回廊を行く――重複障害者の生活と意見 -28ページ目

たかをくくる

 明日は耐震偽造事件での第2回証人喚問ですが、最近つくづくと「たかをくくる」という言葉をかみ締めています。11年になる阪神大震災阪神大震災のときに、建設行政が正しく行われていたらこの事件はなかったでしょう。

 大震災が契機となって、いろいろな基準が整備されたのはいいのですが、被害についての総括はあまり聞いたことがありません。古い建造物はともかくとして、比較的崩壊した新しいビルや、倒壊した高速道路などについて、どこからどこまでが不可抗力か。設計の不備や施工の手抜きはなかったのか。これらに対する詳しい報告にも報道にも接していないのですが、あったのでしょうか? 「何しろ地震が大きかったから」ということで、個別の追求はあまりなかったのではないかという私の想像が、間違いであればうれしいのですが。

 総括が不徹底であれば関係者も襟を正すということがありません。逆に「たかをくくる」ということになり、今回の事件の関係者も、「耐震強度を落としてビルが倒壊しても、そうなるのはどうせ大震災のとき。神戸の例を見ても、個別に追求されることはまあないだろう」となったことは容易に考えられます。

 この事情は戦後の日本の政治や経済のリーダーたちについても同じことです。敗戦とその後に元首であった人物は、内心はどうであったにせよ、責任を感じた言動を鮮明にしませんでした。リーダーたちはそれを見ていて責任というものに対してたかをくくり、責任のとり方をあいまいにするということを自分たちも学んで実行し、また実行しつつあるのだと私は考えてiいます。

速記の退場

 国会につきものだった1890年以来の速記があと数年で姿を消し、議事録をより迅速に作成するシステムが導入されるということです。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060114-00000025-san-pol

 まず参院から速記者が直接コンピュータに打ち込む方式に移行し、衆院は音声認識を主体とするシステムになるようです。現在でも衆参の速記は異なった流儀で、最近まであった速記者養成所も別々だったのですが、今後も統一されることはなさそうで、この分だと憲法改正となっても二院制は生き延びるというものでしょうか。

 速記にはもう一つ裁判所の系統があります。これは衆参とはまた別だと思いますし、そのどちらの方に近いかも知らないのですが、裁判所の速記者の間から「はやとくん」 という、速記用のタイプから入力して、漢字変換を行うシステムが開発され、聴覚障害者のための情報保障にも使われています。ただしあまり広まってはおらず、普及活動も頓挫しているようなのは残念ですが。

 私も数年前に一度だけですが実見したことがあります。聴覚障害者のための情報保障である手話と要約筆記は、後者はもちろんとして手話にも要約の要素が入ります。一方「はやとくん」の方は本来の用途が国会議事録や裁判記録ですから、全部を文字化することが目的なので、そのせいか変換に時間がかかって、リアルタイムの情報が必要な聴覚障害者のためには実用にならないなという印象でした。

 しかし私の見た後もソフトは進歩しているはずですから、その点は大なり小なりの改良はあったと思います。それが普及していないのは、他に理由もあるでしょうが、「はやとくん」を使える人々が裁判所の速記者であり、情報保障のための組織を作ったり、研修したり、あるいは最終的に現場で実施したりするための、時間的な余裕が少なかったのが大きいのではないかと思います。今後は原点である速記を知る人も少なくなっていくわけで、「はやとくん」の活動もより下火にならないかと危惧を覚えます。

 衆議院が目指す音声認識ですが、これは発言者一人一人の音声データがあることで正解率が上がるものですので、そのデータを入手するのがまずネックでしょう。音声よりも語彙に重点を置いたシステムもあり、これですと発言の分野が特定されると、はじめての声でもかなり正確な認識を示したのを見たことがあります。国会での質問や答弁で、専門語以外の語彙が豊富というのはあまり想像しにくいですから、この方式のほうが効率的かもしれません。

