回廊を行く――重複障害者の生活と意見 -9ページ目

ドブ板のパラドックス--民主党の前の轍(わだち)

投票所投票所

民主党の小沢代表が、11日の新テロ対策特別措置法の衆議院における再可決の際に欠席し、これに対しての批判が高まる中で鳩山幹事長が謝罪するという一幕もありました。同法に対しては同じ立場にある共産党や社民党も非難し、マスコミも堰を切ったように小沢批判を行なっています(日本経済新聞1/11産経新聞1/21 など)。小沢氏自身は大阪知事選の応援が優先したので、謝る必要はないと述べているそうです。

これに対してはブログのあるものには「
人それぞれの評価があって当たり前だが、私はどこに優先順位を置くのかの問題だと思う。三分の二で再可決される儀式に立ち会うよりも、この三分の二を変えるための動きを優先するというのは理解できるし評価もする。」(『なごなぐ雑記』1/17 )という弁護論もあり、こちらにも一理があるように思われます。

しかし要は民主党が選挙に勝ち、来るべき総選挙にも勝利をおさめて政権を手にするということであれば、欠席した場合の反応を予測すべきではなかったかというのが私の考えです。総裁選や代表選、あるいは一部の国でそうであるように議員による大統領選であれば、実質的具体的な選挙運動に邁進するのは当然だし理解できます。しかし知事選とか総選挙はそうではありません。様々な層の国民が投票し、その国民に対してマスコミの報道がかなりの影響を及ぼします。それらの批判を買いそうな行動は避けるべきではないでしょうか。民主党は過去での選挙の勝利に際して「風を受けた」と言われました。風とは国民の持つイメージによるものであって、選挙のためにはそのイメージをよりよくすべく努力するのが、少なくとも民主党の基本戦略でなければならないはずです。

小沢氏はその点で思慮が足りなかった。事後の批判に対する反論も不適切なものでした。小沢氏は選挙に強いと言われ、実際に期待されなかった衆院補選で勝利し、参議院選挙でも民主党を対照させています。一度は辞表を出した代表の地位に引き止められたのもその実績あってのことです。そして小沢氏の選挙戦術の基本は「ドブ板選挙」だと言われます。このドブ板選挙というのは、政策よりも地縁やスキンシップを重視するものであるとされていますが、必ずしも人口稠密とは言えない地域に出向いてビール箱の上で演説するという小沢氏のスタイルは、内心はどうとあれドブ板選挙を志向したものでしょう。そしてそれはかなり成功していたのです。

ドブ板選挙が通じることと「風」に頼る選挙とは必ずしも相反するものではありません。政策本位の選挙に対しては共に同じ側にいます。とすると批判を受けやすい行動をとる、そしてその正当性にこだわることは、ドブ板選挙とは両立しないでしょう。こういう意味で今回の小沢氏の行動はまずかったと思います。

ここ数年民主党は「九仞の功を一気に
虧(か)く」ことを繰り返しています。その理由は個々にはいろいろあるでしょうが、民主党が戦術面において一貫すべきところを一貫せず、しかも一貫せねばならないという思いは強いところにあると思われます。政権の過失を責めるのであれば、多少の過失は犯してもそれを貫徹すればよいし、政策でもって勝とうとするなら、臆することなくそればかりを主張すべきでしょう。ところが現実には戦術面ではすぐに反省してためらい、方針を変える。その変え方がいかにも一貫性にこだわった不器用なもので、そういうところを方針など元から持たず、その時々で一貫性などおよそ気にかけない自民党に、してやられる結果となると思うのです。

☆豪腕も 汗で滑って 掴みかね


人気blogランキングへ
↑↑<クリックお願いします>↑↑

「無視」される(?)額賀発言

graphgraph

株価が連日下がっています。株式相場には複合的要因があるのは当然ですが、それにしても今回は日本における直接の責任者である額賀財務相の責任を追及する声がほとんどないのはどういうわけでしょうか。発言そのものは報道されています。朝日の13日 の「米大手銀行の決算受け『株価下落も』額賀財務相」などがそれですが、株価下落について、「日本の経済見通しの下方修正や米国のサブプライムローン問題、原油高などが影響している」と述べ、先行き見通しでは、「来週、米国の大手銀行の決算が出る。(業績悪化を受けて)若干下がる可能性がある」と発言したというものです。

