二代目の力
今晩はUSENとLivedoorの提携がニュースのトップになっていますが、USENの宇野社長はIT業界の他の大立物と少し違ってギラギラせず、落ち着きのある感じです。まず親譲りの有線放送というものがあって、そこから積み上げてきたというところが素人には安定感を感じさせるのでしょう。無から有ではどこか虚業の香りがすると、これは化石世代の感慨でしょうが、こちらは何しろ「有」線が起点ですからね。
もっとも今後どうなるかはわかったものではない。後であんなことを書いたと恥ずかしがることにならねばいいのですが。
有線等でのキャリアがあるといっても、ポータルサイトとしてはライブドアの二代目ということになります。ここで思うのですが、新しいことを始める場合、創始者のパワーが落ちたときに代替わりが起こり、今まで陰にいた者が長期にわたって権力を握るということが、政治の世界ではよく見られます。
韓国では軍事クーデター後にトップとなった 張都暎がまもなく朴正煕に権力を奪われ、反逆罪ということで一時は死刑の判決を受けました。キューバ革命では最初大統領はドルチコスという人だったのが、すぐに追放されています。エジプト革命では指導者のナキブがナセルに追われ、一生軟禁されていたと言われます。アルジェリアでも独立指導者のベンベラが軍人のブーメディエンに取って代わられ、やはり軟禁され続けたそうです。
以上のどの場合も二代目の期間は長かったのですが、初代が無力だったかというとそうでもない。担がれた場合もあるでしょうが、おそらくエネルギーと運を革命なりクーデターなりで使い果たしたのでしょう。
あまり関係のないことですが、こういうことを思い合わせると企業の離合集散にも興味がわいてきます。
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オリンピックとパラリンピック(2)
ところで閉会式で、トリノ市長からバンクーバー市長へと五輪旗が伝達されましたが、バンクーバー市長が障害者とは知らなかったのでびっくりしました。事故によるもので、手も不自由なようですが、このような人を市長にするあたり見習うべきだと、オリンピックに集まった選手や役員、報道陣が考えてくれるといいのですが。
14日のブログの(1)で、スキーのジャンプで体格に応じてスキー板を変えねばならないということから、「身長・体重差で用具の大きさを変えるべきだという発想を突き詰めれば、何故パラリンピックを別個に開催するのかということになります。」と書きました。市長が障害者であると知ると、この考えは現実性を帯びてくるのではないでしょうか?
障害者である市長が健常者のオリンピックを主催し、ついで障害者のオリンピックを主催するというのはいかにも変です。障害者が健常者に伍して市長となっているのならば、障害をもつ選手が健常の選手と伍して競技できないわけがない。身体的条件が違うとしても、それを用具等で補うことはすでにスキーのジャンプにおいて行われている。あるいは、障害者の用いる用具で、健常者が競技を行うことも可能であるのですから。
問題は二つあり、ひとつは現市長がそのままオリンピック開催時の市長であり続けるかどうか。これは本質的な問題ではないでしょう。もう一つはオリンピックとパラリンピックを統合することにより、開催期間が長くなりすぎたものにならないかというものですが、この方は競技数を整理することにより何とかならないかと思います。たとえば同種の競技を個人と集団の2回行うものがありましたが、これなど陸上競技では対応のないものもあり、水増しの感はぬぐえませんでしたから。
テレビの音声
テレビ・ドラマに字幕がつくのは朝のドラマと大河くらいだった頃からの習慣で、毎朝NHKの朝ドラを見ています。通勤していた頃は録画でしたが。朝ドラがテーマの掲示板があり、ほぼ同時進行でああでもないこうでもないとやっており、放送終了後に見ていますが、今日は幕切れの音楽がえらく不安をかき立てるようなものだったそうです。
音楽をやっているときは左下に♪といった記号が出るのですが、音楽の内容についてはとても伝わりません。これはもう書いたかもしれませんが、『ローレライ』という映画を字幕つきで見たとき、戦艦に同乗しているドイツ人との混血の少女が時々歌を歌う。字幕には「♪うた声」としか出ないので、この歌は「ローレライ」なのか? 何語で歌っているのか? などと疑問を持ったのですが、そこまでは字幕にしにくい。でもせめて「ドイツ語の歌」くらいは出してもいいのではと注文をつけました。実際はシューベルトの子守唄をドイツ語でだったそうですが。