 いずれにせよ、進歩に際しては古い方式の利点は顧みられないのが日本では常ですが、従来の各種の方式の速記について、技術と経験を保存してほしいものです。

欠格条項に上下あり--皇室典範を考える(1)

 小泉内閣は皇室典範の改正を今度の国会でやってしまいたいようです。次の代が決まっていないならともかく、何を急ぐのかそれこそ理解できません。ふだんは反発を覚える保守派の論客の発言にも、今度ばかりは共感を覚えることもあります。女性天皇、女系天皇ということとは別に、当事者の意見を問わないのはおかしいと論じているからです。改正を論議した審議会か何かの座長であった元東大学長は、「皇族の意見は聞かないし、聞く必要はない」と言っているそうですが、人権にかかわる多くの法律が、事前に当事者の意見を聞くことなしに成立していった、日本の法制史の縮図を見る思いです。

 ところで欠格条項というものがあります。必ずしも障害とは関係しませんが、ここで問題にするのは、このブログでも何回か触れていると思いますが、たとえば現行の医師法(2001年改正)であれば、 
  第4条 次の各号のいずれかに該当する者には、免許を与えないことがある。
  1.心身の障害により医師の業務を適正に行うことができない者として厚生労働省令で定めるもの。
というように、障害を理由として資格の取得を制限する条項です。

 こういうものが皇室典範にあるかというと、それがあるのです。現行のもののは次の通りです。
  第三条 皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる。

 以上は1947年の制定ですが、それ以前の1889年制定の旧皇室典範では、
  第九条 皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シ前数条ニ依リ継承ノ順序ヲ換フルコトヲ得
とあり、ほぼ同一の内容です。

 ここでは皇室典範に欠格条項があることの是非は論じません。では何が言いたいかというと、同じ障害による資格の制限についての姿勢が、対象によってあまりにも違うということです。旧皇室典範の時代に、一般の法令に用いられた用語は、たとえば小学校令(1900年制定)では次のようなものでした。
  第三十三条 学齢児童瘋癲白痴又ハ不具癈疾ノ為之ヲ就学セシムルコト能ハズト認ムルトキハ市町村長ハ府県知事ノ認可ヲ受ケ学齢児童保護者ノ義務ヲ免除スルコトヲ得

 「精神若ハ身体ノ不治ノ重患」と「瘋癲白痴又ハ不具癈疾」ではあまりに違いすぎると言えないでしょうか? こういう姿勢は連綿と続いていたので、前記の医師法第4条は2001年の改正以前は第3条で、
  第3条(絶対的欠格事由)
  未成年者、禁治産者、目が見えない者、耳が聞こえない者又は口がきけない者には、免許を与えない。
だったのですが、1948年の成立時から1981年までは次の通りでした。
  第3条(絶対的欠格事由)
  未成年者、禁治産者、盲、つんぼ又はおしの者には、免許を与えない。

 多くの法律がこういった用語で書かれていたのですが、国際障害者年に伴う動きでようやく改正されました。さらに上記に「絶対的欠格条項」とありますが、これは「免許を与えない」と言い切っており、「目が見えない」などの障害があれば、能力を問われることなく無条件に資格を与えられないということです。これに対して2001年改正の医師法の「免許を与えないことがある」というのは、与えることもあるわけで、「相対的欠格条項」と言います。

 おわかりでしょうが、皇室典範は明治の成立時から相対的欠格条項で一貫しています。障害を表現する用語も人間の尊厳を冒すものではありません。これらは長い間一般の法律とは対照的なものでした。障害を理由とする欠格条項は日本においてとくに多いと言われていましたが、一方でこういうこともあったのです。

