プロレステーマ曲解体新書 インディー編「第1回 パイオニア戦志の章」 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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当ブログでは以前、昭和プロレステーマ曲研究家・コブラさんとの対談企画を掲載してきました。
 
昭和プロレステーマ曲研究家コブラさんとの対談記事「プロレステーマ曲解体新書」
 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

昭和プロレステーマ曲研究家・コブラさんとの対談記事!【テーマ曲から考える国際プロレス論】
 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 
 

 

 

 
 
 
  そして今回、コブラさんと3度目の対談が実現しました。
 
題して、「プロレステーマ曲解体新書 インディー編」!
 
今回は、メジャーではなく主に平成初期のインディー団体のテーマ曲についてコブラさんとディープなトークをさせていただきました!
 
 
 
 
とことんマニアックな内容となっております。それでは「プロレステーマ曲解体新書 インディー編」スタート!!
 

昭和プロレステーマ曲研究家・コブラ✕プロレス考察家・ジャスト日本のテーマ曲対談第3弾

プロレステーマ曲解体新書 インディー編

「第1回 パイオニア戦志の章
 
 
 

 

インディー編なのに、なぜか「全日本プロレステーマ曲の伝統」の話題に…

ーーコブラさん、今回もよろしくお願いいたします。

 コブラさん はい。よろしくお願いいたします。

ーーテーマ曲対談も三回目ですよ! 日本プロレステーマ曲史、国際プロレスに続いて、今回はインディーです。これまでの対談ではテーマ曲というのは、テレビ局の音響スタッフさんがメインで選んでいるという話があったと思います。インディーになりますと、テレビ局が選曲に関わっていないケースがメインとなりますよね。

 コブラさん そうなんですよ。私は昭和プロレステーマ曲研究家として活動していて、「テーマ曲はテレビ局が選ぶのが保守本流である」という考えは変わりません。ただ1990年代になると、必ずしもテレビ局がテーマ曲選びに関わらないことが多くなるんです。

ーーそうですよね。

 コブラさん 全日本プロレスも1991年くらいから日本テレビの手を離れて、リングアナウンサーの木原文人さんが仕切るテーマ曲の選曲や編集に変わっていくんです。

ーーそれはどういった理由ですか?

 コブラさん 1987年ぐらいに日本テレビのテーマ曲を担当していたスタッフが一新されて、テーマ曲にまったく詳しくない人達が担当者として就任してしまうんです。

ーーということは、コブラさんがよくおっしゃっている小川彦一さんや梅垣進さんがスタッフとしていないわけですね。

コブラさん そうです。小川さんも梅垣さんもいないです。テーマ曲をまったく知らないスタッフでやってまして、1989年の「エキサイトシリーズ」で当時NWA世界ヘビー級王者のリッキー・スティムボートが来日して、最終戦の日本武道館大会で2代目タイガーマスクとタイトルマッチで闘うじゃないですか。

ーー懐かしいですね。

コブラさん リッキーのテーマ曲といえば「ライディーン」(YМО)じゃないですか(1980年、全日本に初来日し人気者となり、常連外国人レスラーの仲間入りをと果たしたリッキーは「ライディーン」をテーマ曲にしていた) 。それすら知らなくて、リッキーに全然違うテーマ曲を流してしまったんですよ。

ーーあらら、やっちゃいましたね。

コブラさん それで木原さんとリングアナウンサーの仲田龍さんが「これはいかん!」と立ち上がって、日本テレビに直談判したんです。それで武道館大会でのタイガー戦は「ライディーン」がかかったんですよ。

ーーその頃の全日本プロレス中継だと、今泉富夫さんが関わっていた時代ですよね。

コブラさん 今泉さんがプロデューサーでしたね。1989~1990年は日本テレビが選んだり、木原さんが選んだりしていたのですが、1991年から完全に木原さん主導という形になりました。

ーー今の話を聞くと、小川彦一さんや梅垣進さんがいた頃、全日本のテーマ曲に携わったスタッフが優秀だったのかということが分かります。

コブラさん 本当にそうですよ。それであの時代のテーマ曲に影響された木原さんのような存在が全日本プロレステーマ曲の伝統を受け継いでいったのだと思います。

ーー木原さんが繋いでくれていなかったら、その伝統が消えている可能性もあるわけですね。

コブラさん ありますね。だってリッキーのテーマ曲を知らないスタッフがいるんですよ!考えられないですよ!!いくらリッキーの来日の間が空いていたとしても。

ーーアメリカでは確か、オリエンタルな曲調のテーマ曲を使っているんですよ、リッキーは。ブルース・リーの映画のサントラみたいな曲なんですよ(笑)。(リッキーはアメリカWWE時代は『dragon』というテーマ曲で入場している)

コブラさん なるほど。火を吹いていた頃のリッキーですよね。

ーーそうです!