朝ドラに戻ると、今日は「ウゴビスギ」というセリフがあったがあれは何?と質問した人があり、他の人があれは「無防備」だと答えていました。字幕ではわかっていたのですが、この種の疑問には答えないことにしています。掲示板では聴覚障害などという条件を出して余計な気遣いをさせないためです。でも、新しい固有名詞などが出ると、間違った表記で書く人がいて訂正したくなりますが。
解説放送というのがあり、見えない方のためのものですが、ふつうのテレビの副音声でも聞けるせいか、いつもそれを併せ聞いている人もあります。情景一般の描写の場合など、普通の音声ではやりませんから、副音声を聞いて意味というか、描写の意味がわかることもあるようです。
ここで言いたいのは、誰しも完全無欠に情報を得ることは難しいということです。かつては字幕は100%正確でなければという思い込みがあって、ニュースのリアルタイムでの字幕付与がためらわれていたのですが、最近では誤変換も平気になったようですし、固有名詞の誤りは堂々と(?)訂正するようになっています。
字幕についての協議会があり、出席した折に「健聴者は100%正確に聞き取っているのですか?」と言って出席した健聴の苦笑を買ったことがありました。要は完璧を理由として支援を遅らせろことがあってはならないということです。政見放送に字幕をつけるなど、まずやってみなくてはならないことの一つでしょう。
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オリンピックとパラリンピック
次に人種差別があります。ユダヤ人を迫害していたヒトラーは、ベルリン・オリンピックの間はそれを手控え、有色人種差別の発言を抑えましたが、何かの競技で優勝したアメリカの黒人選手との握手を拒んだということです。これは何もヒトラー個人の差別主義のみのことではなく、木村剛氏 によれば、「水泳、体操(新体操)、そして、冬季オリンピックの各種目。共通するのは、黒人選手が皆無に近い」ということです。アテネ・オリンピックで競泳の男子自由形4×100mリレーは南アフリカ共和国が、競泳女子背泳200mはジンバブエの選手が優勝しましたが、共に黒人が多数を占める国でありながら、優勝した選手たちはいずれも白人でした。
そう言えば今行われている冬季オリンピックでも、黒人の姿は見えないようです。黒人が住むのは暑い国で雪や氷がないから、などと馬鹿げたことを言う人はいないでしょう。米英仏などの国で陸上競技のメダルをさらっていくの選手には黒人がいかに多いかを考えてください。上記の木村氏は触れていませんでしたが、それは考えずともすぐわかることだからで、水泳やスケート選手を育て上げるスポーツ・クラブが、有色人種、とくに黒人に対してのバリアとなっていることの結果が現状なのです。露骨に肌の色を問題にするのでは必ずしもないでしょうが、経済条件が自動的に選択をしてくれます。
このような意味では日本人は差別されていないということになるかもしれません。しかし日本のオリンピック参加の歴史は、日本を狙い撃ちにしたルール変更の歴史だったのではないでしょうか。日本人がオリンピックのある種目で二連勝もすると、早速ルールが変わってしまうことがいくつもありました。競泳の平泳ぎで潜水泳法が禁止され、それを克服してまた強い選手が出てくると、よくわかりませんが、さらにルールが変えられたようです。スキーのジャンプもスキー板の大きさを身体の大きさに比例させるといった、とんでもない発想で日本に不利なようにもってきています。オリンピックの日本選手団というと選手の数に比べて役員が多いことで有名ですが、数が力になるならこういうことにこそ発揮すべきで、ルール改悪に目を光らせて事前に防止して欲しいものです。
そもそもスポーツは同じ条件の中で競うのが本筋でしょう。人間であるからには身体的に差異があるのはやむ得ない。そこを技術と訓練で克服して競い合うのがスポーツのはずです。格闘技には古くから体重差がありますが、柔道は元来そうではなかった。バスケット・ボールは身長が大いにものを言いますが、身長差で別のクラスを作るという話はありません。スキー板にしても規格を決めれば全員がそれを使用するということに何故ならないか不思議です。