選挙の進歩

 今朝の朝日によると、比例代表区に限られていた在外投票を、国内で最後に住民票を置いていた選挙区での投票も可能であるようするとの改正が行われ、来年の参院選から実施されるそうです。これは現在の制度が憲法違反であるという最高裁の指摘によるものですが、その恩恵を受ける推定有権者数は約72万人(04年10月現在)。しかし、05年9月の衆院選で在外選挙人名簿に登録したのは8万2753人にとどまり、実際に投票したのは2万1366人、投票率は25.82%だったとのことです。

 これに対して何ヶ月も海上ですごす船員の選挙権を保障する制度として洋上投票制度 があります。封をした封筒の中に感熱紙を入れ、FAXで送った投票がその中の紙にのみ転写されるという仕組みで投票の秘密を保障しようというものですが、この制度は、公選法改正で00年6月の衆院選から実施され、昨年の総選挙で5回目でした。全国54選管に受信機器が国費で設置され、合計費用はざっと1億円になったそうです。毎日新聞(05年9月1日)の記事によれば、全日本海員組合(東京)によると、前回衆院選(03年11月)で48隻約300人が投票し、単純計算すると、1票の費用は約36万円になる。会計検査院が金がかかりすぎると指摘したそうですが、「貴重な1票の権利行使を単純に費用対効果で判断するのはいかがなものか」と海員組合では言っているとのことです。

 権利の問題としてはたしかに海員組合の言うとおりです。しかし300人が投票したといいますが、投票率は何%でしょうか。というより、この場合の有権者数は何人でしょうか。もちろん、いかに少数であろうと投票する権利は守らねばなりません。そのために特殊な機器、特殊な投票用紙を開発し、数は少ないにしてもそれを利用させたのは、評価されこそすれ非難されることはありません。

 しかし、同じく少数者である障害者の参政権はどうなっているかと考えると、素直に感心していられない気持もあります。もちろんこの方面でもいくつかの措置はとられています。視覚障害者は点字投票が可能ですが、これは戦前普通選挙が始まったころからのもので、世界でも早い例だと言われます。視覚や足に障害のある場合には、郵便投票も認められています。投票所のバリアフリー化も進められてはいます。ALS患者にかかわる裁判の結果で、代筆投票の道も広がったようです。

 しかし洋上投票のような熱意が感じられないのは僻目でしょうか。郵便投票は障害でない、いわゆる寝たきりの人には認められていません。投票箱の出前というように有権者の家で投票する制度は外国では多いそうですが、そういったものは検討もされていないようです。電子投票や記号投票はいろいろな利点があるのですが、候補者の抵抗を気にする当局が積極的ではありません。投票所のバリアフリー化もまだまだで、地元の投票所は車椅子では大変だから、不在投票にして市役所でやってくれといわれた例もあります。

 そして感覚障害者については、選挙関係の情報の伝達が十分ではありません。選挙公報がありますが、これの点字版、音声版は公的なものはありません。政見放送に一部は手話がつきますが、字幕はほとんどの場合許されていません。街頭での選挙演説など、手話通訳はいいのですが、筆記して聴覚障害者に見せるのは違法だそうです。

 こういった問題を解決するために、洋上投票を可能にしたような意欲と経費の投入を望みたいものです。健常者の中のマイノリティも、マイノリティとしての障害者も、等しく法と制度の恩恵を受けられるようにしてほしいと思います。

誇りと愛--もう一度愛国心を考える

 私は聞こえませんが、パソコン要約筆記によって生の講演に接することがあります。いくつかの経験で、一番印象に残ったのは坂村健氏の講演でした。ご存知の方が多いでしょうが、坂村氏はコンピュータのOSであるトロンを1984年に提唱し、ウィンドウズではなくトロンが世界の標準OSになりえた可能性もあったということです。初期には共同行動をとっていたソフトバンクが、土壇場で鞍替えしたことによりウィンドウズの覇権が定まったと言われています。トロンは原則としてオープンに使用できるのですから、そのあたりで正反対のウィンドウズでなくトロンが標準であれば、コンピュータ社会も相当に様相が変わっていたかもしれません。現に携帯電話は日本のほうがアメリカより普及が早かったのですが、これはトロンを採用したかどうかによるようです。現在は坂村氏とマイクロソフトは和解したらしいですが、この点は少々おもしろくないですね。

