回廊を行く――重複障害者の生活と意見 -30ページ目

テレビの字幕

 木曜日に月に1回の検診で病院に行ったら、待合室の壁のワイドテレビに字幕が出ていました。お昼のNHKのニュースだったのですが、公共の場所でテレビ字幕を見たのははじめてです。

 家以外の場所で字幕を見たのは3回目で、1回は東京都の障害者会館。もう1回は水戸の京成ホテルで、ここでは事前に頼んでおけば、字幕を見る装置(デコーダー)を入れておいてくれました。障害者会館は公共の場所とは言い切れないでしょう。

 テレビの字幕については何回も書いていますが、まだ誤解もあるようですので少し説明します。テレビの字幕にはオープン式とクローズド式があります。これはアメリカから入った言葉ですが、オープン式はNHKBSの洋画や、ニュースやヴァラエティに入る文字で、キャプションといわれることもあります。クローズド式は番組表で「字」を四角で囲んだ表示のあるもので、デコーダーがないと字幕は見られません。

 このデコーダーは以前はいろいろなメーカーが作っていたのですが、経済的に引き合わないと撤退したところが多く、今売っているのは1社か2社です。富士通のものは字体がきれいだったのですが10年以上前になくなりました。役所や病院やホテルなど、不特定多数が利用する施設のテレビが字幕を映すよう義務付けすれば、デコーダーの売れ行きも増えるのではと提案したこともあるのですが。ただ、今後デジタルになればデコーダーはいらないようです。

 字幕番組の効用として聴覚障害者のため以外にも、その国の言葉を覚えるのに役立ちます。アメリカにおけるスペイン語が母語であるヒスパニックが典型ですが、私も一週間ほどアメリカにいた時、ホテルの部屋でテレビの英語字幕を見ていたら、最初は字だけで映像が何かわからなかったのが、三日目くらいから映像と字で内容の見当がつくようになりました。ホテルで、と書きましたが、アメリカでは13インチ以上のテレビはデコーダーを内蔵することが義務付けられているのです。

 この義務付けの法律が成立して、アメリカのテレビの大半を作っていた日本のメーカーは工夫して低廉な価格のデコーダーを開発しました。日本語の場合と違って英語だと変換が不要ですから大分条件が違いますが、それでも国がしっかりした姿勢を持っていると、メーカーも努力するものです。今の日本の「民営化」は、それとはちょっとずれている感じもしますが。

 なお、せっかくデコーダーがあっても、ONにしていないと字は映りません。上記の障害者会館の場合、字幕番組をやっていてもOFFということがありました。そばに行ってスイッチを入れるのには少し度胸がいりますが、アメリカでは公共の場ではそういうことを考慮して、常にONにしておくことがマナーになっているそうです。

 

偶然の一致?

 昨日『三屋清左衛門残日録』に関して書いた中で女優の南果歩の名を出したら、今日はその南さんと渡辺謙が結婚したということでびっくりしました。渡辺さんも以前『御家人斬九郎』というシリーズがはまり役だったので、時代劇という共通項はあるものの、ついぞ一緒に考えたことはなかった組み合わせです。

 それより、日頃あまり口にしたり書いたりしない人が、一度触れるとたちまちその人についての情報が集まってくることがあります。触れたことで意識して、新聞などで名前が目に留まりやすくなり、またここ数年来はちょっとした引っ掛かりでもすぐ検索するということもありますが、今度の結婚話はそういうものとは違うので、何やら因縁を感じます。

 『御家人斬九郎』といえば渡辺さんの相手役は若村麻由美さんで、これも深川の芸者役が飛び切り妖艶だったのを思い出しますが、そのシリーズも終了し、教祖とかとの結婚後はあまりテレビでは見なくなったと思った矢先、NHK教育テレビで障害者関係の手記の読み手で出てきました。それが昨日。やはり偶然の一致というより因縁めいたものを感じます。