身長・体重差で用具の大きさを変えるべきだという発想を突き詰めれば、何故パラリンピックを別個に開催するのかということになります。アルペン・スキーは肢体障害者はチェア・スキーでやるが、その他の者は通常のスキーを用いる。視覚障害者のクロス・カントリーにはマラソンで認められるようなペースメーカーをつける。身長・体重差でスキー板を変えるべしというルールを考え出せるくらいなら、障害者と健常者が並んで技を競う方法は、いくらでも考え出せると思います。
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半量レストラン
それに人間の天邪鬼な心理というやつで、これだと思って買ってきてもらっても、予想通りの味ではないこともある。これはお持ち帰りタイプの料理のときもそうだが、家で食べるのが本筋の菓子類でもその傾向がある。やはり味を享受するには何らかの無駄があるとよいのではないだろうか。適度な運動の後で腹をすかせて、というのも条件の一つだが、いろいろなところへ行って食べて、まずいものも多い中に美味を発見するという過程が必要なようである。
これでは引きこもっていたのではいつまでたってもおいしいものは食べられないことになるので、暖かくなれば出かけたいのだが、ちゃんとしたものを食べた場合にどうしても食べきれずに残すというのが気分がよくない。これは化石世代の習癖かもしないが、残すという行為が生理的にいやなのはわかると思う。
そこでタイトルにあるような、メニューの料理を半量出してくれるというレストランがあればいいなと考えた。早速「半量 レストラン」で検索すると、ほとんどがレシピとしての「半量」、たとえば卵を半量とか砂糖を半量だった中に、とりあえず東京で3軒は「半量」を提供してくれるところが見つかった。そば、イタリアン、懐石と、うまい具合にバラエティがあるので、いずれ試そうかと思う。そばの場合は「どのメニューでも」とあったし、距離的にも近いところなので楽しみである。イタリアンでは半量を出してくれるのはスパゲティのみのようで、1000円が800円になるというのは少々高いようだが、サラダ等他のものはそのままと考えると妥当かもしれない。ただしこれは古いデータの可能性もあるが。そばと懐石の場合は割引があるかどうかは不明である。
このようなところを、私とは違う身体状況、たとえば胃を全摘、半摘した方などや、高齢で食は細くなったがおいしいものは食べたい方などが探しているのではないだろうか。こう考えると需要がありそうである。しかし、前も書いたが高齢化社会の到来ということは声高に言われているのに、一方で高齢者のニーズを満たそうというサービスはなかなか現れない。ここにビジネス・チャンスがあるんだよということは、誰かお行儀の悪い企業家が現れて派手にやってくれるまで、誰にも気づかれないのだろうか。
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遺伝子と政治--皇室典範を考える(2)
もしその第三子が男子であれば現典範では皇位継承順位は三位となります。ところが今国会で皇室典範が伝えられる形で改正されると、六位ということになり、タッチの差で大違いです。改正案は当面棚上げということになるのはやむを得ないところでしょう。
しかし妊娠という生理的現象が政治に影響を及ぼすのは、歴史上いくらでも例のあることであることですが、大時代な出来事と思わざるを得ません。やはりこういう問題をスピーディに改革しようという考え方は間違っています。私個人としては、女性天皇女系天皇を認めるのが「進歩」であるのはたしかとしても、そもそもがその存在理由がつきつめれば伝統という一点に収斂する天皇であれば、今の典範のままにしておき、それで継承者がいなくなればそれが制度としての終焉であるというのが自然だと思っています。もっとも今回の皇室典範改正に反対するのはそれだけの理由ではなく、前に書いたように皇室皇族という当事者の意見を聞かなかったという点に疑問を感じたということもありますが。