 さてその坂村氏の講演ですが、若い頃にアメリカに行って、これだけの資源、国土、そして人々の意欲を見て、こんな国と戦争をしたのはつくづく間違いであったことを悟ったそうです。そして、それにもかかわらず日本があれほど経済成長を遂げたことは、もっと誇っていいことだと述べていました。少なくともある時期までは日本の経済の運営は成功していた。それが変調をきたしたのならば、これまでのどの部分が正しく、どの部分が間違っていたかを検証して、間違いを修正すればよい。それを、1回バブルに会ったからといって、それまでのやり方を放棄し、何もかもアメリカ流にすることはないだろう、と。

 その講演のときはアメリカ流というか、弱肉強食の「グローバリズム」をよしとするエコノミストはまだ今ほど正面に出ず、権力の中枢にも少なかったと思いますが、その時点でよくもここまで言い切れたなと思います。めったにないことですが、この講演のときは本当に目からウロコが落ちた思いでした。

 今改めて考えると、一度は成功した経済の運営を、規制緩和とか実力主義の強調とか民営化かに重点を置くアメリカ流に変更した人々と、愛国心を強調したがる人々とは、重なる部分が大きいように思われます。つまり、それまでの日本人の営為を否定した人々が、それでも日本という国を愛せと言っているようなものです。権力を握っている人たちが、自分たちのやってきたことに誇りを持てずに、何が愛国心なのだろうかと思わざるを得ないのです。
 

ひげから広告戦略まで

 ひげが硬いし、電気かみそりだと毛くずが呼吸器に悪いような気がして、もっぱらジレットのかみそりを使っています。先日隣の息子が来て、替え刃を一つくれというのですが、私の買い置きはタイプが違ったようです。私自身替え刃を買うときは神経を使っています。今まで使っていたのは売ってないようになったのでホルダーも買い換えたのですが、ホルダーにはGilletteとしかないのでタイプがわからない。これでは替え刃を買うときにどうしようとHPを見たら、前使っていたのと今のとの2系列があり、同系列のものは同じ替え刃でいいことがわかりました。ホルダーや替え刃のパッケージにはそういうことは書いてないので、新製品が出るごとにいろんな人を悩ませていると思います。

 ジレットで思い出したのは一種の都市伝説で、中央アメリカである植物が発見され、それで作ったものをひげに塗れば、あとは濡れたタオルでふき取るだけできれいになる。しかし早速ジレットが聞きつけて、その植物やそれにかかわる情報を封じ込めてしまったのいうのです。

 この手の噂としてはこれはよくできた方で、もう少し素朴なものとしては、ナイロンを製品化したデュポンは、ナイロンをある程度弱くするまで発売しなかったというものがあります。もう一つ、蛍光灯に関するものがあり、蛍光灯を最初に製品化したのはどこだか知りませんが、やはりある程度寿命を短くなるようにして売り出した、というのです。ナイロンも蛍光灯も、それまでの布地や電球に比べて長持ちしますから、こういう話ができたのでしょうが、さてそれがデマかというとなんとも言えません。

 ここまで考えて、ものの消費を促進させるための電通の十則というのがあったなあと検索すると、「電通鬼十則」というのと、「広告戦略十訓」という二つがあり、前者は電通の事実上の創業者の作った、「仕事は自ら創るべきで、与えられるべきではない。」とか「周囲を引きずり回せ! 引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地の開きができる。 」とかのまずはまっとうなものですが、後者は電通PRセンター初代社長の永田久光氏が1973年に発表した、次のようなものです。