コブラさん それで「ライディーン」を選ばなかったスタッフがリッキーのテーマ曲として選曲したのが、アニメ「バリバリ伝説」の曲なんですよ(笑)

ーーそれってもしかして、川田利明さんが一時期、使っていた曲ですか?

コブラさん それではないんです。アニメ「バリバリ伝説」のサントラ盤はPART1とPART2の2枚出ているんですが、川田さんのテーマ曲となった「ラスト・バトル」はPART2に収録されています。リッキーのテーマ曲は、PART1に収録されている「ダーティ・チェイス」ですね。

ーー川田さんの「ラスト・バトル」は好きなテーマ曲なんですよ!川田さんのイメージに合っているように思いました。

コブラさん あれ、いいですよね。「ラスト・バトル」を含む「バリバリ伝説」のBGMはミュージシャンの新田一郎さんが作曲していて、彼が在籍していたバンド「スペクトラム」では、あのスタン・ハンセンのテーマ曲「SUNRISE」を作っていますよ。

ーーでは名曲の流れを継ぐ感じなのですね。

コブラさん でもこの「ラスト・バトル」はテーマ曲を知らない日本テレビのスタッフが選んでいるんです。

ーー「ラスト・バトル」ってよく川田さんのテーマ曲だけではなく、当時のスポーツ番組やバラエティー番組とかでよく流れていたような気がします。

コブラさん そうですね。そもそも新田一郎さんが手掛けた曲はよくテレビでかかっていたんですよ。あと「ラスト・バトル」はかつてテレビ朝日「ギブUPまで待てない!!」でもかかっていましたよ(笑)。

ーーテレビ屋からすると使いやすい曲なんですね(笑)。

コブラさん 新田一郎さんの曲は使いやすいんですよ(笑)。「バリバリ伝説」はバイク漫画をアニメ化した作品で、そのサントラなので疾走感はありますよね。

 


「インディーのテーマ曲の特徴」


ーー疾走感はありますね!インディーのテーマ曲について対談するつもりが、全日本のテーマ曲の話に脱線してしまいましたね(笑)。でも今の話は聞いたことがなかったので興味深かったです。ありがとうございます。では、本題に戻りましょう。まず、コブラさんが考える「インディーのテーマ曲の特徴」とは何でしょうか?

コブラさん やっぱり先ほど話したテレビ局云々ということになりますね。「テレビ局が選んでナンボ」という時代じゃない中で、レスラー本人が選んだり、団体のスタッフが選んだりしていて、選曲のプロじゃない皆さんがテーマ曲を選んでいるんです。そこで団体のスタッフやレスラーのセンスが問われているような気がします。

ーー確かにそうですね。

コブラさん 1990年代のプロレス界は百花繚乱でさまざまな団体が存在していて、そこで個性を出そうと団体は苦心するわけですよ。テーマ曲に関しても同様なのかなと。そういうところを見ていくと面白いと思います。

ーーレスラーや団体スタッフのプロレス脳やテーマ曲選びのセンスが発揮されたり、されなかったりするのが分かりやすいのかもしれないです。どこまで合ったテーマ曲を選んでいるのかと。

コブラさん そうなんですよ!「これはないだろ」という曲も多いんですけど、玉石混交の面白さはあると思います。


日本インディーの先駆けとなった「パイオニア戦志」


ーーありがとうございます。ここから団体別にテーマ曲談義をしていこうと思います。まずは「パイオニア戦志」から参りましょう。

コブラさん 初っ端から素晴らしいです(笑)