この記事にはこの発言についての評価は述べられていませんが、何でも材料となるという株式市場ですから、「若干下がる可能性」という財務大臣の発言が、下がり気味の相場に拍車をかけたことは想像に難くありません。ところが以後のマスコミにこの財務相発言に触れたものはほとんどありません。そのうちの一つは『日刊ゲンダイ』1月15日掲載 ののもので、「
前代未聞!額賀発言に大ブーイング」というタイトルのものですが、これによると国内の反応とは別に、主要国の財務大臣や中央銀行総裁は、金融当局者から金融機関の経営状態について詳細な内部情報を知らされているとされているので、その一人が株価の下がる可能性に言及するなどもってのほか。財務相は欧米の金融当局者の逆鱗に触れた危険性があるというのです。

もう一つ「民主党の岡田副代表は17日、都内で講演し、週明けの東京市場の株価急落について、『額賀財務相の責任が非常に大きい』と指摘し、『辞めていただきたい』と強調した。岡田副代表は『(株価下落で)額賀財務相の責任は非常に大きいと思いますよ。「株は下がりますよね」と日曜日の(討論)番組で司会者が言われて、それにうなずかれていました。それだけ自覚のない大臣なら辞めていただきたい』と述べた。」というものもあります(『フジニュースネットワーク』1/18 )。しかし他のマスコミは額賀財務相の責任については触れないことにしたのか、現在のWEBではこの二つしか見当たりません。加えて自民政権に批判的ないくつかのブログ(相互に連携しているものもあるようです)にも、今のところは取り上げられていないようです。

防衛疑惑の逃げ切りで気が緩んだのかもしれないが」と『日刊ゲンダイ』にありましたが、こういう無責任な人物に気を緩められるようなマスコミや野党や、あるいは反自民のオピニオンでは困ります。無難な政治家であればともかく、つい最近まで渦中にあった大臣の発言にこれほど無感覚なのでは、政治の浄化も政権の移動もまだまだ遠いものなのでしょう。

☆何故こんなに 寛大なのかと アベ怒り


人気blogランキングへ
↑↑<クリックお願いします>↑↑

澁澤龍彦と植草甚一

蔵書印蔵書印(部分 ・・・澁澤著作にあった護符よりデザイン)

NHKの『私のこだわり人物伝』で澁澤龍彦が取り上げられているのを見て、20年以上前に一度遭遇したことがあったのを思い出しました。たしか女流版画家の野中ユリの個展だったと思うのですが、麻布か六本木の方で開催されているというので勤めの帰りに寄ったところ、黒眼鏡の渋澤氏が座ってパイプをくゆらせながら人と話しているのを見かけたのです。小柄なのはイメージと違いませんでしたが、やはり何とも言えないオーラを感じました。もちろん声をかけるなどということはとんでもないことでしたが、版画そのものの記憶はさっぱりないところを見ると、心そぞろで渋澤氏の方にちょこちょこと目を走らせていたのでしょう。話していた相手は見てもわかりませんでした。野中ユリではなかったと思います。彼女の名は澁澤龍彦と結びついて知っていたのですが、まさか私が見にいったときに渋澤氏が来ているとは予想もしていませんでした。

澁澤のことを思い出しているうちに、もう一人の名を思い出しました。タイトルに並べた植草甚一(1908-79)と澁澤龍彦(1928-87)は、私などの若い頃のサブカルチュア系の二人の巨星でした。サブカルチュアと言っても、澁澤の方は東大の仏文という正統派の出身から異端文学の翻訳に入り、サドの『悪徳の栄え』の訳が猥褻物とされて起訴されたところから有名になったのですが、私はその後のこれもやはり異端の美術についての文章が好きで、一頃は彼の本は翻訳以外は発行されるごとに購入したものでした。一方で植草は主にアメリカの小説、映画、ジャズの紹介をしていたのですが、ミステリの紹介文からしていかにもサブカルチュアという感じなのが気に入っていました。早稲田の建築科中退と今調べたら出ていましたが、そう言えばよく見かけたイラストは建築家のスケッチの筆致でした。

