地元を代表する歴史上の人物を尋ねたとして、戦国大名の名前が挙がることがありましょうね。
中でも、今に至るも結びつきが強いと思しき存在として、熊本と加藤清正、仙台と伊達政宗、
そして取り分けと思われるのが山梨と武田信玄なのではなかろうと思うところです。
信長、秀吉、そして家康によってなされる天下統一の前に亡くなり、
しかも武田家自体、滅亡してしまったというわりには、今でも山梨といえば武田信玄となるのは、
よほどの愛着といいますか、そうしたものがあるのでありましょう。
先に訪ねた山梨県立博物館では「生誕500年 武田信玄の生涯」展が開催されて、
同県内の各種博物館やら美術館やらをこれまで訪ねた中で、これほど来場者がいた展示には
お目にかかったことが無い。やはり関心の高さを窺い知るばかりです。
入り口すぐのところでは武田二十四将の人気投票が行われておりましたが、
そもそも24人もの配下の武将を知っているであろう前提で成り立つ企画でもありましょう。
信玄ばかりでなく、このあたりにまでしっかりした予備知識が山梨県民にはあるのか…と思ったわけでして。
しかしながら、甲斐の虎とも言われ、豪壮な武将であろうと想像される武田信玄、
その姿は例えば甲府駅前にある信玄像のような姿とはかけ離れていたのではないかと
以前読んだ本で知るところとなったのですな。描かれたその姿は、なんともトホホなおっさんで…。
父・信虎を駿河に追放して家督を継いだり、戦さ上手で大きくその版図を広げたり、
川中島では宿敵・上杉謙信と一騎打ちに及んだり、風林火山の旗印、赤備えの軍団などなども含め、
いかにも戦国武将らしい姿として描かれ、記憶されるようになっていったのでありましょう。
そうはいっても実像は…といって、姿かたちは想像するしかないものの、その性格の方は
勇猛果敢とは反対にいささか臆病でもあるような。トホホなおっさんに似合う印象でもありますが、
あちこちに書状を送って「なかよくしようね」と言い続けているようなのですよね、残された数々の書状によれば。
ですから、今思い浮かべる武田信玄の人物像は後に作られたものと思うわけでして、
これには結構、徳川家康が絡んでいるのではありませんかね。
征夷大将軍となって江戸幕府を開いた家康は、源氏こそが武家の棟梁という思い強く、
自らの出自を情報操作してまで源氏の流れに連なると思しき徳川を名乗ったわけですが、
八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏、武田家にはいささかコンプレックスを感じていたかもです。
武田の遺臣を八王子千人同心として抱えたり、
主のいなくなった甲斐国を天領としてみたり、一時的にもせよ親藩を置いてみたり。
後には悪名高い?柳沢吉保が甲斐に入りますけれど、柳沢は自ら武田一族の血脈であるとして
大いに信玄公の遺徳を大事にし、信玄の百三十三回忌法要を営んだりもしたのだそうで。
幕藩体制が確立する遥か前に滅亡した家柄ながら、こうしたあれこれでもって
武田の記憶が途切れることなく受け継がれていった結果、現在でもということになりましょうか。
だからこその信玄公生誕500年記念展示が山梨県立博物館で開催され、多くの人が詰めかけるわけで。
もっとも農民、庶民としては、信玄が築いた「信玄堤」によって洪水被害が無くなったことで
「ああ、ありがたい」と思ったかもしれませんし、また信玄が定めた法律「甲州法度之次第」に見られる
公平性といいますか、そんなところからも「えらいお方やな」という意識ができたのかもしれません。
ちなみに甲州法度にはこのような一条があるようで。
晴信、行儀其の外の法度以下に於て旨趣相違の事あらば、貴賤を撰ばず 目安を以て申すべし。時宜に依って、其の覚悟すべきものなり。
たとえ晴信=信玄本人であっても、この法に違背があるならば、貴賤を問わず誰でも申し出るようにと。
場合によっては自分自身を罰し、法律そのものを変えることもあることを宣言しているようですから、
そんな点でも記憶に残る人物ではあったのだろうと思ったものなのでありました。
ところで、2021年の500年前、1521年生まれという武田信玄、没年はといえば1573年だそうで享年51歳と。
今と昔では年齢相応のイメージに大きな違いはあるものの、もっともっと老人の印象がありますが、
これも思い込みでしかないのですなあ。