国籍を取ったらどうかと弁護士に勧められ、その手続きも同時進行で始めることにしました。親の一人がアメリカ人である場合は、外国で生まれてもアメリカ国籍を取ることができ、函館で生まれたうちの次男も生まれてすぐ札幌領事館に行って手続きをしましたが、彼の娘さんはまだその手続きをしていなかったのです。

娘さんは、もともと私の息子たちが卒業したルーズベルト高校に留学したいと思っていたそうです。オバマ大統領が卒業したプナホー高校などのような有名校ではないのですが、ハワイ出身の歌手、ブルーノ・マーズの出身校であることが理由なのかもしれません。ちなみに、彼は私の次男の2年先輩です。しかし、マッキンリーの対応がとても良かったので、そちらに行くことにしたようですが、ホームステイ先の校区の学校に行かなければならないので、自由に選べるわけではないようです。マッキンリーも、かなりの歴史があり、50年近く上院議員を務め、数年前亡くなったダニエル・イノウエ氏の出身校でもあります。最近、ホノルル空港がダニエルKイノウエ空港と改名されたことをご存知の方も多いでしょう。

話を元に戻しますが、ランドリーさんの「外人」としての生活は、かなり大変だったそうで、若い頃はかなり荒れた生活をしていたそうです。お酒もよく飲んだそうですが、脳溢血で倒れたとき、当時幼かった娘さんの涙ながらの懇願を聞いて、止める決心をしたそうです。今は、英語を使いながら、施設で身体障害や知的障害のある方のお世話をしています。

彼のお父さんは、日曜日の朝、ドライブして近くの山に行って、よく家族で礼拝をしていたそうです。ランドリーさんも、まじめな生活に戻ってから、近くの教会に行って見たそうですが、ちょっと厳格な教会で、彼のような型破りの人にはしっくり来なかったようです。私たちは、わざわざ山に行ったりはしませんが、家で礼拝をしていますので、日曜日の朝は彼も加わりました。今週読んだ聖書の箇所は、赦しに関するキリストの例え話だったのですが、ランドリーさんが、自分にはなかなか赦せない人がいるという話を打ち明けてくれました。10日間の滞在でしたが、とてもオープンな人で、深く知り合うことができました。もしかしたら、来年から娘さんが家でホームステイするかも?です。

 

同性愛結婚などの問題の考え方

前回、寛容について書きました。今回も書きたいと思いますので、どうかお許しください。日本では、欧米でこのことがどれだけ問題になっているかはよく分からないと思いますが、そのうち日本もそうなって、混乱が起きるのではないかと思うのです。

キリスト教に限らず、宗教と言うものは、通常、大切なことに関する明確な教えを持っています。例えば、救いとは何かという教えがあります。「こういう人が救われる」という教えがあるとすると、「そうじゃない人は救われない」ということになります。つまり、教えに沿わない人は除かれるという結果になるのです。そのことが原因で、明確な教えを持つ宗教は排他的で、寛容ではないという印象を持つ人がいるかもしれません。

まず、一つの例を挙げたいと思います。この例は、皆さんにとっては全く興味のないことだと思いますが、その方が、思い入れがないので、退屈かもしれませんが、客観的に見ることができると思います。その後、皆さんにとっても興味があるかもしれないことを例として書きたいと思います。

まずは、皆さんにとってどうでもいいことから。私のブログをいつも読んでいらっしゃる方は知っていると思いますが、私は家で教会をやっています。聖書の時代は皆そうだったのですが、キリスト教がローマの国教になってから、一変しました。私は、草の根的に家でやる方が聖書に則っていると考えています。しかし、従来の建物のある大きな教会が本当の教会だと考える人もいます。さらに、どちらも聖書に則っていると考える人や、そんなことはどちらでもよいと考える人がいます。これらを、家説、建物説、両方説と呼ぶことにしましょう。

私は、家の教会のみが正しいと考えるのは考え方が狭く、寛容でないと言われることがよくあります。その言うのは、両方説の人たちです。どの説の人も、それぞれに言い分があり、みんな自分が正しいと思っているからこそ、そう信じているわけですが、どれが正しいかは誰にもわかりません。全部間違いということはあり得ますが、全部正しいということはあり得ません。どれが正しいにしろ、みんなキリスト教徒なのですから、仲よくして、お互いに自分の考えを主張はしても、押し付けはしないようにすることが大切ではないかと思います。

家説や建物説は、お互いを否定することになるから考えが狭いというのは、一見もっともですが、教会の定義にとって大切なことは、それが正しい定義であることであって、広い定義であることではありません。でないと、何事につけ私たちは最も広い定義を受け入れなければならないということになってしまいます。実は、私は以前、両方説だったのですが、それは深く考えていなかったので、概念が曖昧だったのです。曖昧で漠然とした定義を持っている人が、心が広いということにはならないのです。広い定義を持つことは構いませんが、それを押し付けるとすれば、それは寛容とは言えません。

では、もっと皆さんにも興味があるかもしれない話に切り替えましょう。日本でもアメリカでも、同性愛者の結婚のことが問題になっています。アメリカでは最高裁まで行きましたので、法的に決着がついているのですが、同性愛者の結婚式のケーキを焼くのを断ったパン職人の裁判などはまだ続いています。

