早いもので3週連続の美術講座「蔦重と3人の浮世絵師」は最終回となりまして、葛飾北斎の話を聴いてきたのでありますよ。先に取り上げられた喜多川歌麿東洲斎写楽はいわば蔦屋重三郎プロデュースということで関係が至って深いわけですが、北斎の方はそれほどでもないようですな。若い頃に蔦重から多少おこぼれ仕事をもらっていたりもしたようですけれど、大々的に知られるようになるのはむしろ蔦重没後のことであるとか。

 

ちなみに、蔦屋重三郎と聞くとどうしても年寄りの商人の姿が浮かんでしまうところながら、亡くなったのは40代後半、50手前であったそうですから、当時としては老人の域とはしても、今から考えると「そのくらいの歳で…」と思ってしまうところです。松尾芭蕉なんかも同様ですけれど、どうも江戸時代の人の歳をかなり上の方に想像してしまいがちなのは何故でありましょうか…。

 

ともあれ、蔦重よりも10歳年下という北斎、蔦重が亡くなった頃には勝川派を飛び出し、二代目俵屋宗理を名乗って肉筆画に取り組んでいたのであると。やがては北斎と称して、浮世絵版画で一世を風靡することになるのですが、根っから絵を描くのが好きだったという北斎の画風の変転は、ピカソなどを思い浮かべるまでもなく画家にはありがちなことでもあろうかと。ただ、こと日本においては絵の修業が先日の模写を重ねた先に自らの画風を見出す形だったわけですから、北斎はやっぱり型破りだったのでしょうけれど。90年の生涯で93回、転居したとも伝わりますし。

 

ところで今回の講座では、限られた時間の中で変転の激しい北斎の生涯を辿るという無理をすることなしに、代表作中の代表作である『富嶽三十六景』を見ていくことを中心に話は進んだのでありますが、それでも全点を見ていくには及ばず(それでも、10分ほど時間は延長されて)。そも「三十六景」といいつつ、好評につき追加で10点が製作されたことで、実際には46景分の作品が残されたそうですな。

 

本来の36点を「表富士」、追加の10点を「裏富士」と(業界では?)呼ぶそうな。静岡県と山梨県にまたがる富士山をどちらから見たときが表なのか、裏なのかといったあたり、(県民感情を含めて言うと)微妙なところではありますので、不用意に使えない用語とも思いますが…。

 

とまあ、そんな『富嶽三十六景』からいくつかを講座では見ていったわけですけれど、まずはやはり(業界で)「三役」と呼ばれているらしい「凱風快晴」、「山下白雨」、そして「神奈川沖浪裏」から。敢えてどこかしらから画像をひっぱってくるまでもなく、絵柄が思い浮かぶ作品であろうかと。

 

ただし、これらが特徴の一端を分かりやすく伝えているということもありませんですが、とにもかくにもそこにあるのは揺るぎなく存在する富士の姿ということで。対比されるのは天候であったり、大波であったりして、それらが微妙にせよ、ダイナミックにせよ、動いているもの、移り行くものが描かれる分、不動の富士の存在感が際立つように感じたものです(講師の指摘はありましたが、個人的にはその印象が至って強く感じられたものでして)。

 

その他の作品を見ていってもやはり不動の富士に対して、周囲に描かれるのは動きあるもの。結局のところ、存在感を示す対象が必ずしも大きく描かれるばかりが方法ではないのであったかと改めて思い至ったような次第でありますよ。

 

そんな、北斎描く不動の富士を見ていきますと、(山梨県との関わりからも)甲斐武田軍団が旗に掲げた「風林火山」の文字が意味する「動かざること山の如し」とは、原典は孫子の兵法にあるにせよ、武田信玄が思い浮かべたのは富士であったろうなあと。

 

一方で、古来火を噴く山と伝わる富士山は宝永四年(1707年)の大噴火以来、比較的鳴りを潜めた状態であっただけに、明治に至ってそれまで駿河府中、すなわち駿府と呼ばれていた町が改名するにあたり、「静岡」という地名を全く新たに作り出したのは市内にある賤機山が由来とはされているも、実はさりげなく富士山イメージだったのでは…と、静岡側に立つとかような想像も出て来たりするのですなあ。

 

いろいろと思い巡らしをも呼び起こす講座を今回も興味深く聴いてきたわけですが、平日昼間の3週連続講座なだけに、参加者の多くはお年寄り…というだけでは当の本人ももはや同様なので、多くは後期高齢者の方々のようでと申しておきますか。講座のマクラとでも申しますか、講師曰く「老人にこそ教養と教育が大事といいますし…」という言葉がでますと、会場にいささかの笑いが。

 

「なぜ、笑いが…?」と思えば、おそらく老齢者の間では共通理解ができているのでしょう、「きょうよう」というのは「教養」でなくして「今日、用がある」ということ、「きょういく」というのは「教育」でなくして「今日、行くところがある」ということを指していると。日々、出かけるところも何の用事のないと言って、家に引きこもってばかりいてはいけませんよということらしいのですな(つまり、富士山のようであってはいけんと…)。思わぬところで老齢者コモンセンスに気付かされる講座でもありましたですよ。全くの余談ですけれどね(笑)。