【パイオニア戦志とは?】
1988年11月5日、全日本から解雇された国際プロレス出身の剛竜馬、高杉正彦、アポロ菅原の3人が旗揚げ宣言し、「日本インディーの先駆け」となった団体。「このまま死ぬわけにはいかない。吉原功社長の国際魂の原点に戻って、ゼロから再出発する」と宣言。1989年年4月30日、東京・後楽園ホール大会で、旗揚げ戦が行われた。試合は菅原VS高杉、剛VS大仁田厚の2試合のみだった。またメインイベントの剛VS大仁田が後味の悪い決着となったことにより、場内の観客は「金返せ!」「帰れ!」というヤジが局地的に発生。紙コップもリングに投げ込まれた事態となる。旗揚げ戦直後に菅原が退団。その後、新日本プロレスと交流するも、自身の興行集客に苦戦しなかなかうまくいかなかった。そして経営難に陥り、1990年12月に解散している。



ーーいきなり、マニアックな団体からスタートですよ(笑)

コブラさん 「パイオニア戦志」という文字列だけで興奮しますよ(笑)。

ーーこの団体名をつけたのはプロレス評論家・菊池孝さんなんですよね。

コブラさん そうですね。

ーー私はリアルタイムで知らない団体なんですよ。コブラさんは「パイオニア戦志」をリアルタイムで見ていたのですか?

コブラさん 興行は見に行ってませんが、週刊プロレスの報道で追っかけてはいました。 

ーーちなみにどういった団体の印象がありましたか?

コブラさん そもそも剛竜馬、高杉正彦、アポロ菅原の3人が団体を立ち上げた経緯がありまして。1986年の全日本で「国際血盟軍」としてラッシャー木村や鶴見五郎と組んでいたんですが、同時期に長州力が率いる「ジャパン・プロレス」と業務提携してたりして、ただでさえ人数が多かったところへスーパー・ストロング・マシン、ヒロ斎藤、高野俊二のユニット「カルガリー・ハリケーンズ」といった選手が参戦したことにより、完全に人員過多になるんです。そこでリストラとなったのがこの3人だったんです。

ーー残念だけど、これは妥当な判断ですね。

コブラさん この3人は申し訳ないのですが、しょうがないと思います。当時の状況を考えると「全日本正規軍」「ジャパン・プロレス」「カルガリー・ハリケーンズ」に比べると「国際血盟軍」は立場が弱かったですよ。

ーー当時の全日本が、WWEみたいに2ブランド制をやるという発想があったりすると違った展開もあったのかもしれませんが、全日本という1つのパッケージでやっていくという考えからの人員整理なのかもしれないですね。

コブラさん そうですね。あとあまり好かれていなかったという理由もあるかもですね。

ーー剛さんは特に好かれていないでしょうから。

コブラさん 高杉さんや菅原さんは人格者だと思うんですが、ジャイアント馬場と剛の間を取り持っている内に、馬場サイドからすると「こいつらも剛と同じ立場の人間だ」と思われたのかもしれないですね。

ーー私は以前、剛さんについてブログで記事を書いたことがあって、調べたのですが、これほどプロレス関係者に嫌われた人はいないだろうというぐらいに、嫌われていましたね。そういう剛さんは全日本を解雇されてからパイオニア戦志を旗揚げするまでプロレス浪人生活を送っていて、アメリカAWAでたまに試合をしていたんですよね。


悲しくてやりきれない~嫌われプロレスバカの硬くて粘着質な一生~/剛竜馬【俺達のプロレスラーDX】 





コブラさん そうなんですよ。若干AWAで試合をやっているんですよ。

ーー忍者キャラをやってましたね。剛さんはたまにアメリカで試合をやって「俺は引退していないんだよ」とアピールしていて、普段は生活のために建築業の下働きやお好み焼き屋店長として一般職で働いていたんです。

コブラさん 当時の日本プロレス界は新日本、全日本,UWFしか団体がなくて。そういう経緯があったから、3人が団体を旗揚げすると聞いた時は「どうなっちゃうんだろう」と思いましたね。

ーー「パイオニア戦志」は本当の意味での元祖・インディーなんですよね。

コブラさん そうです。元祖です!