それでは、またそれぞれの説に名前をつけましょう。異性同士でなければ結婚でないと考える人は異性説、次に、こんな人はいないと思いますが、同性同士でなければ結婚ではないと考える人がいたらそれは同性説、そして、どちらも結婚と考える人は両性説と呼ぶことにしましょう。ずいぶんめちゃくちゃな呼び方ですが、勘弁してください。先ほどの教会の定義の話が、結婚の定義にも当てはまると思いますが、いかがでしょうか。

両性説の方が定義は広いですが、それを人に押し付けるとすれば寛容ということにはならないし、もちろん正しいということにもなりません。日本にしてもアメリカにしても、民主主義の国ですので、法律は代表の多数決で決まります。どちらに転んでも、日本人、あるいはアメリカ人であることには変わりありませんので、お互いに考えを押し付けることなく、しかし自分は自分の考えをしっかり持って仲良くできれば、それでいいのではないかと思いますが、どうでしょう。

スリランカのテロ事件

イースター(復活祭)の朝、スリランカで三つのホテルと三つの教会が爆破されたことは皆さんご存知でしょう。三つの教会の中の一つは、バティカロア・シオン教会と呼ばれ、私と同じ教団ではありませんが、近い教派の教会でした。スリランカに何度も行ったことがあり、私の教団の元スリランカ・ディレクターだった人をよく知っているインドの宣教師から、又聞きではありますが、爆破されたときの様子を聞くことができました。ネットで調べたことと併せて、このブログを書いています。

イスラム過激派のテロリストは、疑われて教会内に入ることを止められたので、教会の前で自爆したそうです。そこには、日曜学校が終わって、礼拝が始まるのを待っていた子供たちが何十人もいました。もちろんテロリストは、多くの子供たちが周りにいることは分かっていたはずです。

子供たちは、その日の日曜学校で、先生から、「殺されてもキリストを信じるという人は手を上げてください」と聞かれたそうです。幼い純粋な子供たちですので、全員が手を上げたそうですが、その約20分後、その中の22人が本当に殺されてしまったのです。子供にする質問にしては随分過激な質問だと感じる人もいるかもしれません。しかし、スリランカの実情を知っていれば、これは十分に理解できる質問だということが分かるでしょう。

先述した私の教団の元スリランカ・ディレクターは、殺害の脅しを受けていたので、身を隠すために、25年間に19回も引っ越したそうです。ある時、脅しを受けた後、テロリストが間違えて、自宅の隣の家の人を殺してしまったのです。彼は、自分だけでなく周りの人にも危険が及ぶと判断して、教団本部のアメリカに移住しました。私もそのちょっと前に彼の家に行ったことがありますが、その隣の家が襲撃されたのかもしれません。

このような環境の中で生活をしていますので、キリスト教徒であることが理由で殺されるかもしれない、という覚悟が必要となるわけです。ここで、ちょっと皆さんが驚くかもしれない話をしたいと思います。彼を脅迫して隣人を殺してしまったテロリストは、イスラム過激派ではなく、仏教徒でした。それも、気の狂った一匹狼の単独犯ではなく、ちゃんとした寺院の僧侶から指示されてやったことだったのです。

ちなみに、お隣のインドでは、ヒンズー教徒が、罰せられないことを利用して、ダリット(一番下のカストにも入れない、人間扱いされない人たち)のクリスチャンを毎日のように殺しているそうです。先述したインドの宣教師の団体には、インドに690のダリット教会があり、月一つの割合で迫害によって教会が閉鎖され、毎年1030人の信徒さんが殺されているそうです。

最近、受容が大切だということがよく言われます。これは、欧米でよく使われるようになった言葉で、英語のtoleranceの訳語だと思います。しかし、日本語の「受容」では、toleranceのニュアンスがよくわかりません。Toleranceと言うのは、ただ受け入れるということではなく、相手の考えが自分と違う場合でも受け入れるという意味合いがあるのです。つまり、主義主張の相違がこの言葉の前提となっているのです。

宗教間でこのような問題が発生するのを見て、多くの日本人は、一つの宗教でなければいけないと信じることは間違っていると考えるかもしれません。しかし、これは受容ではないと思います。つまり、自分の宗教でなければならないという考えを捨て、どのような宗教でも救われると信じることが正しいと主張しているわけですので、いろいろある考え方の一つに過ぎず、自分と同じように考えなさいと言っている点で同じです。

イスラム教徒であろうと、ヒンズー教徒であろうと、仏教徒であろうと、そしてキリスト教徒であろうと、どの宗教でもよいと信じるようになれば、それは、もはや別の宗教であると言っても過言ではないでしょう。そもそも、何を信じても良いなどということがあり得るでしょうか。

本当の受容とは、あなたの考えや宗教には反対するが、あなたは受け入れるというものでなければならないと思います。爆破が起きたとき、他の教団の教会に招かれていてシオン教会にいなかったマヘサン牧師は、こう言ったそうです。「私たちは傷つき、憤っています。しかし、私は、バティカロア・シオン教会のすべての会員と影響を受けた家族の牧師として、自爆テロリストとそのテロリストを送ったグループに言います。私たちは皆さんを愛しており、皆さんを赦します。」