 この手の話としては30年以上前の記憶があります。飛躍するようですが、ロシアがソ連といった頃の大物政治家にモロトフという人がいた。第2次大戦中にスターリンの下で首相や外相をやった人ですが、1950年代にフルシチョフによって中央を追われた。それきりで思い出すこともないわけですが、ある夜その人のことを夢で見た。夢でといっても会ったわけではもちろんなく、何年かぶりに公衆の前に姿を現したというニュースをテレビか新聞で見たという夢でした。別に興味を持つ人物でもないのにそんな夢を見たのはどういうわけだろうと思っていたら、まもなく91歳とかで死去したという記事が新聞に載りました。

 つまらない話かもしれませんが、これが現役の、よくニュースにも出る政治家であればともかく、何故モロトフなのかと頭をひねったものです。あるいは記憶の過誤というやつで、話の前後を取り違えて覚えているのかもしれませんが、当時何故こういうタイミングで夢に見たんだろうかと考え込んだ記憶ははっきりしているので、何か別次元の情報が混戦してたまたま私の夢に入ったとしか思えません。

 この話は一度書いてみたかったので、こんな機会ですが念願を果たしました。

三屋清左衛門残日録

 調子がよくないときは時代小説を集中的に読みます。何回も読み返すのは藤沢周平と池波正太郎。心身ともに疲れているときは池波正太郎ですね。少し立ち直ると藤沢周平。

 池波では『鬼平』よりも『剣客商売』の方が好きですが、これは全体の調子が明るいからかもしれません。作者は現役のままなくなりましたが、この長大なシリーズは意識してかしないでか、終わりを暗示した作品で終わっています。その点『鬼平』は文字通りの中断なので、そこに行くのがつらいというところがあります。

 藤沢周平にはそう長いシリーズはありませんが、書きかけの長編を死期を悟って急いで書き上げたものが遺作です。これは楷書の作品なのでそう繰り返しては読みませんが、やはり一番の傑作は『三屋清左衛門残日録』でしょう。地方の藩で中の上の家格から用人にまでのし上がった初老(といっても50代半ば)の男が隠居して書く日記というしつらえですが、することがなくなり、人の出入りが減り、自ら道場に行ったり塾に行ったり釣りをしたりしているうちに、いろいろなところから頼りにされ事件にも巻き込まれるというものですが、これで読むのは何回目か。定年後は初めてなので、いろいろと新しい発見もありました。

 10年ほど前にNHKがドラマにしていて、そのテープを録ってあったのを思い出し、見直しています。さすがに古いせいか画面が暗いのですが、放送の頃から意識して暗くしたという話もあり、どこまでが古くなったせいかはよくわかりません。ただ、暗い方が雰囲気はよく出ています。そもそも江戸時代の夜の屋内の明るさは今の数%と言いますから、ふつうの時代劇の画面が明るすぎるのです。

 主役の仲代達矢が名演技で、他に息子の嫁の南果歩、行きつけの飲み屋の女将かたせ梨乃、主人公の若い頃からの友人で町奉行の財津一郎など、皆一生一代といえるほどの好演です。これは私の持説ですが、脚本がよく主役がよければ、他の共演者も引きづられてよい演技を示すようです。現にある作品でのみ好演し、後はさっぱりというケースも見ますから。

 古いせいなのがはっきりしているのは画面に入る横縞で、これは倍速で見ると出てきません。倍速で見ると音声が乱れるのでしょうが、私は聞こえず字幕で見ているので、倍速でも十分鑑賞できます。ただ気のせいか、新しいテープを倍速で見ているよりは遅い感じで、はじめに録った時のデッキも違うし、何か微妙な変化があるのかもしれません。

 じつはこの作品は『清左衛門残日録』というタイトルで、NHKの関係会社から発売されているのですが、残念ながら字幕が入っていない。字幕入りで放送されたのでデータはあるのにと聞いてみたら、データはあっても入れるのはまた別の工程だそうで、だから字幕入りで放送されていても、全部が字幕入りのDVDないしビデオになるのではないということでした。なんだか情報資源を無駄にしているようですが、こういうわけで後で買うということが期待できず、これはという作品は放送時に録画しないと字幕は入手できないわけで、録画を忘れないようにと必死になります。何か聴覚障害者の間で流通できるといいのですが、放送からの録画は本人が楽しむためのみと著作権法で縛られているので、公然とした組織はなく、個人個人で苦労しているのです。評判作のドラマなどは、いずれ貸ビデオで見る可能性のある方々がうらやましくなります。