植草氏にも縁はあったので、70年代の始めに結婚した時に住んだ1DKのマンションの上の方が、倍の広さの区画だったのですが、そこの一つを植草氏が借りて膨大な蔵書の置き場所にしているということを聞いていました。結局その部屋を見ることもなく、植草氏本人に出会うこともないうちに私の方がそこを出てしまったのですが、これも縁と言えば言えることでしょう。

私が買ったり読んだりした時代に比べると、二人とも、とくに澁澤はメインストリームの中で語られるようになっています。冒頭にあげたNHKの番組では、戦後の日本人の美意識をリードした存在であったというようなことも言っていました。澁澤の本はそれを文庫本で買えるようになった頃から手を出さなくなったのですが、考えてみるとそれは彼が亡くなった頃ですね。もう20年もたつのかと往時茫々の感じです。植草も亡くなったのは澁澤より前だというのにも今気づいたのですが、この二人はお互いを意識したこおとがあったのだろうかと考えてしまいます。素人の無責任な印象ですが、二人の共通の興味としてはコラージュがあるのではないかと思っています。

もう一つこの二人には共通点があります。澁澤はフランスを初めとするヨーロッパの、植草はアメリカ、特にニューヨークの、それぞれ該博な知識を蓄積していたのですが、実際に現地を踏んでからの残された人生が相対的に短かったということです。澁澤は1970年に新婚旅行で初めてヨーロッパの土を踏み、その後も含めて4回旅行しているのですが、彼の著作の基礎が出来上がったのはほとんどが渡欧以前でしょう。植草の場合はもっとはっきりしていて、アメリカについてのあまりにも詳細な知識を書き続けていたので、CIAのスリーピング・エージェントではないかという噂が立っていたほどですが、初めてのニューヨーク行きは1974年。その後毎年出かけたようですが5年後の79年に亡くなっています。今調べて渋沢の初渡欧が思っていたより早かったのを知りましたが、渋沢龍彦のエッセンスは渡欧前の書斎の中のものだったという印象はぬぐえません。

☆一冊の 本の愛撫を 思い出す


人気blogランキングへ
↑↑<クリックお願いします>↑↑

議会の座席

議会 parliament

参議院議長は1月18日召集の通常国会より、本会議場の座席配置の変更を職権で決定したということです(毎日新聞1月15日 、18日)。配置は中央に第1会派、議長から見て右に第2会派、左に第3会派の順となっているのが慣例だそうですが、15日閉会した臨時国会では与党の抵抗で先送りされていました。ただし実際の位置は議長から見て中央より左側に民主、共産、右側に自民、公明、社民となるそうですが、これは民主党が今回、自民、公明両党が隣り合うよう配慮したからとのことです。

フランス革命時の国民議会における保守派と急進派の座席位置の話を思い出しますが、自民党と公明党は右側に座って本望でしょうか。員数合わせで右に回された社民党は、改めて数の少なさを囲っているに違いありません。それはさておき参議院選挙で民主党が大勝したため、いろいろと従来とは様子が変わってきています。ここで「慣例」とありますが、これは「参議院慣例録」に記されているのでしょうが、これはWEBでは見られないようです。参議院規則 第14条に「 議員の議席は、毎会期の始めに議長がこれを定める。但し、必要があるときは、これを変更することができる。」とあるのが議長が決定する根拠のようです。 この規則は国会法の施行例のような位置にありますが、日本の法律の公的なデータベースである「法令データ提供システム 」には搭載されていませんから、法律-政令-省令という法令のヒエラルヒーには直接は属していないようです。

衆議院においても衆議院規則 があり、第14条はまったく同文ですが、参議院慣例録にあたるものは「衆議院慣例集」と若干名称が違います。このような微妙な違いはたとえば委員会の記録を「衆議院委員会議録」と「参議院委員会会議録」というように他にも存在していますが、これは衆議院が明治憲法以来の存続性を、参議院が元の貴族院としての「上院」の格を、それぞれ意識して独自性を主張している表れです。

慣例と言えば法案の発議には何人以上の議員の賛成が必要だとか、委員会の委員長数は議席数に比例しするとか、いずれも「規則」には記載のないもので、決定に至るまでに政党間の様々な駆け引きがあるようです。しかしそのような慣例を盾にとった駆け引きは、よほどの問題がない限りあまり報道されることがないので、慣例を言い立てることにより、すでにあまり透明でない議会政治を、さらに不透明にするのは止めて欲しいものです。