王位の継承が身体的な現象に左右されるのは、王位とは本来そういったものだからですが、身体的といえばもう一つ前に触れた欠格条項めいた条件も影響します。スペインの現国王ドン・カルロス1世はアルフォンソ13世の子であるドンファンの長子ですが、ドンファンはアルフォンソ13世の長子ではなく、アルフォンソという長兄がいました。この人が聾唖なので王位継承からはずされたと言われています。これなど簡単に聞きすごせないことです。今の考えで言えば、十分な支援があれば業務が果たせる可能性があると考えるべきではないでしょうか。一般人に比べて人手に不足もないでしょうから。
そう言えばイギリス王室に血友病の遺伝があるのは有名ですが、これはヴィクトリア女王から発すると言われていて、ロシアのロマノフ家にも伝わってかのラスプーチンが付け込む一因となったようです。イギリス王室にはもう一つ聾の遺伝もあるのですが、これは本国では公然でも日本ではあまり知られていません。血友病に比べてこちらの方が知られていないのには、日本人の障害観に理由があるのかもしれません。日本の皇室も天皇に近い一族に聴覚障害者がいるのですが、このことも全然知られていません。ニュースが御懐妊報道で埋め尽くされるのも見ると、マスコミの報道することしないことについて考えてしまいます。
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本の整理(3)
まず元々本についているセロハン、硫酸紙などですが、これはは付属していた方が通常評価は高くなる。特に文庫の硫酸紙は、元パラなどと表記し、これがあって完品となるそうです。そのため、破れなどがあってもそのままの方がよいかもというのですが、破れがあまりひどいようだったら取り払ってもいいとのことでした。
蔵書印は、目録上に蔵印あり、として表記し、通常瑕疵があるものとして取り扱うそうです。あまり大きく目立つ場合は評価が下がるが、常識的な大きさの場合はそれほどでもない。本の外部、表紙や天、小口などに押してあればしみや汚れの類と同様に評価が下がるということでした。
私の場合後者が痛いので、本を読むばかりではなく多少意識して集めるようになった大学生の頃、西洋の護符みたいなのをアレンジした大きい蔵書印を作り、得意になって本の扉やその裏に押したものがあるのです。若気の至りという他ありませんが、これのあるのは一時とは言え愛着のあった本ですから、売却リストからは外すべきでしょう。蔵書印をこしらえたときにちらと考えたのを思い出しますが、直接押さず別の紙に押して、欧米の蔵書票のように貼り付けておくという方法をとるべきでした。
私は切手も集めていたので、XF(Extremely Fine:極美品)、VF(Very Fine:美品)、F(Fine:平均)、G(Good:軽度な欠陥)、D(Defect:欠陥あり)という評価尺度があったのを思い出しますが、この場合も評価のファクターがいろいろあり、さらに切手の残存数という大きなものも加わって評価が決まるわけです。古本の場合は見た目のよさを重視する傾向は昔より強くなっていると思うのですが、やはり内容が第一で、絶版で別の版も刊行されていないということが最も重要でしょう。重要であると信じたいと思います。
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本の整理(2)
手持ちのハヤカワ・ミステリを22冊。河出書房のメグレ警視シリーズを8冊。〆て30冊を希望価格8000円としてリストを送ったら、6520円という査定で、まあいいかと現物を送ったら(送料向こうもち)改めての査定が6190円と少し下がりましたが、了承して代金も振り込まれました。
330円の差額がどうやって算出されたのかわかりませんが、何しろ前回は文庫本50冊で600円何がしだったし、リストを作って送るという作業でなんとなく納得できました。本の状態というのはむつかしいので、私にしても本はきれいなほうがいいには違いありませんが、同じ本なら安いほうがいいという気持もあるし、カバーや箱、ましてや帯の有無にこだわる気はありません。でもこれはかなりのファクターのようです。本の天(上側)にはどうしてもほこりがたまっているので、「天ヨゴレ」とか「天シミ」とか自己流に表現していますが、これでいいかはわかりません。迷うのはカバーとは別にセロファンとか薄紙がついている場合で、破れていなければ勿論そのままですが、破れたのがついていたら取った方がいいのかと考えてしまいます。
