塩釜で乗り込んだ観光船は湾内の島々を巡って、松島の桟橋に到着したわけですが、桟橋側を見る限りではひとかげまばらとも見えようかと。日本三景に数えられる一大観光地なのに?!という心配は全くもってご無用でありまして、陸地側には外国からの来られた方々を含め(そっちの方が多いか?)観光客がごまんといましたなあ。

 

ちなみにですが、「日本三景」はここ松島と天橋立、さらに安芸の宮島を指して言うとは知るところながら、江戸初期の儒学者・林春斎(林鵞峰とも。林羅山の息子であるそうな)の『日本国事跡考』が初出であると。この括りがそこまで遡るとは思っておりませんでしたですよ。

 

 

ともあれ、人出の多さは最初から想定内ではあるわけですが、ここに至るまでには石巻、多賀城、塩釜と、静かで穏やかな巡り歩きができていただけに、少々げんなりも…。桟橋からまっすぐの延長線上に、かの有名な瑞巌寺参道が続いているのですから、いわば浅草の雷門前のようなポイントでもあるからでしょうかね。とまれ、瑞巌寺そのものに詣でる前に、到着時の観光船からも見えていたこちらに向かうことに。

 

 

瑞巌寺のお堂のひとつながら、境内伽藍からはちと離れて海を目の前にした小島の中にある「五大堂」でありますよ。五大堂と聞きますと、ちょいと前に山形県の山寺にも出かけたので、どうしてもそちらを思い出したしまいますが、いずれにも慈覚大師円仁が関係していると同時に、あちらは山、こちらは海と違いはあるも、どちらも景観よろしきところに設けらえたお堂とはいえそうですね。

 

 

お堂のある島までは橋を飛び石のように渡り継いでいくことになりますが、これが「透かし橋」と言われ、上の写真でも想像がつくと思いますが、渡っていくときには隙間から下が見通せる構造になっておるのですな。それだけにここと渡るに観光客としては必ず橋上で立ち止まって記念撮影をしていく。ですので、上のようにがらんとした状態になるまでは待つことしばしでありましたよ(笑)。

「すかし橋」は江戸時代中頃の記録にすでに見られ、早くから透かしの構造であったことが知られています。五大堂への参詣には身も心も乱れのないように脚下(あしもと)をよく照顧(みつめる)して気を引き締めさせるための配慮と思われます。

傍らの解説板にはこのように。山寺の場合には石段を登るごと、心身の清浄を経てたどり着く五大堂したでしたけれど、こちらはこちらで橋を渡る行為が似たような意味合いを持っていたのですなあ。

 

 

と、長い前置きほどには長くない透かし橋をは渡ってたどり着くのが五大堂でありまして、解説板にはこのような説明書きが。

慈覚大師円仁が延福寺を開創した際、坂上田村麻呂に由来する毘沙門堂に五大明王像を安置したことから五大堂と呼ばれるようになりました。現在の建物は、伊達政宗が慶長9年(1604年)に建立したと伝えられています。東北地方現存最古の桃山建築で、雄健な彫刻と、堂内に設えられた奇巧をこらした宮殿型厨子には“伊達”な文化が色濃く表れています。厨子内の五大明王像は、33年に一度開帳されます。

説明の中の「延福寺」というのは瑞巌寺の元々、創建時の名称とか。それにしても、ここでまた坂上田村麻呂の逸話に出くわすとは思いがけずでしたなあ。何かと「勝ち」を求める人が祈願する毘沙門天だけに、坂上田村麻呂もここで対蝦夷の戦勝祈願をしたのでしょうかね。

 

山形の山寺・五大堂からは眼下に山間後を眺めやる形でしたけれど、こちらの五大堂からは松島湾の多島海ぶりを見せる景色が広がっておりました。戦勝祈願というよりも、穏やかぁな気持ちになったものですけれどねえ…。