☆慣例と 闇取引は 別のもの


人気blogランキングへ
↑↑<クリックお願いします>↑↑

デジャヴュとアパシー -- 『ちりとてちん』をめぐって

dry rose dry rose

「私なあ・・・子供の頃から、感動するいうことがない子やってん。何でかわからん。生まれて初めて虹見たときも、外国の町並み写真で見たときも、初めての はずやのに、どっかで見たことある気いするいうか…何見ても感動できんねん。」 これはNHKの朝8時15分からのドラマ『ちりとてちん』の中での、ヒロインの幼友だち順子の言葉ですが、いわゆる「デジャヴュ」と「アパシー」を関連付けた斬新さに驚かされました。

『ちりとてちん』は「朝ドラ」としては従来とは違った趣のものです。1月9日の朝日新聞(署名原稿のせいかWEBでは見られないようです)掲載の「ちりとてちん 時計代わりにはならぬ充実度」によれば、「すべてを備え、すべてに意味がある。それぞれがそれぞれとこまやかにつながり、伏線となり(何週間もたってから伏線と気づくことするある)相関図は網の目状に。」「このこまやかにして充実の物語が、緩急自在に展開される。ときに意表も突かれる。つまり、目が離せない。『時計代わり』になりえず、視聴率が宜しくない理由の一つだろう。」とあります。これは激賞と言えるでしょう。

このドラマでは脇役でさえ、というか脇役であるがこそ、哲学的とも言えるせりふをはくことがありますが、これなどその意味をもっと考えてみたくなるものです。「既視感」と訳されるd
éjà vuについては、いろいろな説明があるようですが、私が学生時代に読んで覚えているのはベルクソンのそれです。認知されたものはまず脳の表層から入って、時の経緯とともにだんだん深いところに沈んで記憶となる。ところが精神的に弛緩していると、認知は表層に留まることなしに速やかに深みにまで達することによりすぐに記憶となる。思い出すということは脳の中から記憶を引き上げることだから、内容が同じ深さにあれば、そこから上がってくる感覚によって、記憶の古さを感じる、といったものだったと思います。つまり精神が弛緩していると、認知したものがすぐさま時間を経た記憶のように感じられるというものだったと思います。

これは心理学や生理学ではなく、哲学に類する分析であることはわかっていましたが、それにしても巧みな説明で、フランスでは哲学とか心理学とか医学とかが、他とは違って未分化だというのも理解できる気がしたものでした。もっともベルクソンのデジャヴュについての説は、これだけではないでしょうが、以上でその輪郭はわかると思います。

冒頭の例の場合、順子という女性は精神が弛緩することがあるようなタイプでは決してなく、むしろ逆にいつも気を張って物事を冷静に見ようとしているのですが、あるいはその冷静であるという構えが常にあり、感覚で接したものを認知する前には常にその構えを濾過しなければならなかったということかもしれません。アパシー、つまり無感動であることがデジャヴュの原因だと本人は考えているようですが、アパシーはむしろ結果で、そのまた原因は本人による構えであると思えます。考えてみると人間というのは自覚しているか否かにかかわらず、自分のあり方を自分で規定している存在であり、そのことが性格などを形成しているのでしょう。

こういうことを考えることはめったにないのですが、念入りに作られているドラマのおかげで、つたないですがささやかな思考実験をすることができました。『ちりとてちん』はテレビドラマの歴史に残る作品かもしれません。

☆歳古れば テレビドラマに 教えられ


人気blogランキングへ
↑↑<クリックお願いします>↑↑

「元気になる」ということ

和風庭園和風庭園雛形

誰でも日によって好不調の波はあるものですが、これは障害や慢性の病気の持ち主にとっては特にはなはだしいものです。私の呼吸不全は動作の影響が大きく、姿勢を変えると苦しい、歩くと苦しい、何かで焦ると苦しい、etc.です。更に環境要因というか、暑くても寒くてもまた気圧が低くても呼吸が楽でなくなります。もっともこれが呼吸不全の指標である酸素飽和度、つまり血液中のヘモグロビンの何%が酸素と結合しているかとは、必ずしも相関していないのが難しいところです。長時間酸素を止めていたのに気づかず、それでもまず平気だったこともあり、心理的要素もあるようです。