公職選挙法と聴覚障害者

何度か書いていますが、障害者にとって選挙はいろいろとバリアのあるもので、中でも聴覚障害者の場合のバリアは公職選挙法にある場合が多いのです。

ネットを使った選挙運動はこれまで禁じられていたのですが、今日の報道では自民党がその緩和を検討し始めたそうです。何でも改革なんですから選挙も改革ということでしょうが、文字情報が頼りの聴覚障害者にはとりあえずは朗報です。

ここで、聴覚障害者に対してバリアとなっていた公職選挙法の条項をいくつかあげると、まず政見放送です。

(政見放送)
第百五十条  〔前略〕この場合において、日本放送協会及び一般放送事業者は、その録音し若しくは録画した政見又は候補者届出政党が録音し若しくは録画した政見をそのまま放送しなければならない。

この「そのまま」というところに選挙当局(総務省)はこだわっていて、政見放送に字幕がつかないのはそのためです。一部で認められている手話通訳も「そのまま」とは言い切れないでしょうが、それが音声「そのまま」であるかどうかを総務省側は確認できない。手話を使う人がいないからですが、一方字幕だと音声と字幕が食違えば健聴者なら誰でもわかる。もし食い違いがあると当局の責任ということで、字幕の認可には踏み切れないのでしょう。

ろう者が立候補した場合、手話で政見を述べても一般にはわかりませんので、あらかじめ用意した原稿を他の人が読み上げるという便法も規定されています。これはろう者が立候補して手話だけで政見を述べ、音声がないという事例があったので慌てて1年後に作ったものですが、原稿と手話が「そのまま」であるかは問われなかったようです。

手話や字幕は聴覚障害者のための情報保障であるので、実現まで時間がかかり、あるいは実現していないのですが、この原稿読み上げの方は問題が起こって1年で法令の改正が実現した。これは健聴者のための情報保障だから、矛盾には目をつぶって早々に改正した、と解釈してもあながちひがみではないと思います。

(文書図画の掲示)
第百四十三条  選挙運動のために使用する文書図画は、次の各号のいずれかに該当するもの(衆議院比例代表選出議員の選挙にあつては、第一号、第二号、第四号及び第五号に該当するものであつて衆議院名簿届出政党等が使用するもの)のほかは、掲示することができない。
2  選挙運動のために、アドバルーン、ネオン・サイン又は電光による表示、スライドその他の方法による映写等の類を掲示する行為は、前項の禁止行為に該当するものとみなす。

パソコン要約筆記で政見放送や候補者の演説を示すことができますが、これについてはこの条項の「電光による表示」に引っかかるとかで認められていません。ただしこの部分は大勢の前に掲示するという意味があるせいか、一人の聴覚障害者のために1台のパソコンであればよい。1台のパソコンを複数の聴覚障害者が見ることになってはいけない、という解釈があるようです。そこまで言うならば、パソコンないしディスプレイは「電光」による表示ではなく「電波」による表示だから禁止行為に該当しない、という解釈もないものかと思います。

公選法の解釈は判決によるものは少なく、総務省の解釈を元に各地の選挙管理委員会が問い合わせに答えたり、実際の運動等に対して注意するなどということで行なわれています。選挙当局は何はともあれ候補者からの訴訟が怖いらしく、「候補者の平等」ということはよく言っていますが、「投票者の平等」は聞きません。候補者と違って投票者は財力も弱く、団結力も大きいとは言えませんので裁判に訴えることは少なく、選挙当局者の責任回避志向の解釈がまかり通っている、という面は否定できないと思います。

(文書図画の頒布)
第百四十二条  衆議院(比例代表選出)議員の選挙以外の選挙においては、選挙運動のために使用する文書図画は、次の各号に規定する通常葉書及び第一号から第二号までに規定するビラのほかは、頒布することができない。この場合において、ビラについては、散布することができない。
一  衆議院(小選挙区選出)議員の選挙にあつては、候補者一人について、通常葉書 三万五千枚、当該選挙に関する事務を管理する選挙管理委員会に届け出た二種類以内のビラ 七万枚
〔二以下各選挙におけるビラの枚数など〕

