先週、喜多川歌麿の話を聞いてきた浮世絵講座、3回シリーズの2回目に取り上げられたのは東洲斎写楽でありました。江戸の画壇に突如現れて、10か月ほどの短い間に役者絵を中心に140点ほどを作品を残し、忽然と姿を消してしまった謎の絵師として知られる写楽…とまでは予備知識の範囲でしたですが、果たしてその実体は?というあたり、講座で聴いた話の受け売り(プラス少々の個人的妄想?)ということで。

 

だいたい錦絵の発行は旬のものでもあって、次から次へと新しいものが出され、流行り廃りの移り変わりは早かったことでしょう。一時は世間を驚かせた写楽も10か月しか活動しなかったからには忘れさられるのも早かったのではなかろうかとも。後に写楽を再評価し、世界に知らしめたのはむしろ日本人ではなくして、ドイツ人のユリウス・クルトであったそうな。

 

民間にあって浮世絵研究に取り組んだクルトは喜多川歌麿、鈴木春信に関する著作のほか、写楽の評伝『SHARAKU』を刊行し、この中で写楽をレンブラント、ベラスケスと並ぶ肖像画家であると評したとか。実は同書にそう評した記載はないようで、どこからか生じた俗説が広まったものらしいのですが、それいった説が独り歩きすることになったのは、この評伝あらばこそでもありましょう。そんなことで、欧米で写楽人気が高まったことから、作品の海外流出が相次くことにもなったようで。

 

ともあれ『SHARAKU』の中でクルトは、写楽の正体を阿波藩お抱えの江戸詰め能役者・斎藤十郎兵衛であるとしているようですが、これはそれ以前の説としては定説でもあったそうな。それが得体の知れない謎の絵師とされたのは、むしろ昭和に入ってからさまざまな分野の人たち(美術研究者ばかりでなくして)が、ああでもないこうでもないと面白おかしく?可能性をあれこれしたことによるようですな。それがため、近年になって再調査が進められた結果として、改めて東洲斎写楽は斎藤十郎兵衛であったとする説がほぼ定着しているのだと。もはや謎の絵師ではなかったのですなあ。

 

仕掛けたのはやはり蔦屋重三郎でありましょうね。山東京伝の廓話を出版したことで幕府のお咎めを受け、作者の京伝は手鎖五十日、版元の蔦重は財産の半分を没収されるという事態の後、起死回生の一打としたのが写楽の役者絵であったようで。ネーミングも蔦重が考えたのでしょうか、東洲斎(とうしゅうさい)には斎藤十郎兵衛の「さいとう」がひっくり返して入っており、「しゃらくせえ」をもじった名乗りは転んでもただでは起きないのが蔦重だといわんばかりかもです。

 

ちなみに、斎藤十郎兵衛は阿波藩お抱えということは定職のある身ですけれど、どうやら当時のお抱え能役者には一年勤めると翌年はお休みというような休暇制度があったとか。写楽が活躍した寛政六年から翌年始めまでの期間はちょうどサバティカルだったのかもしれませんですね。また、個性的なデフォルメによる役者の大首絵は世間を驚かせるに十分だったものの、その分、飽きられる、あるいは従来の役者絵とはかけ離れて理想化の無い姿には批判や嫌悪も示されたことでしょうし。そんなことから写楽の正体が自分だと判ってしまっては定職にも差し支えると、斎藤十郎兵衛もほどほどのところで雲隠れを決め込んだのでもありましょうか。

 

それにしても、総作品数140点余り。その中で役者絵が134点とは極端ですなあ。さりながら、それも江戸で行われた歌舞伎興行の時期に合わせて、取り上げられる芝居と配役をそのまま材料にしているとなりますと、蔦重のタイアップ企画でもあったろうかと。当時、江戸では幕府公認の芝居小屋として中村座・市村座・森田座があったのですが、寛政の改革の煽りを受けてこれら江戸三座はどうにも立ち行かない状態にあったそうでして、写楽が役者絵を描いた歌舞伎興行は江戸三座よりも格下の芝居小屋が興行権を譲り受ける形で行われたとなりますと、どうしたって大々的な宣伝が必要だったでしょうから、これに蔦重が乗じたてなことなのかもしれませんなあ。

 

そこで、本来的には絵師でない(つまりは安く依頼できる?)斎藤十郎兵衛の素人ながらも独特な作風を買って、謎の絵師として売り出したのでしょうけれど、まあ、描く方も素人とはいえ、絵にこだわりはあったようでありますね。それは対となることを想定した二作品の対照性にあるような。

 

 

左は写楽の代表作のひとつ、『三世大谷鬼次の奴江戸兵衛』で、寛政六年五月興行として河原崎座で出された演目『恋女房染分手綱』の登場人物ですな。右側も同じ演目から『初代市川男女蔵の奴一平』でして、話の筋では悪党の江戸兵衛が、主のお金を託された一平に襲い掛かって奪い取ることになるという。そんな場面を想起して二作品を並べてみますと、江戸兵衛の前のめりぐあいに「なるほど」と思いますし、一方で一平の方は刀を抜きかけるもすでに及び腰であると。一枚ずつ見ているだけでは思い至らないところなのではなかろうかと。

 

そんな目でもってあれこれの作品を見てみると、役者そのものをブロマイド的に描くという以上に歌舞伎の筋立てを意識した役どころをこそ描いているようにも思えてくるわけですが、当時の役者絵はそれこそブロマイドの位置づけでもあったとなれば、ちとニーズと異なったとも言えましょうね。実際、当初のインパクトは長続きせず、写楽も(蔦重に促されてか)大首絵を止めて役者の立ち姿を描くようになっていきますが、そうなりますとそもそも役者絵で人気のあった歌川豊国あたりに及ばないことにも。かくて写楽は消え去っていく…。

 

とまあ、今回もまた興味深い話を聴いて来た浮世絵講座でありましたですよ。