ーー国際プロレスはインディーなのかと言われるとちょっと違うんですよね。

コブラさん そうなんですよ。あと当時はインディーという言葉がなかったですから。国際のテレビ中継で解説を務めた菊池さんが「パイオニア戦志」と名付けたことで、国際の団体カラーを活かした印象はありました。

ーー恐らく、国際ファンを取り込みたかったんでしょうね。

コブラさん そうでしょうね。それが「パイオニア戦志」のアイデンティティーかなと思います。


ラッシャー木村と剛竜馬が第1次UWFを退団した本当の理由


ーー以前、高杉さんが言っていたのが「パイオニア戦志」でパンクラスみたいなスタイルをやりたかったというのが印象に残っているんですよ(笑)。

コブラさん あ、なるほど(笑)。

ーーこれは度肝を抜きましたよ(笑)。

コブラさん 高杉さんはパンクラスというよりは、ガチガチのストロングプロレスをやりたかったのかもしれないですね。

ーー完全実力主義ですよね。

コブラさん 個人的にはヨーロッパのキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのようなスタイルを高杉さんはイメージしていたのかなと。

ーーそれはあるかもですね。

コブラさん そういえば、剛はラッシャー木村と共に第1次UWFに参加していたじゃないですか。本当は彼らが退団した理由は外国人レスラーのブッキングルート関係のトラブルが真相なのですが、ファンからは「木村と剛はUWFのスタイルについていけなくて去ったのではないか」という多くの声があがっていたんです。

ーー確かに。そのような印象がありますね。

コブラさん だから剛の中でそういう声への反発もあったのかなと。

ーー「自分達はUWFスタイルから逃げたのではなくて、できるんだよ」ということですよね。

コブラさん そうです。やろうと思えばできると。

ーー今の話を聞いて思い出しました。剛さんは後に北尾光司が率い武輝道場るの後楽園ホール大会に参戦していて、松崎和彦さん(一時期は松崎駿馬というリングネームで活動)と一騎打ちを行っているんです。武輝道場はノーロープのリングで、多少格闘技色がある団体だったんですが、そこで剛さんは松崎さんとガチガチの試合をやるわけですよ。頭突きは後楽園ホール中に頭蓋骨の音が聞こえるほどの衝撃音が響いて、バックドロップは低空で受け身が取れなくて、さらにパワーボムは脳天から落とすから、相手は垂直落下ですよ。最後は松崎さんの首が折れるんじゃないかというぐらいにグラウンド・フェースロックで絞めあげてギブアップ勝ちを果たしているんですよ。

コブラさん 松崎はインディーの中では好きなレスラーのひとりなんですよ(笑)。

ーー哀愁のレスラーですよね、剛さんの弟子だけありますよ。

コブラさん 本当にそうですね。


「パイオニア戦志」のテーマ曲には特徴がない!?


ーー「パイオニア戦志」で使われたテーマ曲というのはどんなものがあるんですか?

コブラさん 先ほど、インディーのテーマ曲の特徴として、団体スタッフやレスラーのセンスが問われるという話をしましたが、ぶっちゃけると「パイオニア戦志」のテーマ曲にあまり特徴がないんですよ(笑)。

ーーあまりないんですか!!例えば、ディスコミュージックとかロックが多く使われているというのがあったりしますが、そういう特徴がないんですか?

コブラさん ないんですけど、インディー黎明期であって、調べれば調べるほど意外な事実が判明したりするんですよ。実はこのテーマ曲は「パイオニア戦志」が最初に使っていたとか。

ーーそれは興味深いですね!教えていただいてよろしいですか?

コブラさん そのための今回の対談ですから(笑)。まず剛竜馬が「プロレスバカ」として1990年代にブレイクした時に、テーマ曲であるサバイバーの「アイ・オブ・ザ・タイガー」(シルヴェスター・スタローン主演のボクシング映画『ロッキー3』の主題歌)がトレードマークとなって、「アイ・オブ・ザ・タイガー」=剛という感じになるのですが、この曲を最初に使ったのが「パイオニア戦志」の旗揚げ戦だったんですよ!

ーーなるほど!剛が「アイ・オブ・ザ・タイガー」を使うようになったのは「パイオニア戦志」からなんですね。

コブラさん そうです。オリエンタルプロレスや冴夢来プロジェクト時代に変えた時期もありましたが、基本的には「アイ・オブ・ザ・タイガー」ですね。新日本時代も違う曲でしたし、全日本時代にはテーマ曲がなかったですから。


剛竜馬のテーマ曲「アイ・オブ・ザ・タイガー」は佐山聡からもらった!?