 1)もっと使わせろ
 2)捨てさせろ
 3)ムダ使いさせろ
 4)季節を忘れさせろ
 5)贈り物にさせろ
 6)コンビナートで使わせろ
 7)きっかけを投じろ
 8)流行遅れにさせろ
 9)気易く買わせろ
 10)混乱をつくりだせ

 これは「某大手広告会社の十訓」というように引用されることが多く、電通にとっては名誉なものではないでしょうが、三十年以上たった今、そのほとんどが通用するのを考えると、このような先見の明のある人物がいた電通とはなるほど恐るべき企業だということがわかります。そしてそれと同時に、製品やブランドが次々に表れては消える中で、われわれも消費戦略を考えねばなりません。もっともデフレによる消費者の買い控えは結果として一つの戦略かもしれないので、売る側としても当面は「価格破壊」しか戦略がないとも言えます。その結果製品の質が落ちる可能性も大きいので、いよいよ消費者は賢くならねばなりません。

お天気と障害

 この冬は記録的な寒さで、私個人も家の中で寒さを感じるのは何年ぶりです。前回はいつだったか忘れましたが、呼吸不全は発症していませんでした。寒いと呼吸に困難感があって、家の中で動くのも楽ではありません。これは夏の暑いときでもあって、困難感の感じが違うけど、要するに春秋のように気候がよくないといけないようです。

 昨年は今年のようなことはなかったのですが、これは気温の違いのせいである可能性が大ですけれど、やはり障害の度合いが進んでいるということもあるでしょう。いつかも書きましたが、在宅酸素を始めてからの生存率は5年で50%とかと言われますから。ただし、これも書きましたが、在宅酸素を始めるのは70代になってからが多いので、60前に始めた私に平均値が適用されるかどうかはわかりません。

 障害者と一口に言いますが、そのうちで気候やお天気に影響される比率はどのくらいでしょうか? 視覚や聴覚の人はあまり関係ないようですが、弱視や難聴という方はそうでもないのかもしれません。肢体障害の方は痛みが伴う場合は大いに関係するだろうし、内部障害も種類によってはそうでしょう。呼吸障害もそのひとつですが、ペースメーカーなどは気温と関係があるかどうか。知人がいるので一度聞いてみようかと思います。

 日本の身体障害者法では障害とされるには「症状の固定」が要件のひとつですが、そのせいもあってか病気でなく障害とお天気や気温との関係の研究は寡聞にして聞いたことがありません。

 障害でも精神障害のほうですと、これは影響は大であるようです。悪天候が続けばウツが深まるのは本人でなくても想像できますし、気温でも、また四季のうつろいでも精神状態に影響するのは、これは健常者もそうですから、その何倍も振幅があるかなと思います。精神障害とお天気や気候ということであれば研究もありそうですから、一度手ごろなものを見つけて読んで、身体障害の場合を考えてみる参考にしたいと思っています。

ラッピングバス

 ラッピングバスとは2000年4月から走り始めた、東京都営バスに全面広告を施したものです。都知事となった石原氏の広告料増収のためのアイデアだそうで、従来の枠を打ち破るという意味でなるほどです。同時に配慮のなさもなるほどと言わざるを得ません。でも、悪貨は良貨を駆逐するとまでは言いませんが、都がやったという先例の力は大きく、民営バスの各社も今ではほとんど追随しているようです。

 ほとんど全身が広告にくるまれたバスを見ると、誰しもどれが自分の乗るべきバスかと迷うでしょう。観光バスではないかと見過ごしたこともあります。少し離れていたら、バスが来たと駆け寄って、路線どころかバス会社も別のものだったと気づくことも少なくありません。さらに知的障害者や自閉症者の周囲が困っているという話もあります。

 言われてみると考えが及びますが、就職先や作業所までの交通機関を、やっとのことで覚えたところにラッピングバスでは、一気に記憶を初期化されたようなもので、新たに学習しようにも、同じ会社の同じ路線で同じ広告とは限らないのですから、その後どうしてるかなと思います。加えて自閉症者によくある「こだわり」が特定の広告を対象にしてしまうことがあって、その同じ広告のバスが来るまでいつまでも待っていたケースがあるとか聞きました。

