澁澤龍彦と植草甚一 | 回廊を行く――重複障害者の生活と意見

澁澤龍彦と植草甚一

蔵書印蔵書印(部分 ・・・澁澤著作にあった護符よりデザイン)

NHKの『私のこだわり人物伝』で澁澤龍彦が取り上げられているのを見て、20年以上前に一度遭遇したことがあったのを思い出しました。たしか女流版画家の野中ユリの個展だったと思うのですが、麻布か六本木の方で開催されているというので勤めの帰りに寄ったところ、黒眼鏡の渋澤氏が座ってパイプをくゆらせながら人と話しているのを見かけたのです。小柄なのはイメージと違いませんでしたが、やはり何とも言えないオーラを感じました。もちろん声をかけるなどということはとんでもないことでしたが、版画そのものの記憶はさっぱりないところを見ると、心そぞろで渋澤氏の方にちょこちょこと目を走らせていたのでしょう。話していた相手は見てもわかりませんでした。野中ユリではなかったと思います。彼女の名は澁澤龍彦と結びついて知っていたのですが、まさか私が見にいったときに渋澤氏が来ているとは予想もしていませんでした。

澁澤のことを思い出しているうちに、もう一人の名を思い出しました。タイトルに並べた植草甚一(1908-79)と澁澤龍彦(1928-87)は、私などの若い頃のサブカルチュア系の二人の巨星でした。サブカルチュアと言っても、澁澤の方は東大の仏文という正統派の出身から異端文学の翻訳に入り、サドの『悪徳の栄え』の訳が猥褻物とされて起訴されたところから有名になったのですが、私はその後のこれもやはり異端の美術についての文章が好きで、一頃は彼の本は翻訳以外は発行されるごとに購入したものでした。一方で植草は主にアメリカの小説、映画、ジャズの紹介をしていたのですが、ミステリの紹介文からしていかにもサブカルチュアという感じなのが気に入っていました。早稲田の建築科中退と今調べたら出ていましたが、そう言えばよく見かけたイラストは建築家のスケッチの筆致でした。

植草氏にも縁はあったので、70年代の始めに結婚した時に住んだ1DKのマンションの上の方が、倍の広さの区画だったのですが、そこの一つを植草氏が借りて膨大な蔵書の置き場所にしているということを聞いていました。結局その部屋を見ることもなく、植草氏本人に出会うこともないうちに私の方がそこを出てしまったのですが、これも縁と言えば言えることでしょう。

私が買ったり読んだりした時代に比べると、二人とも、とくに澁澤はメインストリームの中で語られるようになっています。冒頭にあげたNHKの番組では、戦後の日本人の美意識をリードした存在であったというようなことも言っていました。澁澤の本はそれを文庫本で買えるようになった頃から手を出さなくなったのですが、考えてみるとそれは彼が亡くなった頃ですね。もう20年もたつのかと往時茫々の感じです。植草も亡くなったのは澁澤より前だというのにも今気づいたのですが、この二人はお互いを意識したこおとがあったのだろうかと考えてしまいます。素人の無責任な印象ですが、二人の共通の興味としてはコラージュがあるのではないかと思っています。

もう一つこの二人には共通点があります。澁澤はフランスを初めとするヨーロッパの、植草はアメリカ、特にニューヨークの、それぞれ該博な知識を蓄積していたのですが、実際に現地を踏んでからの残された人生が相対的に短かったということです。澁澤は1970年に新婚旅行で初めてヨーロッパの土を踏み、その後も含めて4回旅行しているのですが、彼の著作の基礎が出来上がったのはほとんどが渡欧以前でしょう。植草の場合はもっとはっきりしていて、アメリカについてのあまりにも詳細な知識を書き続けていたので、CIAのスリーピング・エージェントではないかという噂が立っていたほどですが、初めてのニューヨーク行きは1974年。その後毎年出かけたようですが5年後の79年に亡くなっています。今調べて渋沢の初渡欧が思っていたより早かったのを知りましたが、渋沢龍彦のエッセンスは渡欧前の書斎の中のものだったという印象はぬぐえません。

☆一冊の 本の愛撫を 思い出す


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