街頭演説などを手話通訳することはできますが、要約筆記にはバリアがあります。パソコンを使い場合は前記の通りですし、手書きで紙に書いた場合は、複数のものに見せるとこの条項に触れ、「法定外文書」となるそうです。紙にメモを書いて見せても違反などとは、ちょっとカフカ的な状況ですね。ある専門家も、このことでではないですが、選挙法は非常識な世界だと言っていました。

ホームページやブログが解禁されると、選挙のときに聴覚障害者の受ける情報量は飛躍的に増えるでしょう。ただ、メールによる選挙運動の解禁は難しいようです。ファックスもそうなのですが、同じ文書が一発で複数のところに届くというところに抵抗があるようです。しかし、電話による選挙運動は認められているのですから、ファックスやメールについてもきちんと検討してほしいものです。

なお、ネットによる選挙運動が解禁されても、すべての人がパソコンを持ち扱えるとは限りません。すべての政見放送に字幕と手話通訳をつける必要性は依然として存在します。


裁判・聴覚障害者・外国人

 聴覚障害者と外国人で似たような立場に立つことがあり、それは裁判です。コミュニケーションの保障をしっかりとしておかないことが、人権の侵害につながることは強調しておきたいと思います。

 広島の女児殺人事件でペルー人が逮捕されたということですが、これは以前あった東電OL殺人事件を思い出させます。この事件ではネパール人が逮捕され、本人は無罪を叫んで一審で無罪となったのですが、通常ならその段階で本国に送還されるところを超法規的とも言える処置で国内に留め置かれ、二審も最高裁も有罪で無期懲役となったというものでした。欧米人であれば本国に帰れたのにこうなったということについては、日本の法務行政と裁判所による差別であると批判されています。

 差別という点で外国人と聴覚障害者、この場合は障害者一般が似たような状況に置かれやすいのは、細かく述べるまでもなく想像がつくと思います。

 もう一つは言語の問題です。取調べでも裁判でも外国人や聴覚障害者には通訳を用いることができることになっています。これは明治時代に刑法ができた当時からのことで、古くは外国人への通訳と聴覚障害者への通訳は同じ条項で規定され、後者が主で前者が従、つまり聴覚障害者には通訳を用いることができる、外国人に対しても同様、という形式のこともありました。また通訳といっても今で言う手話のみでなく、筆談の使用も明記された時代がありましたが、この方は現行法では明確ではないようです。

 国政選挙では参議院の比例区で手話通訳を認められていますが、その通訳は「手話通訳士」の資格が必要です。だから、当然裁判においても資格のある通訳が関与すると思われるでしょうが、実はこの方には規定はありません。

 外国人の場合、昨今激増したアジア系の国々の言葉を理解する人自体が少ないのですが、法律用語なども含めて通訳する人を探すのは大変です。これに関していろいろと問題があり、ある地方でインドネシア人が逮捕され、通訳がいなくて商社員の夫と同行してインドネシアに滞在したことがあるという女性が委嘱されました。通訳内容がでたらめだったそうで、二審の弁護士が記録を読んで不振に思い、ちゃんとした通訳をつけたところ量刑がぐんと軽くなったそうです。

 また、中国系や韓国系の人の場合、ある程度は日本語を使える場合が多いのですが、それが裁判で通用するかとなると当然無理があります。そこで通訳を要請したのですが、裁判官が被告の話すのを聞いて、「あなたに通訳は必要ない」と拒否をしたケースが本になっています。

 いつも書きますが私は聞こえないけど手話は流暢でない。しゃべることはできる。現行法は通訳としては手話通訳を念頭に置いているようで、要約筆記が全面的に拒否されることはおそらくないでしょうけど、安心はできないし、さらにしゃべれること、法律的知識が多少あることから、裁判官によっては「あなたに通訳は必要ない」と言われないか不安です。被告にならないようにせいぜい注意することにしましょう。

 一つは法曹関係者の差別意識、もう一つはコミュニケーションの保障、この二つの点で、外国人と聴覚障害者が似たような立場になりうることを理解いただけたと思います。広島県の事件の容疑者が、こういった点でフェアに扱われることを願いたいものです。