 かなりの財源になるでしょうから、今更全廃は望めないでしょうが、せめて恒常的な部分を増やしてほしいと思います。具体的に言うと、前面はどこのバスでも元のままのデザインですが、背面もそうすべきであり、さらに乗車側は前から中央の昇降口までの部分を元のデザインにすべきということです。これで見た目の恒常性も相当保障され、また離れたところからの認知もしやすくなるでしょう。向かって右側、つまり乗車口のない側は全面広告でもやむをえないとします。

 二、三年前に都の交通局にこういうことを投書しましたが、なしの礫でした。

 この記事を書く前に念のため検索したら、「公共の色彩を考える会」   というのがあり、内部で協議した後で2001年2月に「近づいて前面を見なければどこのバスかわからなくなったという事は、利用者に対して不親切であり、高齢者や弱者も多く利用する交通機関としてのあるべき意味が根本的に間違っていること」などの3項目からなる「都バス車体利用広告に関する具申書」を都に提出したそうですが、まだ何の回答もないそうです。

 さまざまの施策のすべてについてあらかじめ障害者を配慮することは困難であるに違いありません。しかしその施策によって障害者に対するバリアが生じた場合は、それを指摘する窓口を作っておく、またその指摘に対しては可及的速やかに答えるという義務を政府や自治体に課するべきだと思います。今のままでは問題に気づくごとに、どこにクレームを出すべきであるかをまず探さねばならないのにエネルギーを使っています。

愛する対象--愛国心を考える

 お正月から難問ですが、「愛国心」ということについて考えさせられています。「愛国」とはいいますが、「国」というのは一般化できるもので、必ずしも政治的な国とか国体には限定できないと思います。つまりわれわれ一般人にとっては郷土とか家庭、国際的な活動をしている人にとっては文化、政治家にとっては国民、といったものが愛する対象で、それを総称して「愛国」という、いや、思いたいと思います。

 ところが小泉首相は年頭の記者会見で、およそ非愛国的なことを述べました。「一国の首相が、一政治家として一国民として戦没者に感謝と敬意を捧げる」ことに対して国の内外、とくに中国や韓国が批判していることはも「理解できない」と5回も繰り返したことです。新年早々まるでけんか腰の言葉で、中国や韓国と陸上で国境線を共有していれば、軍隊は出て来ないまでも民衆同士の小競合いくらいは起こったかもしれません。この両国に滞在する多くの日本人の不安も高まったことでしょう。実は「戦没者に感謝と敬意を捧げる」の「戦没者」の次に「戦争指導者」という言葉を入れるのが正確で、その点にこそ内外の批判が集まっているのです。それをスキップして無理解な批判の形に仕立てているのが小泉流の詭弁ですが、それはさておき小泉氏は政治家の責務である国民を愛することとは、およそ正反対のことを行ったとしか言えません。自らのプライドには従ったかもしれませんが、そういうものは二の次にすべきなのが本当の政治家です。

 ここで思い出すのは昨年の秋頃に読んだ外電記事で、ブラジルの大統領が西アフリカのどこかの国を訪問して、17から18世紀の頃にその国の地域から多くの現地人を奴隷としてブラジルに連れ去ったことについて謝罪したというものです。つまりは当時国連安保理の拡大でドイツ・インド・ブラジル・日本のG4が常勤理事国になろうと支持確保に努力していた一環なのですが、世代はもちろん、人種や権力の構造も変わってしまったような場合でも、こういう場合はやはり下手(したて)に出るのが外交なのだなと感じ入りました。それに引き換え日本は常任理事国になるのが当然という態度だったのに加え、靖国参拝問題など、隣国の神経を刺激するようなことを続けていたのですから、ことがうまくいくわけもありません。