ーーそうなんですか。

コブラさん これは聞いた話ですが、「アイ・オブ・ザ・タイガー」は第1次UWFに佐山聡からもらったと剛が言っていたらしんですよ(笑)。

ーー本当ですか(笑)。さすがにそれは…。

コブラさん 嘘だぁと思って(笑)。「アイ・オブ・ザ・タイガー」は佐山がスーパータイガーとして使っていたテーマ曲なんですよ。佐山が「アイ・オブ・ザ・タイガー」
をテーマ曲として使うようになったシリーズを最後に剛は第1次UWFを出ていっているんですよ。

ーーそれならばあり得ないですね。佐山さんが剛さんにテーマ曲をあげるというのは。

コブラさん そうですよね。残る佐山が出ていく剛にテーマ曲をあげるとは考えにくいですよね(笑)。

ーーそれは剛さんの大風呂敷じゃないですか(笑)。

コブラさん 佐山のビッグネームを借りて、吹かしているなと(笑)。

ーー剛さんらしいですね(笑)。

コブラさん らしいといえばらしいですね(笑)。この話も伝聞に過ぎなくて、もしかして発言内容が違ってたりするかもしれないので、ご存知の方がこの記事を読んで下さってたらお教えして欲しいです。

ーーちなみに「パイオニア戦志」旗揚げ戦ではアームレスリング大会をやったらしいですね(笑)。国際でレフェリーを務めた遠藤光男さんが協力したようですね。

コブラさん そうなんですよ。素人をあげて。旗揚げ戦は2試合しか組めなかったので、企画をやって時間を埋めるしかなかったんですよ。

ーー確か、誠心会館の青柳政司館長も「パイオニア戦志」に参戦していましたよね。

コブラさん はい。FMW離脱後に参戦しました。青柳はFMWの旗揚げ戦で大仁田厚と闘ったでしょ。その時の青柳のテーマ曲が「アイ・オブ・ザ・タイガー」なんですよ。

ーーえっ、青柳さんが「アイ・オブ・ザ・タイガー」を使っていたのですか?

コブラさん そうです。だから青柳が「パイオニア戦志」に上がった時、どうするんだと。剛と青柳が一騎打ちを行うのですが、結局、青柳が折れて別の曲を使っていましたね。

ーーどんな曲を使ったのですか?

コブラさん ジグソーの「ラヴ・ファイアー」ですね。ミル・マスカラスのテーマ曲で有名なジグソーですよ!

ーージグソーですか!!

コブラさん 全日本プロレスのあるテーマ曲アルバムには、曲数を埋めるために誰のテーマ曲でもないものが収録されていて、その一曲がジグソーの「ラヴ・ファイアー」なんですよ。

ーー今の話、面白いですね(笑)。

コブラさん なんでこの曲を選んだのだろうと(笑)。

ーー青柳さんと剛さんも「パイオニア戦志」時代に金銭トラブルがあって、青柳さんが新日本でちょくちょく参戦している時に、剛さんが「パイオニア戦志」に入る青柳さんのギャラをピンハネしていたとか。

コブラさん そうですよね。剛さんに関しては晩年も含めて色々と悲しい話がありますから。

ーー剛さんの揉めた話の大体が金銭トラブルですから。

コブラさん 本当ですよ。


「パイオニア戦志」時代の高杉正彦とアポロ菅原のテーマ曲とは?


ーーちなみに高杉さんと菅原さんはどのようなテーマ曲だったんですか?

コブラさん 高杉さんはアメリカのテレビドラマ「マイアミ・バイス2」の挿入歌を使っていましたね。高杉さんは湘南出身なのでトロピカルなイメージで売っていましたが、マイアミという事でこの曲がその路線の走りかもしれせんね。菅原さんは面白くて、「はげ山の一夜」だったんですよ。

ーー「はげ山の一夜」といえば…確かザ・シークのテーマ曲ですよね。

コブラさん そうです。映画「サタデー・ナイト・フィーバー」のサントラ盤に収録されている、デビッド・シャイアによる「はげ山の一夜」のディスコ・バージョンがなぜか菅原さんのテーマ曲として使われたんですよ(笑)。

ーー「はげ山の一夜」のディスコ・バージョンがあるなんて、知らなかったですよ(笑)。通常の「はげ山の一夜」とは違うんですか?