 

障害者と美術館・博物館

 今朝は風邪の引きなおしみたいな気分だったので二度寝しましたが、昼食後は元気になって近所の美術館に行きました。車で10分。駐車場から歩いて10分。これは私の息があがるからですが、新しい立派な美術館ほど、駐車場も広くて入り口までの距離があるのは困ったものです。私の場合美術館に入ってゆっくり見ていく分には支障は少ないのですが、これは杖をついている方の一部にも似たような条件の方がおられるんじゃないでしょうか。

 

 つまり、歩くのが遅いかあるいは困難だけれど、ゆっくりとなら歩めるし立ってもいられるというような人は意外におられるのではと思います。最近は美術館の類には車椅子を常備しているのが普通ですが、これを館外の駐車位置まで使えるとありがたいですね。適当に屋根も作っておいて、使った車椅子は置きっぱなしにできるとよい。郊外の大型スーパーなどでは、買い物車をこのようにして使えるところがありました。それでもって大量の買い物を期待しているわけですが。

 

 こういうことを帰ってから投書しようとして美術館のホームページを見たら、いつも言うことですが、連絡手段は電話しかありません。このままでは聴覚障害者の声はいよいよ無視されるので、区立ですから区サイドから物申すつもりですが、今日のところは時間切れでした。

 

 もう一つ言いたかったのは、展示品の説明。最近よくあるボタンを押せばその番号のものの説明をしてくれるというのが500円也でありましたが、私には無用。展示品のそばに書いてある説明より情報量が多いというものでもなさそうです。ところが今日の場合は、光で展示品を傷めないようにというのはよくわかるのですが、暗い中で字が小さいので年寄りには極めて読みにくい。同じ館の他の展覧会のときよりも小さいようでしたが、そう感じたのはこちらが年取ったのだとしても、わざわざことわって照度を落としているのですから、その分解説文がちゃんと読めるかどうか、年かさの館員でも使ってチェックをしておいてもらいたかったものです。字を大きくするなり、字のところに小さい明かりをつけるなり、何とか手はありそうなものです。

 

 美術館や博物館に行くたびに障害者対応に注意が向くのは不幸みたいですが、それだけ公共施設では配慮があるところなので、つい望蜀の言を述べてしまいます。

 

老親介護

 うちでは5,6年前に夫婦の両親がばたばたと亡くなり、親の介護の苦労からは解放されました。私の両親の場合は共に90に達していましたが、あまり言われないけれど、二人いると大変さは倍ではなく4倍くらいになります。一方の親の処置について、もう一方を納得させねばならないからです。私の場合は私が聴覚障害者でもあり、病気もしたのでもっぱら家内が矢面に立ち、消耗させて申し訳なかったといつも思い返します。

 結局二人とも施設で終わったのですが、これでよかったかどうかは、今でも考えるときりがありません。親を見送ったころに、アメリカ人牧師が書いた老親介護の話を訳しました。これは夫人の両親も含む4人の親をどう送ったかの体験談ですが、さすがにアメリカというか、親の中には離婚して新しい相手と暮らしていた者もおり、その離婚の結果で独居していた者もおり、一方で宗教宗派の違いも問題になります。最終的に嫌がるのを施設に入れたケースもありますが、この場合はしばらくすると施設から出るとすごく不安を訴えるようになったそうです。これは、母を一泊の予定で家に連れて帰ってみたが、あまりに落ち着かないので施設に戻したことがあったのと対応する話です。一般的には年をとると細かいことにこだわるようになるが、それによって自分の気持を支えているのだと、聞いてみると納得するような分析も書いてありました。

 この本の著者の言うには、家で介護するのと施設に入れるのと、後で後悔するのは同じであると。つまり、家で介護をすると人手も足りず、設備もないので施設の方がよかったかなと思ってしまう。逆に施設に入れていると、これは言うまでもなく家において介護していた方が大変でも本人のためにはよかったかな、と思うということです。私のところでは後者のケースですが、しかし一人にはしておけない者が二人いると、割り切らないと共倒れです。施設を本拠にして時々家に戻すというのがよさそうですが、これはこちらの消耗度が大変なものですし、また先に言ったように、本人が必ずしもそれを喜ばないということもあるわけです。