これらは言わば短期変動ですが、全体として持続的に調子が上がっていたり、下がることもあります。昨年の秋ごろからがそうなのですが、何かにつけて家内や医師、看護師に「元気になった」と言われます。家内は毎日見ているのですから余計感じるようです。そこで少し内省してみたのですが、これは症状への「慣れ」ということも大きいのではないでしょうか。

たとえば風呂は疲れるのでシャワーにすることも多いのですが、もちろんこれでも疲れます。酸素は吸いながら浴びるのですが、終わって風呂場から出てくると大げさに言えば息も絶え絶えということもありました。ですから少し調子を落としていると、用心してシャワーなどはなるべく後回しにしたものです。それが何かの都合で無理をしてシャワーを使ってみたら、その後はもちろん疲れますが、耐えられないほどでもありません。そういうことが2、3回あると、その後はもう調子などにはかまわずシャワーをするようになるわけです。こういうのは本当に元気になったのとは違って、自分の限界まではまだあることがわかり、度胸がついたという方が適切なのですが、人から見ると「元気になった」となってしまいます。

これは一例ですが、外出するにしても多少苦しいくらいでも出発すると、いずれ楽になってきて、変える頃には出がけより元気ということも少なくありません。症状が悪化していないのは確かでしょうが、かと言って別に改善されているわけでもなく、障害を宣告されて臆病になっていた状況から脱して、現状でできることができるようになったということなのでしょう。

以上は慢性の病気を患っておられる方には、思い当たることもあるのではないでしょうか。精神主義的に限界まで頑張るというのは私の主義ではありませんが、それでも自分の限界を探って、それに応じて生きていきたいと思っています。

☆毎日を 生きるはしょせん 綱渡り


人気blogランキングへ
↑↑<クリックお願いします>↑↑

日本語能力

言語言語

15日の毎日新聞 によると、「日本に長期滞在する外国人の入国や在留許可審査の際、日本語能力を要件として重視する具体策を外務、法務両省が検討することを決めた」とのことです。同じ記事の末尾に要件を厳しくすることで「査証(ビザ)の発給・更新などに影響が生じ、貴重な人材が入国できなくなる可能性もある」という政府内の声もあることも紹介していますが、問題はこれだけにとどまらないようです。

高村外相は「日本語能力は、外国人自身の生活の質を高めるためにも、日本社会のためにも大切」と強調したうえで「『日本へ行くために日本語を勉強しよう』という機運が高まれば大変よいことだ」と述べたということで、何事も前向きに考えるのはいいことでしょうが、国際結婚などはどうなるのでしょうか。外国人と結婚して、相手は日本語がほとんど話せないけれど幸せに暮らしているといった話もあります。こういうカップルは日本には住めなくなるのでしょうか。

昔オーストラリアは白豪主義と言われて白人以外の移民をほとんど受け入れず、「差別ではない。英語の試験に受かった者だけを移民として認めているのだ」と弁解していました。実は白人にはきわめて容易な問題を出し、非白人には難解な問題を出していたそうです。上陸審査の時に試験などをすることになると、この話を思い出す人も出てくるでしょう。また語学能力というのは文化的な素地の影響が強いので、それを意識してかえってとてつなく難解な問題を作るといった結果に、日本ではなりそうです。

折も折、捕鯨を巡ってオーストラリアと日本の関係がぎくしゃくし始めています。こういうときはなるべく国際間の障壁を低くしておくべきものでしょう。外務省は言語能力を重視する移民政策とっているとしてカナダや英独仏の例をあげていますが、世界には他にもたくさん国があるし、日本に長期滞在を望むのはアジアの国の人が多いでしょうから、この政策を実現するべきかどうかは熟慮した方がよいように思われます。初手からの日本語能力重視では、大相撲が海外から力士を調達するのも難しくなりますね・・・相撲社会での日本語教育は実績がありますから、その方法でも研究して応用するのが先決かもしれません。