コブラさん 全然、違いますね。

ーー「はげ山の一夜」を聴くと結構、怖いイメージがあるんですよ。

コブラさん そうです。クラシックなので、シークに使われている「はげ山の一夜」がスタンダードですね。「はげ山の一夜」のディスコ・バージョンが菅原さんなのですが、映画のサントラではないけどボブ・ジェームスによるジャズ・バージョンもあって、これがブロンド・アウトローズ(ヒロ斎藤、スーパー・ストロング・マシン、後藤達俊、保永昇男による1980年末から1990年前半の新日本で活躍した悪党ユニット)に使われたんです。

ーーそうなんですか!!後にレイジング・スタッフになる彼らですよね。あと「はげ山の一夜」はFMW時代に中川浩二さんが使っていましたね。

コブラさん そうです!中川がシーク的な悪役に転向した時に「はげ山の一夜」を選曲されていましたね。

ーー「ミスター・ダブルクロス」と呼ばれた頃の中川さんですね!確か凶器としてフォークを使うようになったんですよね。

コブラさん これはシークを意識してですよね。


新事実!「パイオニア戦志」が元祖だったあのテーマ曲!


ーーちなみに「パイオニア戦志」で使われたレアなテーマ曲とかありますか?

コブラさん 「パイオニア戦志」旗揚げ第2戦(1989年10月26日、後楽園ホール)で若手の松崎和彦、板倉広、橋詰和浩、川内英紀、上野吉貴の5人がデビューするんですよ。残念ながら松崎と板倉以外はすぐにプロレスを辞めてしまうんですが、その中で上野吉貴という選手が期待されていたんです。

ーー大変申し訳ありませんが、上野吉貴選手は初耳です。

コブラさん 他の選手は新人同士でシングルマッチをやったんですが、上野だけ高杉とシングルマッチだったんです。

ーーこれはいい待遇ですね。団体から期待されていたのが分かりますね。

コブラさん しかもデビュー戦なのにふてぶてしくて、肝が据わっている人だったんですが、その1試合だけで廃業しちゃったんですよ。

ーーえええ!どうしてなんでしょうか?

コブラさん わからないです。

ーーあんまりいい理由ではなさそうですね。

コブラさん そうでしょうね。この上野吉貴がデビュー戦で使っていたテーマ曲、ジャストさん、何だと思いますか?

ーー何でしょうね…。

コブラさん 東京ドームのメインイベントでも鳴り響いたことがあります。このテーマ曲をプロレス界で初めて使ったのが上野だったんです。名曲です。

ーー「威風堂々」(エドワード・エルガー)ですか?

コブラさん 違います。日本人選手です。

ーー東京ドームのメインイベントでかかった曲。それは既存の曲ですか?

コブラさん 既存です。秋ぐらいにかかりましたかね。

ーー「トレーニング・モンタージュ」ですか?

コブラさん 正解です。

ーー映画「ロッキー4」のサントラで、あの髙田延彦さんのテーマ曲で有名な「トレーニング・モンタージュ」を一番最初に使ったのが「パイオニア戦志」の新人・上野吉貴さんだったのですか?

コブラさん そういうことです(笑)。

ーー髙田さんはUWFインターナショナル時代になってから「トレーニング・モンタージュ」をテーマ曲に使用するようになったんですよね。

コブラさん そうです。


掘り起こせばまだまだ驚きの事実がある!? 「パイオニア戦志」のテーマ曲史


ーーこれは驚きの事実ですよ!「パイオニア戦志」のテーマ曲は独特じゃないですか(笑)。

コブラさん でも意外と「アイ・オブ・ザ・タイガー」とか「トレーニング・モンタージュ」とか割と普通のような気もしますよ。あと旗揚げ戦で剛と闘った大仁田厚には、リック・スプリングフィールドというアメリカの有名なミュージシャンの楽曲が使われているんです。だから選曲はそんなに奇抜じゃないですよ。

ーーということは選曲はオーソドックスなのですね。

コブラさん そうです。だからこそ後から別の団体や選手に使われやすいんです。

ーーもしかしたら掘り起こすと「パイオニア戦志」は「トレーニング・モンタージュ」以外にも「実はこの選手で有名なテーマ曲の元祖」という驚きの事実があるかもしれないですね。