 老親の介護をしている、あるいはしていたということを、話したがらない人が多いようですね。これは自分のとった対応に自信がないからでしょうか? あるいは、弱っている親がいるということが、恥ずかしいのでしょうか? 理由はいろいろでしょうが、介護をするとかされるとかということはいずれにせよ避けられないことが多いのですから、もっと体験を話したほうがいいと思います。

 私はそうしていますし、家内もそうなので、老親介護卒業の者としてはいくらか年齢が若いのですが、いろいろと相談を持ちかけられることがあります。寝込みがちになったら入れる入れないは別として施設にどんなものがあるか調べておくとか、ボケきらないうちに通帳とか実印とかのありかを聞いておくとか、こんなことさえ考えていない人が多いと、家内が時々呆れています。

ぎっくり腰と育児

 今上天皇と皇太子は時代の先導者だと思う。女性の方が高学歴で高身長、そして高齢期出産を行ったという意味でである。私の若い頃だと男性の方の背丈が低いと、デートなどの場合不都合だとか何とか言われたものだ。今でも男性の高身長は望まれてはいるようだが、低いからどうという話は聞かなくなっている。学歴のこともそうだが、皇室の例があることが救いになっているケースは、とくにお見合いの場合はけっこうあるのではないだろうか。自由度を広げたという意味で、結構なことだと思う。

 もう一つの高齢期出産だが、これも産みたい時に産むという生活スタイルを後押ししているようである。しかしこちらの方はあまり賛成できない傾向である。高齢期出産のマイナス面は、若いときのほうがお産が楽だとか、産婦が高齢化するに従って障害児の出産が多くなるとか、いろいろ言われるが、これは深刻に取った方がいい。

 知り合いの女性は32歳で出産し、子どもは今6ヶ月。先日ぎっくり腰にかかって大変な苦労をした。他にも似た例を聞くが、30をすぎたくらいでは高齢期とは今時言わないだろうけれど、やはり体力は落ちている。このことはあまり言われていないようだが、考えてみるべきである。知っているケースではそういうことはないが、ダイエットでもやっていたらとてもまともに子どもは育てられないと思う。

 子どもを作る時期は自分で決定するという考え方はとても魅力的だが、人間も動物である以上肉体的制約から逃れられない。政府の少子化対策も「早く産め」とは言いにくいだろうが、それを含んで子どもを早く持たせることを進めてほしい。それには三人目の子供に手当てを出すというのより、最初の子を産む時にうんと優遇することを押し出すのがよいと思うが、どうであろうか。どうしても子どもができない人への配慮が必要なことは言うまでもないが。

聞こえない者の不便(2)タクシー

 私は呼吸器のせいで少し歩くと息があがりますし、2kg強のボンベも引きずったり持ち上げたりしていますから、タクシーを使うことがあります。もちろんお金のこともありますし、座ってしまえばタクシーよりバスの方が楽ということもあるので、しょっちゅう使うわけではありません。

 タクシーを使うのに気が進まないもう一つの理由は、運転手さんとのコミュニケーションです。乗ったときに行く先を言うのにちょっと決断がいります。私は聞こえないけれど、度々言うように一応しゃべれるので、行く先を聞いた上でさらに質問をされることがあり、こうなると聞こえないし、ハンドルを持つ人に筆談させるわけにはいかず、ちょっとミニ・パニックになります。

 最寄の駅からの場合、家族は「○○○マンションでたいていは通じるよ」と言うのですが、通じなくて聞き返されたらどうか。○○○マンションというのは古いし大規模なので知られているのは事実ですが、駅前には他の地区のタクシーも入っているし、知らない人もいると考えた方がよさそうです。そこで、駅はバス道路から少し引っ込んだところにあるのですが、「△△△通りに出て□□□通りの方に行って、突き当たりのところにあるマンション」と一気に言うことにしています。これでまず質問は封じてしまえるようですが、それでも何か聞かれることはあるし、気軽にタクシーを利用する気にならないのはおわかりいただけるでしょう。