☆日本語を 教えてみんな 正社員


人気blogランキングへ
↑↑<クリックお願いします>↑↑

政治家と支持率

%↓右下がりグラフ

14日の時事通信 によると福田首相は新テロ対策特別措置法成立後に行われた報道各社の世論調査で、内閣支持率が30~40%台で低迷していることについて「それはしょうがない。(支持率は)私が決めることじゃないから。政治はそのためにやっているんじゃないからね」と、記者団の質問に答えて述べたということです。

福田氏は、物言いが慎重なようでいて時として無神経無感覚なところを見せますが、このあまり注目されていない発言にも国民の気持を逆撫でするところがあります。どの首相も支持率が下がった時には気にしないふりをするか、あるいは支持率は変動するものであることを強調するものですが、今回の福田氏の発言はそれらとは一味違うものを感じます。

まず支持率は「私が決めることじゃない」という部分ですが、それには違いありませんが、自分の言動の結果が支持率に反映しているという認識がすっぽり抜けています。一口に言って謙虚さが見えません。あるいは「力が及ばないのは申し訳ない」というような発言もあったのがカットされているという可能性もありますが、「政治はそのためにやっているんじゃないから」と続くのを見ると、論理としては政治と支持率は無関係のようにも感じられます。

そもそも、「そのためにやっているんじゃない」と断言するからには、福田首相は何のために政治をやっているのでしょうか? 直接に支持率を上げるためでないことはたしかで、小泉・安倍の両首相の政治の流儀に比べると、これはむしろ美点だとも言えましょう。
生活者・消費者のために政治をしていると言うなら、そしてその結果は支持率には表れないというなら、そのような表現が欲しかったところです。「そのためにやっているんじゃない」だけで、では何のためかを明らかにすることをしないのでは、国民は宙ぶらりんということになります。

☆欲しいのは 支持率よりも 米の支持


人気blogランキングへ
   ↑↑<クリックお願いします>↑



  

ガソリン税と社会的費用--車とその負担

cars


13日の「民主、ガソリン値下げ部隊創設」と題した産経新聞の記事 によれば、「民主党は18日召集の通常国会で揮発油(ガソリン)税の暫定税率廃止を目指し、中堅・若手を中心とした衆院議員約60人からなる「ガソリン値下げ実働部隊」を編成する方針を固めた。」とのことです。国際的な石油価格の高騰を背景に、「必需品」である車の燃料であるガソリンに課せられた付加税の廃止を訴え、政権奪取の梃子としようとする民主党の戦略は理解できますが、しかしこれもいわゆるポピュリズムの一つだなという不快な感覚を覚えずにはいられません。かつて小泉首相が郵政の不具合を盛んに言い立て、郵政改革を材料に不当な総選挙に持ち込み自民党の大勝をもたらしたのが、扇動を政治的果実に結びつけたポピュリズムの大きな実例ですが、今回のこの民主党の動きも権力側からの発想でないという大きな違いを除けば、車に関する様々な問題と矛盾をガソリン税の暫定税率廃止という一点に集約するという点で似ています。

それではタイトルに入れた「社会的費用」とは何か。それは宇沢弘文氏の『自動車の社会的費用 』(1974)という新書で知られるようになった概念で、宇沢氏自身の記述によると「
自動車のもたらす社会的費用は、具体的には、交通事故、犯罪、公害、環境破壊というかたちをとってあらわれるが、いずれも、健康、安全歩行などという市民の基本的権利を侵害し、しかも人々に不可逆的な損失を与えるものが多い。このように大きな社会的費用の発生に対して、自動車の便益を亨受する人々は、わずかしかその費用を負担していない」というものです。

費用を付帯していないということの具体例には、高速道路の用地に対して地元の自治体が固定資産税を徴収していないというがあります。JRが国鉄であった時代にも、線路用地は非課税でした。しかし地元自治体の要求により、固定資産税相当額の半分を納めることになっていました。国鉄は長い間健全財政でしたから、こういう鷹揚なこともできたのです。しかし高速道用地課税については、自治体の要求はありますが実現していないようです。自治体内を線路なり高速道なりが通ると、利益もあるでしょうが対策としてかかる費用もある。固定資産税を要求するということは、この税が地方税である以上当然でしょう。加えて言えば、通過による利益には鉄道の場合駅の存在による経済的活気といったものが含まれますが、インターチェンジが建設されない高速道路ではほとんど何の利益もありません。国鉄の衰亡は車社会の到来によるもので、固定資産資産税の半額を支払っていたこととは直接関係しませんが、鉄道より道路を優遇したという国の政策があって今日の車社会が存在することは、ガソリン税その他の車関係の諸税についてことあるごとに不服を言う車ユーザは、よく心得ておくべきでしょう。車が「必需品」となった理由も、根源はこのあたりにあります。