 イギリスの辞書編集者にしてシェイクスピア研究者のサミュエル・ジョンソンが"Patriotism is the last resort of scoundrels."と言っています。resortは「保養地」「頼り」、scoundrelは「悪党」「ならず者」ですから、これは「愛国心はならず者たちの最後の拠りどころである」とでも訳せばいいでしょうか。すでに18世紀の頃から愛国心はこのように胡散臭い目で見られていたのですが、政治家が愛国心の強調を言い始めるとなると、やはりその内容をとことん突き止めないとうっかり乗れません。その「愛」の対象の「国」に国民は入っているかが、まず確かめたいことです。

 私が愛国心めいたもの、日本に生まれた誇りを感じるのは、テレビや博物館で先人の生み出したものを見たときです。先日のテレビで源氏物語絵巻のことをやっていましたが、源氏物語は世界最初の小説であり、絵巻の方もその百年後の作品で、考えられないような高級な技法によっています。また『なんでも鑑定団』にしばしば出てくる江戸時代の工芸品も、同時代の外国にはなかなかこれだけのレベルのものはないのではないかと、ちょっとお国自慢的ですが、考えてしまいます。どこかで文化を中心にして政治を脇役とする高校教科書でも編んではどうでしょうか。その方が日本の愛すべきゆえんを、心おきなく謳歌できると思うのですが。

読み取りソフトの高速化

 今日の朝日夕刊に「視覚障害者に高速音声ソフト」という記事がありました(3面)。視覚障害者のためにパソコンの字を人工音声で読み取るという情報保障の方法がありますが、それを使い慣れた視覚障害者には読み上げ速度が遅く感じられる。そのことを晴眼者は理解できなかったのですが、東大で測定してみたところ、通常の読み取りソフトは1分に500~880字だったのに対して、視覚障害者が聞き取れるのは1分当たり初級者で700~900字、上級者で1100~1170字だったそうです。そこで1分あたり2000字にまで速度を切り替えられるような新ソフトを開発した、というものでした。

 私は聴覚障害者ですので、聴覚障害の場合これとパラレルなことはないかと考えてみました。映像につく字幕がそれでしょう。テレビの場合1行約15字の、2行分を15秒で出すとかなっています。この数字にちょっと自信はありませんが、私の場合ビデオだと倍速にして、そうすると音が変になるそうですし必要もないから音声なしで見ます。こうすると1時間ドラマの場合、CMも飛ばすとすれば20分あまりで見られることになります。ただ映像もじっくり見なければならないこともありますから、そういうところは1.3倍か等速にしますから、大体30分弱となるかもしれません。

 字幕は何字がよいのか。人によって読み取り能力がどのくらい違うのか。これらについての研究はないでもありませんが、きちんとした報告にはなっていないと思います。やはり聴覚障害者の方が情報を受けるチャンネルが多いし、文字した場合はリアルタイムでなければ、紙でもって享受できるということもあります。リアルタイムだと読み取り以前に入力の速度がネックになりますから、視覚障害の場合のように開発の方向をすっきりと単線にはできないきらいもあります。

 少し違う話ですが、アメリカでは13インチ以上のテレビは字幕放送を画面に出せるようにすることが義務化されています。ボストンに行ったときホテルのテレビで早速試してみたら、大文字で3行の英語がどんどん出てきたので感激しました。もちろんはじめは読むどころではなかったのですが、そのうちに一応追いつくようになり、それでも映像では何をやっているか印象に残らなかったのですが、5日目くらいになるとそれも理解できるようになりました。ニュースショーみたいなもので、結婚式で式の費用をどちらがもつかなど、日本と変わらないような話題だったのを覚えています。このように字幕が一般化していて歴史もあると、読み取り速度についての研究もあるでしょう。英語だと変換がないので直接に全文を入力することが可能なわけで、読むほうの能力に対処する方法も工夫されているのではと思います。