コブラさん 大仁田が使っていたリック・スプリングフィールドの、同じアルバムの別の曲は第2次UWF時代の安生洋二が使っていたんですよ。パイオニア戦志のテーマ曲は特徴がないんです。でも、パイオニア戦志で既に使っていた事なんて全く知らずに採用した方が有名になってしまった今だからこそ「スゲーな」となるんですよ。

ーーまだまだ掘れそうな感じがしますね。

コブラさん ただ資料がないんですよね(笑)。活動期間も短かくて、限られているので。でも資料が見つかれば、新たな事実が分かるかもしれないですね。


頑張ればスターになれたかもしれないのにフェードアウトしていくインディーの若手レスラー達


ーーそれにしても上野さんのように、これから期待されていたにも関わらず、すぐに辞めていく惜しいレスラーはいますね。このまま頑張ればスターになれたのではないかという選手がいるんでしょね。

コブラさん それはインディー特有ですよね。メジャーと違って、インディーの選手は生活保障されていないケースが多いですからね。

ーー元SWSの山中鉄也さんや中原敏之さんとかは個人的には惜しいレスラーでしたね。

コブラさん 中原は、メキシコ武者修行時代に「甲賀」と名乗っていましたよね。「伊賀」が折原昌夫で。山中は「道場・檄」ですか?

ーーそうです。「道場・檄」ですね。山中さんは元々全日本の練習生で、1990年7月のSWS第1回新人オーディションで合格して、1991年3月に生え抜きレスラー第1号としてデビューしています。飛び技とかも豊富で「ミサイル戦士」という異名があったんですが、1992年6月のSWS解散に伴い、引退。中原さんは1991年2月のSWS第2回新人オーディションで合格して、1991年10月にデビューしています。中原さんはSWS解散後は佐野直喜さんについていったんですよ。

コブラさん えっ、そうなんですか。

ーー佐野さんはSWS解散後はどの団体に属さずにフリーだったんです。それで1992年12月からUWFインターナショナルに参戦してそのまま入団するんです。中原さんもそのままUWFインターナショナルに入ったのですが、そこから再デビューすることなくフェードアウトしています。

コブラさん ああ、そういう引退だったんですね…。

ーー中原さんはルチャ・リブレやっていて、メキシコ時代のパートナーである折原昌夫さんがSWS解散後に、天龍源一郎が率いるWARに入団したので、中原さんはWARを選ぶのかなと思ったのですが…。

コブラさん WARに猪俣弘史というレスラーがいて、彼も顔も男前で、うまく育てたらいいレスラーになるかなと思ったのですが…。

 

 

隠れた実力者・畠中浩旭


ーープロレス界は志半ばでフェードアウトする人が多いんですね…。あとこれはフェードアウトではないのですが、SWSだと畠中浩旭さんが好きで、期待していましたね。

コブラさん 畠中はSWSの若手の中では安定したレスラーですよね。

ーーそうなんですよ!あと頑丈でしたね。畠中さんは流転の人生を送っていて、プエルトリコでデビューして、そこからSWS、NOW、東京プロレス、道産子プロレス道場元気と所属を変えていって、プエルトリコに渡って、「グレート・センセイ」というペイントレスラーに変身して、現地でタイトルも獲得して、最終的には北海道で「アジアン・スポーツ・プロモーション」を旗揚げしているんですよ。

コブラさん そうですよね。

ーー畠中さんは面白くて、師匠のケンドー・ナガサキのような怖さもあって、アメリカン・プロレスのテクニシャンのようなうまさもあるんですよ。もし、畠中さんが流転せずに、どこかひとつの団体で安定していたら、かなりブレイクしていたような気がするんですよ。

コブラさん プロレスファンでも畠中の存在に気がつかない人は多いですよ。

ーープロレスファン10人いて、9人は気がつかないかもしれないですね。でも、面白いレスラーなんですよ、畠中さんは。
(第1回終了)

 

早くもマニアックなテーマ曲対談を繰り広げるコブラさんと私。
そしてここからさらにディープな世界を語りつくす!
次回はいよいよ、伝説のインディー団体のテーマ曲を深堀り!
プロレステーマ曲解体新書 インディー編「第2回 創世記FMWの章」,
近々に更新予定!ご期待ください!