私自身は元々は限度のない車の私有に懐疑的だったのですが、十年以上前から大病を続け、病院通いに車を使わざるを得なくなりました。最近では少し元気になり、障害になれたこともあって、公共交通で移動できる範囲を実地に調べていますが、やはり車に頼らざるを得ないことも少なくなく、慙愧の至りです。フォードが車を大量生産して安価なものとした動機は、高齢者や病人の移動を楽にするためだったと聞いています。これには後世の美談化もまじっている可能性はありますが、自分がその身になるとその動機には否定できないものがあります。そして、多量の車が行き来していることにより、高齢者や病弱者が道を通行しにくくなっていることも、悲しむべき現実です。

☆応益が 原則ならば 車でも



人気blogランキングへ
   ↑↑<クリックお願いします>↑↑

健全な精神と健全な身体--学力と体力

逆立ち 逆立

「子の体力 偏差値化」という記事が10日の朝日新聞 に載っています。リードには「子どもの『体力テスト』を全校で実施し、分析結果に偏差値や点数、順位をつける自治体が全国で相次いでいる。小中学校の学力テストでは偏差値や順位を本人に知らせることに気を使うが、体力テストの場合、結果をそのまま返す学校が主流派だ。」とあり、学力テストの結果を本人に知らせるのには気を使うが、体力テストの場合は結果をそのまま返すというところに引っかかってしまいました。

小中学生に個人情報法というのは、鶏を割くに牛刀の類かもしれませんが、学力も体力も個人情報であり、本人に知らせるのをためらう理由はありません。日本では個々の子供の学力については公けに口にしないのに、体力というか身体能力についてはそうでもないので、上のような情報の扱いの差もその伝統を汲むものかもしれません。つまりは学力を云々するのは差別であり、身体能力についてはそうではないということでしょう。しかし本人にしてみると、自分に関する情報であれば知りたいということもあるわけです。もちろんそれを他に公表するということとは別です。

「健全なる精神は健全なる身体に宿る」ということわざ(?)があり、ギリシアの古代ローマの詩人の言葉だとさています。しかしこれは誤訳であり、正しくは「宿る」と断定するのではなく、「宿れかし」という願望であるか、あるいは両方を与えよという祈願 であるという知識はかなり一般的になっているようです。
しかしこれは、少なくともかつては体育祭における来賓の祝辞などによく使われたもので、「身体」を先行条件とするこの考え方は、多くの人々には未だに刷り込まれているものかもしれません。

しかし学力を云々することが差別につながるならば、体力なり運動能力なりは差別につながらないのと言うのででしょうか。後者の方が一目瞭然に近いものだから、そのテストの結果も今さらではないと言えないこともないかもしれません。とは言っても、体力のない子供が劣等感を感じないかというと、そうではないので、昔の学校時代を思うと、その辺に配慮があまり感じられませんでした。これは、小児結核に罹患して以来、それこそ一日も「健全なる身体」は持たず、一方で学力の方はまあ上位だった私だけの僻みでしょうか? 私のようなのが少数派であったかもしれませんが、それでも他に存在していなかった、あるいは存在しないとは思えません。

年少の者がスポーツで勝ち続けたり記録を立てたりした場合、マスコミは手放しで誉めそやします。一方で知的な分野で年少の者が何らかの業績を上げても、賞賛はどこか控え目でためらいがちです。これは冒頭の記事が、もっぱら体力テストの扱いに集中していて、学力テストとの対比についてはリードで触れただけだという態度につながります。おそらくは学力テストで勝ち抜いてきた新聞記者も、世間一般およびマスコミの目線からは逃れられなくなっているのでしょう。

☆健全の 基準は何かと 懐疑する


人気blogランキングへ
   ↑↑<クリックお願いします>↑↑