その相手の古書店や他のいくつかの検索で価格を推測したりするのですが、絶版といっても改めて文庫などで出ているとそう高くない。でも入手可能でも古い版がいいという場合もあるようです。この辺も自己評価で迷うところです。また若い頃蔵書印をデザインして何冊かの本に押していますが、これはない方がいいようですね。私個人は本の内容にもよりますが、前の所持者の読書歴を継承する感じで、必ずしもいやではないのですが。
一番の迷いは、リストアップをしているうちに、愛着が又出てくる本があることです。蔵書印を押してあるのは当然好きだった本ですから、売値も下がるのならこれらをリストからはずすか、などとも考えます。またたとえば長沼弘毅の一連のシャーロック・ホームズ研究書は、一点を除いてそろえているのですが、これは再刊がないのでまとまった値段にはなると思うのですが、やっぱり惜しくなったりしています。
まあ、それでも少しずつリストを増やしていくのは、老後の時間つぶしに悪いことではありません。当分これを続けて、他の古書店ともコンタクトして、他の分野の本も手放そうと思っています。本箱が空いてくると淋しくなるに違いありませんが。
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障害者は社会のカナリアか?
「東横イン」の脱法ぶりは際限がなく、もはや障害者設備をどうのこうのというような域を超えていますが、きっかけが障害者用駐車場の改造だったことを考えると、障害者がカナリアの役を果たしたようでもあります。
弱者=カナリアなのでしょうか。雇用情勢が悪化するときには、決まって障害者の解雇が先行します。一般的な福祉のレベル低下にも、障害者関係の予算の節約が先触れとなる場合が多いようです。
小泉首相は改革に伴って「格差が出るのは悪いことではない」と述べたそうですが、カナリアの出番が多いということは、格差が増大していることの指標なのでしょうか。
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障害者の「超能力」
常識的なところで視覚障害者の点字の読み取り。これは年取ってからの失明者にはなかなか覚えられないそうです。声で人を識別するとか、音であたりの様子がわかるとか、これは否応もなしに会得する能力でしょうか?
聴覚障害者としての私は中途失聴ですから手話も下手ですが、その分文字情報に依存したので、字がどちら向きであっても読めるのは超能力までいかなくても特技でしょう。初対面のときの筆談で、いちいち書いたものの向きを変えてくれる人が多いですが、その必要がないというのが私の第一声ということもあります。この能力は聞こえなければ当たり前と思っていましたら、先日10年ほど前に失聴したという人に会ったところ、こちらの書くことはその都度向こうの読める向きに直さねばならなかったので、やはりどの方向でも読めるようになるには年数が必要だったのかと思ったものです。
もう一つ空書というのがあり、これは聴覚障害関係のテキストにもある言葉ですが、文字通り空中に字を書くことです。名前の字を教えたりするのに健常者も使う方法ですが、あれで文章を伝えることもあり、聞こえない者にはよく使う方法です。手話を知らない分私はこれに達者だったのですが、考えてみるとこれは字を裏返したものを読んでいるのですね。これが多かったせいか、一時は新聞を読んでいて、もちろん正常な字ですが、見出しなどがひょいひょいと裏返っているような感じに襲われたことがありました。裏返しといえば鏡像文字という言葉もありますが、もっぱらこれで書いたというダ・ヴィンチのメモなど、私が見たら解読が早かったかも。
他に振動で音を察するというのがあります。これで世界的な打楽器奏者になったという人もいるそうですが、たまたま家で一人で寝ているような場合、振動を感知するとちょっと不安になります。振動の場合どこからのものか方向がわかりにくいので、その音源というか振動源がわからないのが理由だと思います。
字の読み取りの場合、この数年の老眼の進み具合は急激で、筆談も大分やりにくくなりました。障害者も人並みに老いるということの一つの証左でしょう。
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