 聴覚障害者とタクシーについて検索してみると、氏名・住所を登録しておくことにより、携帯電話でタクシーを呼べるという試みを大阪の会社がしていることがわかりました。呼び出し用の携帯メールのアドレスを公表する方が簡単だと思いますが。

http://www.iwate-np.co.jp/kaigo/k200507.htm

 又盛岡のタクシー会社5社は、タクシーの車内で電光掲示板ニュースを流すシステムを導入したのががきっかけで、飲料自動販売機に位置情報を持たせた2次元バーコード(QRコード)のシールを張り付け、携帯電話のカメラでコードを読み取ることで文字入力をせずに位置情報を送ることを可能にしているそうです。行き先もメールで伝えることができ、非常に便利だと聴覚障害者に喜ばれているということです。

http://www.iwate-np.co.jp/kaigo/k200507.htm

 高度なITよりも、既成の技術でもっと便利になるはずというのが私の持論ですが、こういう工夫がすぐに全国的になるような情報網と推進組織ができるといいのですが。

情報保障と選挙(2)

 「情報保障(1)」 を「情報保障と選挙(1)」とタイトルを変更し、テーマも「選挙と障害者」に移しました。(1)で紹介した小池議員(岐阜県中津川市)は在職中に下喉頭ガンにより声帯を失って発声ができなくなり、代わりの人に議会での質問等を読み上げるようにして欲しいと要請したのですが、議会側がそれを拒否してパソコンによる人口音声にせよと決定したというものでした。なお、小池議員はパソコンは使っていません。代読のかわりにホワイトボードに書くという方法も認められませんでした。

 これに対して人権救済の申し立てがなされ、岐阜県弁護士会と、同人権擁護委員会より中津川市議会と、同議会運営委員会に対し、「勧告書」が出ました。

http://www.geocities.jp/chocoball1018/hatugen/kankoku.pdf

 この中に代読という方法を用いた場合の弊害として中津川市議会議会運営委員会側があげた7項目があり、かつて手話通訳が、そして現在も要約筆記による通訳が被っている偏見の構造がわかるものですので、その部分を引用します。

〔議会運営委員会が、代読の問題点として、指摘するのは、左記のとおり、要旨以下の点である。〕
ア 代読者の感情が入り込む。
イ 選挙で選ばれていない人が演説することになる。
ウ 公選人以外の人が自分の意思で発言してしまうことになる。
エ 本人が意図する発言と異なった発言になる可能性がある。
オ 誤読による代読者の責任問題が生じる。
カ 代読者のパフォーマンスが入り込む。
キ 代読した人がパフォーマンスによりにその機会を利用して次の選挙に立候補することに悪用する危険性がある。

 特定の状況において過度な厳密性を要求すること、及びマイナスの方向への思い込み、この二つは論理性の仮面をかぶった差別に共通なものですが、その典型的なものとして、上記は今後も引用されることでしょう。

 人権擁護委員会は上の7項目について採用するに足りないものとし、またパソコンによる音声変換装置はまだ問題点が多いと結論しています。「勧告書」の勧告の要旨は、次のような常識的なものでした。

 「中津川市議会及び同議会運営委員会は、申立人が、市議会およびその所属する委員会において、市議会事務局職員による代読による方法をもって発言することを認めるよう勧告する」。

 この勧告書が出されて以降の状況はまだわかりませんが、ご本人の小池議員にはお気の毒だけれど、中津川市議会の運営委員会の側もがんばり、小池議員側も訴訟を起し、最高裁で結論が出るとよいと思ったりします。

 なお、私はしゃべる方はほぼ問題ありませんが、聞こえないのでパソコン要約筆記などの援助がないと公の席では話せません。「音声認識」というものがあり、誰かがこれを聞きかじって、通訳の類は入れないが、音声認識の装置は受け入れる、なんてことを言い出さないか心配です。検索すると音声認識は沢山出てきて、いずれも実用化されているようなので、これに限ると勘違いする人が出てきそうなのですが、うまくいくのは相当の制約のあるデータの場合なので、現実場面ではまだ使用はできない段階です。